「バカだなぁ、梢にそんな誰かを手玉にとれるような器用さなんてないじゃんか」
その日はどうにも気分が晴れなかった。一人で家にいると、想定外の展開になってしまった浅間との一件について延々と考えてしまう。だから、金曜の夜であることもあって、僕は馴染みのバーに来ていた。
僕はそんなにお酒は強くもないし飲めないけれど、このバーは学生時代からの友人であり、かつ、唯一僕がゲイであることを明かしている、|伊勢谷凪《いせやなぎ》の店・レインというバーなのだ。
レインはいわゆるゲイバーというものと言うよりも、性別などに関係なく利用できるようにというコンセプトの店なので、僕のようにゲイであることを明かしていなくても利用しやすい雰囲気だ。
実家の家族も知らない僕を知っている、伊勢谷の店の存在があるので、知らぬ間に溜まる鬱憤を吐き出せる場としてここを利用している。そうすることで、僕が世間でクローズドゲイとしてなんとか過ごせている気がする。
伊勢谷の言葉は、僕が先日のトラブルを助けられたと同時に、ゲイであることを知られたのが浅間という生徒で、口止めに付き合うかピアノのレッスンを迫られている話を受けてのものだ。
僕はジンジャーエールのグラスを煽るように飲み干し、ちりちりする溜め息をつく。
「バカなのは僕が一番わかってる……でもさ、ただ黙っていてくれ、で本当に黙っていてくれると思う?」
「それは俺に言われても。俺、その子知らないし」
伊勢谷は僕の言葉に肩をすくめ、何かカクテルの材料になるお酒やドリンクを選び始める。
今日は金曜の夜なのに、時間が早いせいか店はそんなに人が多くなく、ゆっくりと過ごせるのでつい、伊勢谷と僕だけにしか通じない話をしてしまう。
「そう言われるとそうだけど……」
「でもさ、小さい弟のためにピアノ習いたい、なんていまどきにない感じでかわいいじゃん」
やっとかわいいと思えるようになった小さな弟が喜ぶから、と言うが、本当にそのためだけに僕にあんなことを訊いてきたりするだろうか? 本気で習いたいなら近所のピアノ教室でも充分だろうに。
学校で教師からわざわざ習いたい、なんて単純に暇つぶしが欲しいだけな気がしてならない。
「だからだよ。嘘くさい。絶対僕をからかってるんだよ。ゲイだから、珍しくて遊んでるんだ」
「梢、曲がりなりにも教師なんだから、教え子をそんな風に言うのはどうかと思うけど?」
片眉をあげて言う伊勢谷の正論に僕が黙り込んでいると、伊勢谷は手際よく1杯のカクテルを作ってくれた。薄暗い店内でも鮮やかにきらめく黄色の1杯だ。
「なにこれ? 僕お酒飲めないんだけど」
「シンデレラっていうノンアルのカクテル。お酒の飲めない人でも魔法がかけられたようにお酒が飲めるようになるっていう意味でね、カクテル言葉は“夢見る少女”」
「……僕が夢見がちの子どもって言いたいの?」
「そうじゃなくって。たまには夢見がちになってもいいんじゃないって思って」
「どういうこと?」
「梢はもっと相手をいろんな角度から見て、夢見るようにいろいろ想像してみたらいいんじゃない? 折角、その子が梢を好きだって言ってくれてるんだし」
「生徒に手なんて出せないよ! クビになるじゃんか!」
思わずカウンター席でスツールから立ち上がりそうになった僕を、伊勢谷は手を広げて制し、座らせる。
「そりゃそうだよ。だから、ピアノを教えてあげればいいんじゃん。梢が教師を理由に彼と付き合ってあげられないなら、せめてデートしてるみたいな、夢見るシチュエーション作って答えてあげないと」
「なんでそうなるんだよ……弟のためにピアノを弾けるようになりたいなんて嘘かもしれないのに」
「じゃあ訊くけど、その浅間君だっけ? 彼が絶対に嘘をついてるって、なんで言えるんだよ? はっきりそういうとこを見たりした?」
「そういうワケじゃないけど……」
伊勢谷の言葉に僕が再び口をつぐむと、伊勢谷は更にカクテルの入ったグラスを僕の方へと勧めてくる。黄色の鮮やかな色が思い悩んでいる目に痛いほど眩しい。まるで、僕に好きだと言って来た時の浅間の笑顔のようで、胸に何かがつかえる感じがした。
「梢、相手は初めての恋だって言うんだろ? その初めての恋の相手に選ばれたんなら、教師だという立場の事情があるにしても、大人として、人としてちゃんと向き合わないと」
「それがなんでピアノを教えることになるわけ? 補習だけで良くない?」
「ピアノ教えてあげることになったら合法的にデートみたいなことができるじゃんか」
「合法的にデート? どういうこと?」
僕が眉間にしわを寄せるようにして訊ねると、伊勢谷は呆れたように溜め息をつく。お前それでも本当に教師なのか? とでも言うように。
その伊勢谷の態度にカチンと来て言い返そうと口を開きかけたのを、伊勢谷がさらに言葉を重ねる。
「そういう年頃の子が一番望んでいるのは、好きな人と過ごす時間なんじゃない? 金はないけど、気持ちと暇だけは山のようにある、っていう若い子特有のジレンマがさ」
好きな人と過ごす時間を、一番に望んでいる年頃……確かに、そうかもしれない。
自分で好きに使えるほど稼ぐこともできないけれど、時間と体力だけは有り余っている10代の彼らにできることと言えば、いかにお金をかけずに好きな人と同じ空間と時間を過ごすかは重要なことだろう。
特に僕自身がその頃には男を好きになる自分に気づいていたので、なおのこと好きな人と過ごせる機会は貴重だった憶えがある。
浅間は、初めて人を好きになったと言っていた。それも、僕なんかを。
彼ぐらいの年頃で、同性を好きだと明かすのにどれほどの勇気がいるのか、僕も知っている。知っているからこそ、伊勢谷以外に明かす勇気が持てていない今があるのだから。
それを、チャラそうな見た目だから、という思い込みでフイにしていいわけがないと伊勢谷は言うのだろう。
合法的にデートしているようにするシチュエーションで応える。それが多分僕が浅間へできる精一杯なのかもしれない。
差し出された甘い1杯をひと息に飲み干し、僕は息を吐いて巡らせた考えを一言呟く。
「まあ、そうすることが一番妥当かもしれないな」
妥当に穏便に事を治めて、何食わぬ顔をして卒業までを過ごせればそれでいいはずだ。
頭ではそうわかっているからこそ呟いた言葉だったけれど、自分でも呟きながら自分の言葉に妙な違和感を覚えた。それでいいのか? と、問うようなもう一人の自分の視線を感じる。
そんな胸中を見透かすように、伊勢谷は空になったグラスを下げながら横目でこう釘をさす。
「向こうは全力で告白してきたんだから、妥当なんて考えていることを悟られないようにしろよ」
「……わかってるよ」
そこまで僕だってバカじゃないけれど、だからと言って、全力で来たものに全力で応えられるほどお人よしでもないつもりだ。
だけど、と、カクテルのお代わりに出してもらったジンジャーエールを受け取りながら、僕は考える。だけど、僕はどうして浅間があえて僕なんかを選んできたのかがわからなかった。
あまたいる人間の中から、僕に初めての恋を差し出そうと思った理由が知りたい。
もしその理由があのラブホの前での出来事にも繋がっていくのなら、僕はあの日負った傷みを忘れることができる気がする。
「夢見て子どもみたいに魔法を信じるのもたまにはいいと思うよ、梢」
伊勢谷は長い銀色の髪の隙間から見える目をほころばせてそう言い、自分のためにいれたハイボールを飲む。
その表情は、まるで僕が迷子の幼い子どもでもあるかのような、お節介なほど感じるやさしい眼差しだった。