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52話 可愛らしい令嬢

「ヨアヒム、表情を整えなさい」

「笑えません。ファビオラ嬢が、マティアスの攻撃の標的になったかもしれないのに」



 噛み締めた歯の間から絞り出されるヨアヒムの声音に、ウルスラは溜め息をつく。



「ねえ、ファビオラさんを皇位継承争いの渦中に招いたのは、誰?」

「それは……私です」

「マティアスやヘッダ、青公爵家やそれに連なる一族から、何もされないと思った?」

「護るつもりでいます。でも、あんな直接対決をさせる必要は――」

「いい加減、学んだと思ったけれど、甘いわね」



 ウルスラが腕組みをし、その赤い瞳で同色のヨアヒムの瞳を射貫く。

 

「大人しい子ほど、目をつけられて、先に狙われるわ。こちらには噛みつく牙があると、分からせないと駄目よ!」



 ウルスラが想像していた以上に、ファビオラはマティアスに対抗してみせた。

 見どころのある子だ、と思ったから、この舞台を用意したのだ。

 おかげで、招待した第二皇子派の面々は、みなファビオラに好印象を抱いた。

 ヨアヒムの婚約者としての顔見せは、完璧に成功したと言っていい。



「ヨアヒムが考えるよりも、ファビオラさんは強いわ。ただの侯爵令嬢じゃ、マティアスを言い負かせないでしょう?」



 それはそうだ。

 頭ではヨアヒムも分かっている。

 だが、ファビオラとマティアスが対峙している場面を見て、普段は冷静沈着と言われるヨアヒムが平常ではいられなかった。

 バートの制止も聞かず、考えなしに渦中へ飛び出すなど、本来あってはならない。

 

(取り乱したら、敵に隙を与えてしまう)



 ファビオラではなく、己の未熟さが悪い。

 ヨアヒムは俯き、自省する。



「分かったようね。それなら顔を取り繕ってちょうだい。挨拶に回るわよ。今夜のパーティには、中立派も呼んでいるの」

「どうりで……いつもより数が多いと思いました」

「マティアスが違法な私兵を集めるなら、こちらは合法な味方を募りましょう」



 それからは、誰に邪魔されることもなく、パーティは進行した。



 ◇◆◇◆



 緊張しながらヨアヒムとのファーストダンスを終えたが、幸せの余韻に浸る間もない。

 次々に挨拶にくる貴族たちと談笑し、名前と顔を一致させる作業に、ファビオラは全神経を集中させる。

 顔が引きつり出した頃、ウルスラが休憩しましょうとテラスを指さした。

 助かった、と大人しくファビオラは後についていく。



(ヨアヒムさまも、疲れているのではないかしら?)



 そう思って会場を見渡したが、近くにその姿はない。

 ファビオラの仕種で、気がついたウルスラが、心配しなくていいと言う。



「ヨアヒムには、中立派への挨拶を任せているの。ぜひとも第二皇子派に入ってもらいたい、有力な貴族たちばかりよ。さて、上手に口説き落とせるかしらね」



 ウインクをするウルスラは母の顔をしていた。

 どんな結果になっても、よく頑張った、とヨアヒムを褒めるのだろう。



 テラスに出ると、こもった熱気から解放されて、通り抜ける風が心地よい。

 伸びをして、首のこりをほぐしていると、その様子をウルスラが見ていた。



「すみません、無作法でしたか?」

「いいえ、そうやって素でいてくれると、私も楽だわ」



 少しの静寂のあと、ウルスラが話し出す。



「今夜、ファビオラさんが焚きつけてくれたおかげで、マティアスが尻尾を出すかもしれないわね」

「去り際に、物騒な捨て台詞を吐いていましたが……」

「つまり行動を起こすってことでしょ? 平静を失っているときに何かしたら、どうなると思う?」



 答えは簡単だ。



「注意力が散漫になり、初歩的なミスを犯します」

「これからのマティアスが見ものね」



 微笑むウルスラは、月光の女神のように美しい。

 思わずファビオラは見惚れた。

 

「そろそろ戻りましょうか。ヨアヒムも、挨拶回りを終えた頃でしょう」



 ウルスラと共に、会場の喧騒の中へと入っていく。

 すぐに誰かに引き留められたウルスラと離れ、ファビオラはヨアヒムを探し歩いた。

 すると、見事な白髪を蓄えた、恰幅の良い紳士と話し込んでいるのを見つける。

 いつになくヨアヒムの表情が柔らかく、会話が弾んでいたので、声をかけようかファビオラは迷った。

 そうしている内に、紳士の体の影に、可愛らしい令嬢がいるのに気づく。

 艶やかな黒髪と若葉色の瞳、年齢はファビオラよりもいくつか下だろう。

 その特徴から、ファビオラは名前を推測した。



(ディンケラ公爵令嬢ソフィさま――赤公爵家と青公爵家を除いた貴族の中で、最も力のある家門だわ)



 これも皇子妃教育の中で得た知識だった。

 ファビオラのいる場所まで内容は聞こえないが、気の置けない様子からソフィと紳士は親族であると思われる。

 

(それならば白髪の紳士は、年齢的に先代のディンケラ公爵かもしれない。ということは、祖父と孫娘の関係ね)



 いつもは女性を寄せ付けない雰囲気のヨアヒムが、ソフィに何度も笑顔を向けている。

 それでファビオラは察してしまった。



(もしかして、彼女がヨアヒムさまの想い人……)



 息を飲んだファビオラだったが、ちょうど後ろからポーリーナに呼びかけられた。



「ファビオラさま、夜も更けてきたので最後のご挨拶をと思って」



 ファビオラは我に返り、領地へ戻るポーリーナとの別れを名残惜しんだ。

 ポーリーナは頭を下げて、お礼を述べる。



「マティアスさまを追い払ってくれて、ありがとうございました。多分これでもう、私にお声はかからないと思います」

 

 大勢の前で、恥をかかされたのだ。

 マティアスにとってポーリーナは、嫌な思い出の女になった。



「だけどファビオラさま、あまり危険なことはしないでくださいね。前にも不穏なことを言っていましたよね?」



 間諜とか、とポーリーナがそこだけ声量を落とす。

 

「ヨアヒムさまも心配していましたし、私もそうです。どうか気を付けてください」

「ありがとうございます。また私から手紙を書きますね。ポーリーナさまも、お元気で」



 ポーリーナが会場を去り、ファビオラは一人、ぽつんと取り残された心境になる。



(なんだか、ヨアヒムさまを遠くに感じる)



 ソフィと笑い合っていたヨアヒムのもとへ、行く気になれなかった。

 思っている以上に気持ちが落ち込んでいたのもあり、ファビオラもまた、パーティを退場させてもらったのだった。



 ◇◆◇◆



「今夜は、強運が味方した。まさかウルスラが、こちらのテラスに出てきてくれるとは」



 きらびやかなパーティが開催されている最中、ずっと庭園に身を潜めている男がいた。

 男の髪の色は緑で、それがうまく樹々の葉に溶け込んでいる。

 しかし金色に光る瞳は、肉食獣のように、ただ一点を凝視していた。

 

「美しい……月光の女神のようだ。その微笑みで、すべての者を魅了してしまうんじゃないか? 駄目だ、ウルスラ、君は私のものだ」



 ぶつぶつと独り言を呟くのは、カーサス王国の宰相オラシオだった。

 外交と銘打ってヘルグレーン帝国を訪れているが、特に用などない。

 いつも通り、ヘッダへ金を渡しに来ただけだ。

 それだけだと仕事をしていないように思われるので、数日間は皇城に滞在して、有力な貴族と交流を持つつもりでいる。



「もう行ってしまうのか……ウルスラの夜会服姿を見たのは、いつぶりだろう。出会った頃と何ら変わらぬ、聡明さにあふれた容貌だった」



 ほう、とオラシオは熱い吐息をもらす。

 妻のブロッサには一度も感じたことのない、ぎゅうと締め付けられる甘い胸の痛みに、いまだ衰えぬ美麗な眉根を寄せた。



「これ以上、ウルスラと離れ離れでいるのは耐えられない。いっそのこと、早く戦を起こせと、馬鹿皇子をけしかけるか」



 もし内乱が失敗したとて、オラシオには痛くもかゆくもない。

 ヘルグレーン帝国に大きな騒動が起こればいいだけだ。

 そのどさくさに紛れて、ウルスラを攫ってしまおう。



「ヘッダはウルスラを憎んでいる。もし第一皇子派が天下を取れば、ウルスラは五体満足ではいられないだろう。そうなる前に、ウルスラと私でこの国を出るんだ」



 ウルスラに頼られる己を想像し、オラシオの頬は赤く染まる。

 もう誰もいなくなったテラスの向こうでは、まだ生誕パーティが続いている。

 ヨアヒムの婚約者は、カーサス王国の出身だと言うが、どうでもよかった。



「なんとかヨアヒムだけは、殺してしまいたい。いくらウルスラの血が流れていようと、他の男との間にもうけた子だなんて、嫉妬して発狂しそうだ。それに、ウルスラが溺愛するのは、私だけでいい」



 はちきれんばかりの想いを、届けられないのがもどかしい。

 再びウルスラがテラスに戻ってくるのを、オラシオは空が白むまで待ち続けた。

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