連日放課後に呼び出すのはさすがに怪しまれるだろうか、と思いつつも、浅間の出席率が低いことは担任の住吉も知っていることなので、逆にそれを利用することにした。
「音楽で補習って何するんすか?」
出席率が悪ければ、単位がもらえず、卒業案件に引っ掛かってしまう。だから、欠席分を補うために放課後に個人教授をしてやると提案してみたのだ。
実際問題、本当に浅間は欠席が多く、鑑賞のレポートが殆ど提出されていないので、補習は言い訳以上に必要だ。
僕ら以外誰もいない音楽室で二人きり、僕はホワイトボードの掲げられた教室前方で、浅間は一番前の真ん中の席に座って互いを見据えている。
昼休みにリストアップしておいた楽曲のタイトルをホワイトボードに書き連ねた僕は、振り返りながら浅間の質問に答えた。
「浅間君は、前期から片手で数えるほどしか出席していないから、欠席した日の曲の鑑賞をしてもらって感想のレポートを出してもらう。あとは、歌のテストも」
「うぇ、マジっすかぁ」
「文句を言うなら過去の自分に言うんだな。だいたい、店の手伝いを口実にあんな時間帯にあんな場所をうろうろしていて……」
「それがあったから、先生あの時助かったんじゃないの?」
「……いまはその話は関係ないだろう」
説教をしてやるつもりが、逆に正論を言われて口ごもってしまうと、浅間は机に頬杖を突きながら「ねえ、こずえ先生」と、訊ねてくる。
「なんだ」
「歌のテストのピアノってこずえ先生が弾くんすか? 音源流すんじゃなくて?」
「僕は音源よりもピアノを弾く方が、音が調節しやすい」
へぇ、すげぇ、と浅間は呟き、頬杖をついてリストアップしている楽曲のタイトルを眺め、ちらりと僕の方を流し見る。その目は薄く笑っていて何かを企んでいる顔をしているように見えた。
「ねえねえ、レポートって絶対なの?」
「僕の授業を受けている生徒は全員出してもらう」
「例外なく? レポートの代わりに何か楽器できたら免除とかないの?」
「ない。そういう特別扱いは嫌いだ」
「そっかー……じゃあ、無理かなぁ、頼むの。先生融通利かなそうだし」
ニヤニヤと挑発するような眼差しをよこしながら、そんなことを大きな独り言で呟く浅間の態度に煽られてはいけない。そうわかってはいつつも、ここで無下に内容も確かめもせず断ってしまうのは、教師としても人としても冷たすぎる気もする。
そうなったら、浅間のような生徒のことだから、「やっぱこずえちゃんは冷血」とか言って回るかもしれない。
そのついでに、昨日のことや、僕がゲイであることまで、するりと彼の口をついて出てしまう可能性だってなくはないだろう。人の口に戸は立てられぬ、とは言うものの、自らが立ちふさがって盾になることは出来るかもしれない。
だから、僕はあえて浅間の言葉に応えるようなことを口にした。
「そういう、思い込みは相手に失礼だと思わないのか、浅間君」
「え、だってこずえちゃんはお堅い、ってのは周知の事実でしょ」
「それは教師だから当然のこと。それとも、僕は生徒の君の頼みごとを突っぱねるほどの冷血漢に見えるのかな?」
煽られたら煽り返すのは大人げないことはわかっているけれど、言われるがまま頼みごとを聞いてやるのは癪な気がしたのだ。
浅間はくすりと笑いつつも首を横に振り、そうじゃないと言いながら本題を切り出す。
「そういうんじゃなくってさ、どうやったらピアノってうまく弾けるようになるのかなーってコツ教えてもらおうかと思って」
「ピアノをうまく弾くコツ? なんでまた」
君のような、夜遊びが好きそうな生徒には必要ないんじゃないのか? という、僕の方こそ思い込みのつまった言葉を吐きそうになって、慌てて口をつぐむ。教師が教え子を不必要に先入観で振り分けてはいけない。
僕の言葉に浅間はブレザーの胸ポケットに手を突っ込み、スマホを取り出して何かの画像を表示して差し出してきた。
表示されていたのは、弾けんばかりの丸い輪郭の、まだ赤ん坊とも言えるほど小さな子どもの写真だ。大きな口許が浅間によく似ている。
「これ、弟」
「えっと、2歳だって言う?」
「そ。すっげーかわいいでしょ?」
「ああ、まあ」
正直僕は、こういう職業に就いてはいるものの、子ども、特に乳幼児の扱いがよくわからない。僕が日頃相手をしているのが、大人に近い高校生ばかりだというのもあるのかもしれないが、とにかく同僚の教師の子どもの写真なんかを見せられても、リアクションが上手くできないのだ。
そういう所が僕よりとっつきにくくしている自覚はあるけれど、身近にそういう幼子がいないのだから仕方がない。
しかし浅間は、僕のそんな下手くそなリアクションが目に入らないくらい幼い弟を溺愛しているらしく、自分で表示させた画像を見入ってとろけそうな顔をしている。
無条件で誰からでも愛される|術《すべ》を持っている赤ん坊になんて叶うわけがないか……そんなことを彼の笑顔を見て反射的に思った自分に驚き、我に返る。僕はいま彼に対して何を想っていた?
「で? その弟さんとピアノがどういう関係があるんだ?」
自分がガラにもないことを考えていたことが、表情から露呈しないように取り繕う言葉をかけると、浅間はスマホから顔をあげ、ああそうだ、という表情をする。それこそ何かをひらめいたような。
「弟――|奏多《かなた》って言うんだけど、奏多が最近子ども番組の歌がすっげー好きでさ、ずっと唄ってんだ。でも、ウチの親は毎日遅くまで仕事だからその姿見られなくて。唄って踊ってるとこ、休みの時とかに見せてやれたらなーって思ってんだ」
「だから、ピアノが弾けるようになりたい、というのか?」
「そういうこと! さすがこずえ先生話がはやい!」
それならCDや配信の音楽でも流しながら撮影すればいいんじゃないのか? とも言ってみたのだけれど、それはなんか違う、と浅間は首を横に振る。どういう意味だろうか?
僕が首を傾げ訊ねるように視線を向けると、浅間はあちこちに跳ねている髪の先をいじりながら心なしか寂しそうな顔をして笑う。
「俺、実は奏多のことかわいいって思えるようになったの、最近なんだ。世話を進んでするようになったのも、遊んでやるのも」
「さっきかわいいだろうって自慢してたじゃないか。前は、違ったのか?」
「恥ずかしいんだけどさ、親の関心が全部奏多に向いてるのがすっげームカついてた時があったんだ。赤ん坊なんだからそうされて当然なのに。だから俺、高校入った頃は補導されそうになるくらい荒れてたんだ」
茶髪とかピアスとかはそういう頃の名残みたいなもんなんだよね、と、僕がチャラいやつと断定していた要素について苦笑して触れている浅間の表情に、何故か僕は胸が締め付けられるほど切なくなった。彼に自らをそう卑下するような言い方を、僕をはじめとする大人がさせている気がして。
「そ、そんなことないんじゃないか?」
「え、そう? こずえ先生、マジでそう思ってる?」
思わず語気強く否定した僕に、浅間は嬉しそうに笑う。その、チャラい見た目とは裏腹の少年っぽさの残るエピソードと笑顔に、強くギャップを僕は感じてしまう。しかもうっかりきゅんとしてしまうなんて……次の瞬間に我に返りはしたものの、鼓動は早鐘のようだ。
そんな僕の忙しない胸中など知る由もない浅間は、すぐに大きく口角をあげて嬉しそうに言葉を続ける。
「春くらいからかな~、なんか俺のこと“にーに”って呼ぶようになって、ちょっと遊んでやったらすっげー喜んだりするから面白くってさ。そしたら気づいたら親の代わりに世話するくらい懐かれてて」
「それなら親御さんも喜んでるんじゃないのか?」
「うん、まあね。だから余計に、こんなにかわいいのに、俺なんでいままで遊んでやらなかったんだろう、ってすっげー後悔しててさ。罪滅ぼしじゃないけど、奏多を思いっきり喜ばせるためにも、ピアノ弾けるようになりたいんだ」
誰かを愛し、誰かから愛される。そのしあわせを味わったことでどうにか更生したらしい浅間は、幼い弟のためにピアノを弾けるようになりたいらしいことはわかった。
単純でまっすぐでうらやましいほど清々しい純粋な彼の望みに、僕は自分をみじめに思ってしまう。
僕はと言えば、昨夜の手ひどい失恋とも言えないトラブルのせいでより一層恋をすること、誰かに愛されたいと思うことそのものが怖くなっていて、浅間の純粋ささえ眩しい。
ふつふつと、妬みにも似た気持ちを渦巻き始めた僕の気持ちなど知らない浅間は、「だからさ、」と更に言葉を続けて口を開く。
「だからさ、俺、ピアノ頑張るからさ、ピアノうまく弾けるコツ教えてよ、こずえ先生!」
涼し気な目許を糸のように細め、無邪気な子どものように――いや、まだ彼は実際子どもなのだけれども――そんなことを申し出てくる姿に、僕は面食らってしまった。
僕は、浅間に卒業できるように補習をするという口実で校内での行動を監視できるし、浅間は単位をもらえてついでにピアノも習える。お互いに利害が一致してはいるけれど、あまりに調子が好すぎる気がする。
「……それは、君の言うことを聞かなかったら、この前のことをバラすという取引のつもりか?」
だから思わずそう訊いたのだけれど、浅間は僕の言葉が思いがけないと言わんばかりに一瞬目を丸くし、すぐに良いことを聞いたという顔をして笑う。あの、片頬をあげる大人びた顔をして。
「俺としては付き合って欲しいんだけど……ま、ピアノ教えてくれるっていうのでもいいけど?」
「ま、まずは授業が優先だ」
「いいよ。その方が俺も有り難いし。じゃあ、それが終わったら、ピアノ教えてくれる?」
「僕はまだ教えてやるとは言ってない」
「じゃあ、俺が約束守らなくていい?」
先生はどうする? と、浅間がニヤリとして言いかけた時、合唱部の部員たちが音楽室の中に入ってきた。
「先生、ピアノ貸してー。音源じゃ音程取りにくいの」
「あ、ああ。どうぞ」
「あれ? 浅間君何やってるの?」
部員の女子生徒の一人が知り合いなのか浅間に訊ね、「サボりバレて補習受けてる」と、浅間は笑って答え、やがて二人は楽し気に話を弾ませていく。
先日僕に好きだと言ったり、さっきも付き合って欲しいと言っていたりしていたくせに、目の前で楽し気にしている浅間の姿にそんな言動の片鱗もうかがえない。
(ただ黙っているだけで飽き足らず、好きだのなんだの言って、ゲイの僕をからかっているのか?)
そう考えはしつつも、向こうのペースになりつつある条件を、飲まなくてはどうなるかわからない。
さっそく自分の想定外の展開をしてしまった事態に僕は頭を抱えたい気分だった。