53話 薄暗い道を行く
ファビオラが19歳になったということは、エルゲラ辺境伯領にあるあの町が、侵略される時期が近づいたということだ。
ただし今のところ、その予兆はどこにもない。
(きっと、未来が変わったんだわ!)
ファビオラは胸を撫で下ろした。
マティアスの私兵団は、まだ装備が整わず、足並みが揃っていない。
内乱を起こしたくても、そのタイミングは遅くなりそうだった。
おかげでファビオラも情報集めに忙しく、侍女姿に変装して活躍中だ。
しばらくカーサス王国へ帰ることもないだろう。
(このままなら、私が殺される予知夢も――)
違ったものになる。
そう安堵していた矢先の出来事だった。
「あれ、会長さん? こんなところで、何しているんだ?」
皇城内を歩き回っていたファビオラは、しゃがれたダミ声に呼び止められる。
その声に覚えがあったファビオラは、驚いて振り返った。
想像した通り、褐色肌でいかつい髭面と禿頭を露わにした、『雷の鎚』のハネス親方が不思議そうに立っていた。
「会長さんだよなあ? 俺が一度見た人を、間違うはずがねえ」
朱金色のかつらを見て、しきりに首を傾げている。
ファビオラはハネス親方の太い腕をつかむと、急いで人影のない方へ引っ張っていった。
「ハネス親方、もう少し声を小さくしてください」
「お、おう! やっぱり、会長さんなんだな」
辺りを窺い、誰もいないことを確認すると、ファビオラは事情を説明する。
「秘密の調査をしているんです。だから私が会長だって、他の人に知られてはいけないの」
「そうだったのかい。こりゃ、まずいことをした」
ハネス親方は大きな手のひらで、慌てて口を押える。
それにしても、これまで誰にも見抜かれなかったのに、どうして正体が分かったのだろう。
「この姿が私だって、よく気づきましたね。しかも、後ろから見ただけで……」
「俺は装備品をつくる職業柄、人を骨格で判断するからな。服装や髪型が変わったくらいじゃ、間違えたりしねえよ」
どんと厚い胸を叩く。
なんと頼もしい才だろう。
間諜をしているファビオラにも、備わっていて欲しかった。
「すごい能力ですね。じゃあ……例えば、あの人みたいに全身がフードに覆われていても、分かるんですか?」
ちょうどファビオラたちの隠れている場所から見える、男性を指さす。
堂々と歩いているが、少しだけ人目を気にしている。
いかにもこれから、誰にも知られたくないことをしに行きます、という態度だ。
「人はなかなか、歩行の癖を変えられねえ。それは骨の長さや強度に、最適な動きを自然と選んでいるからなんだ」
ファビオラが感心していると、続けてハネス親方が爆弾発言をした。
「だからあれは、マティアス殿下だ。自信があるぜ」
「っ……!」
声を上げてしまいそうなのを、慌てて飲み込む。
ついにマティアスが動いた。
ハネス親方と会っているときは、あんな恰好はしていなかった。
と言うことは、これから向かう先は、よほど知られたくない現場なのだ。
ファビオラはハネス親方にお礼を伝える。
「ありがとうございます! おかげで私の任務が、達成できそうです!」
「会長さんのお役に立てたのなら、嬉しいねえ」
禿頭に手をやり照れているハネス親方と別れ、ファビオラはマティアスの後を追いかけた。
かなり距離があるが、ファビオラには隠し通路の鍵がある。
これで通常の道程よりも、かなり先回りができるのだ。
だいたいの方角にあたりをつけ、ファビオラは初めてそれを使った。
◇◆◇◆
「宰相よ、俺の言いたいことは分かるだろう?」
「呼び出してもらえて、助かりました。私もちょうど、お願いしたいことがあったのです」
マティアスが話している相手の顔を見て、ファビオラは愕然とする。
(あれは……アラーニャ公爵!? どうしてカーサス王国の宰相閣下が、第一皇子殿下と密会を……?)
ヘルグレーン帝国との友好にひびが入るからと、エルゲラ辺境伯領の国境の防衛強化を、ずっと拒んでいたのが宰相のオラシオだ。
そんな人がマティアスと話しをするのに、人目をはばかるのは何故だろう。
「とにかく金が足りない。俺は今すぐにでも私兵団を動かしたいが、装備がないんじゃ碌に戦えない。……鍛冶屋には今日も、金が先だと断られた」
ハネス親方が城内にいた理由が分かった。
「装備がそろう数か月後を、待っていられない。あいつも、あいつの生意気な婚約者も、あいつの後ろ盾になっている赤公爵家も、全員この手で葬ってやる!」
「素晴らしい意気込みです。ぜひ、その通りにしていただきたい」
オラシオの返答に、ファビオラはぎゅっと奥歯を噛みしめる。
そうしていないと、この展開についていけなかった。
「ご要望に沿えるよう、まとまった資金を用意しましょう。正妃殿下に渡した定期の分とは別に、私が個人的に融通いたします」
「助かる! その金があれば、あいつを倒して、俺が皇太子だ!」
「戦は派手にいきましょう。マティアス殿下の力を、世に知らしめるのです」
小刻みに震えだした脚を、ファビオラは叱咤する。
ここで知り得た情報を、なんとかヨアヒムやウルスラに伝えなくては。
静かに場を離れたつもりだったが、マティアスに足音を聞かれてしまった。
「誰かいるのか!?」
ファビオラは鍵を取り出すと、すぐに隠し通路へ飛び込んだ。
慌てて閉めた扉の向こうでは、マティアスがきょろきょろと周囲を見渡している。
ばくばくと煩い心臓に手をやり、息を整えてからファビオラは進み出す。
(まだ頭の中が整理できない。一体、何が起こっているのか――)
ヘルグレーン帝国の皇位継承争いに、カーサス王国の宰相オラシオが絡んでいた。
(しかも、資金の提供をしているふうだったわ。さらには、あの言い方だと――)
口の中が、緊張でからからに乾いているのを感じる。
早く、早く、一刻も早く。
ファビオラは薄暗い道を、必死で走った。
◇◆◇◆
ファビオラは真っ先に、ヨアヒムの執務室を目指した。
はあ、はあ、と息が上がる。
何度も背後を振り返り、マティアスが追ってきていないか確かめた。
(第一皇子殿下も王族だから、この隠し通路の鍵を持っている)
もしファビオラが見つかれば、間違いなく口封じのために消されるだろう。
その恐怖で、胃がせり上がる。
吐き気と闘いながら、ようやく隠し通路の出口に辿り着いた。
(この時間なら、おそらくヨアヒムさまは執務室にいるわ)
ファビオラはそっと、扉の向こうを窺う。
しかし、そこには――。
(ソフィさま……?)
先日の生誕パーティで見たばかりの可憐なソフィが、ヨアヒムの胸にしっかりと抱き留められていた。
「っ……!」
見てはいけないものを見てしまった。
寄り添う二人の姿に絶句し、ファビオラは後ずさる。
その瞬間、気配に気づいてこちらを振り返ったバートと、かつらの前髪越しに目が合ってしまう。
ばたん!
ファビオラは勢いに任せて扉を閉めた。
きっと今の音は、ヨアヒムやソフィにも聞こえてしまっただろう。
(私ったら、ショックを受けている場合じゃないのに!)
制御できない感情がうらめしい。
こぼれた一粒の涙を拭うと、ファビオラは来た道を引き返す。
その背後では、執務室側から扉を開けようとしている気配がある。
だが、誰も鍵を持っていないから、そこを開けられない。
(ウルスラさまのところへ行こう。不在でも、奥の部屋で待たせてもらえばいいわ)
どこかでマティアスと遭遇するのではないか、という危機はまだ去っていない。
ファビオラはポケットを探り、そこから取り出したミルクキャンディを口に放り込んだ。
優しい甘さが、こわばってしまった体に、血を巡らせる。
(大丈夫、大丈夫よ。よく耳を澄まして。物音がしたら、反対に逃げるのよ!)
来たときよりも慎重に、ファビオラは足を進めた。
◇◆◇◆
「今、なにか物音がしなかったか?」
ヨアヒムがバートへ問いかける。
胸のボタンへ絡み付いてしまったソフィの髪は、まったく解ける気配がない。
これ以上は公務の時間に支障が出るので、布地を切ろうかと考えていたときだった。
「あ~っと……ヨアヒムさま。多分ものすごく、まずい勘違いをされたと思います」
目を泳がしているバートが、人差し指で本棚を示す。
その裏に隠し通路があるのは、ヨアヒムも知っている。
「まさか……!?」
慌てて本棚へ駆け寄ろうとして、ソフィの髪を引っ張ってしまう。
「痛ぁい!」
「す、すまない」
居ても立っても居られず、ヨアヒムは胸元を掴むと、ビリッと服を破いてしまう。
「きゃあああ! ヨアヒムお兄さま、何をしてるんですか!?」
「急ぎの用が出来た。悪いが、今日は帰ってもらいたい」
破れた布地を預かったバートが、やや強引にソフィを出口へと連れて行く。
完全にその姿が見えなくなってから、ヨアヒムは本棚をがたがたと揺さぶった。
だが、鍵がかかっていて、びくともしない。
「ファビオラ嬢! ここを開けて欲しい!」
何度も叩いてみたが、応答はない。
耳を澄ませて本棚の奥の様子を窺うが、ただ静かで、そこにファビオラはいないように思われた。
「いや~、最悪のタイミングでしたね。あの角度から見たら、完全に愛しあう二人の図でしたよ」
「誤解だ!」
ソフィの見送りから戻ってきたバートへ叫ぶが、バートに言ってもしょうがない。
ヨアヒムはファビオラを探すべく、執務室を飛び出した。