case9.誰が為の勉学
「先生、後少しなんです。後少し頑張ってくれれば、クラス分け試験が終わりますから。ねぇ、大智?」
「う、うん、はい、そうです。」
「はぁ、そうですか。」
ある日の談話室。
俺の目の前には、母親と幼い子が二人座っている。
十歳男性。私立小学校に通う小学校四年生。
悩みは、成績への慢性的な不安らしい、母親曰く。学年では中のギリ上くらいの成績を維持している。有名私立中学校合格を目指して毎日学習塾に通っていて、塾には、端的に言えば上中下のクラス分けがされていて、上に行くほどレベルが高い。優秀な生徒のみが集まってハイレベルな授業が行われるという。そろそろ来年の高学年組に向けてのクラス分け試験が行われるということで、一番上のクラスに入れるよう、平日は五時間、休日は十時間以上勉強漬けの毎日だという。
だが、たまに勉強が全く進まない時、やろうとしているのに頭に入ってこない時があるらしい。それで色々医者に見せるうちに、ここに辿り着いたという経緯だ。
「あの先生、ここって、鬱を吸い出してくださる他にも、その、色々できると噂に聞いたんですが、本当ですか?」
ありゃ、結構広まってきたのか。あの画家コンビが言いふらしたんじゃねぇだろうな?いや、一番ありえそうだな。でも何だよ色々って、ドラえもんじゃねぇんだから何でもは無理だぞ。
はぁー
「えぇまぁ、吸い出す以外にも、やることはありますが。」
「だったらその、こう、学力を上げるようなものって、何かあったりしませんか?」
「はぁ?」
思わずぶっきらぼうな声が出てしまった。
しかし母親の目は真剣そのもの。息子は何も言わず目を伏せている。
「学力を、ねぇ。」
100%不可能、とは言い切れない。例えば大学教授か誰かの鬱を吸い出し、それを与えてやれば、少しは勉強に活かせる記憶が残るかもしれない。
鬱ボールは、与えた後また吸い出すこともできる。ただ完全に吸い出しきれるわけではなく、記憶の欠片がその人にこびりつくので、次に吸い出す時はちょっと小さくなる。
そんなことを繰り返して頭の良い人の記憶ばかりを紡いでいけば、少しは学力が上がる可能性がある。
だがまぁ、コスパが悪い。その前に脳が破壊されて廃人になるだろうさ。
「ちょっとできないですね、それは。残念ですが。」
「そう、ですよね…すみません、分かりました。大丈夫です。」
一時の学力のために息子が廃人になってもいいのならいいが。
「とにもかくにも、今日も吸い出していきましょうか。」
「はい、いいよね?」
「うん、はい。」
母親に腕を掴まれながら返事をする。
全く、お可愛いこと。
「それじゃあ目を閉じてください。お母さんも。」
母親は関係無いのだが、一応閉じさせる。鬱ボールに疑問を持たれ過ぎるのも面倒だし。
スッ
スウウウウウウウ
小さな身体から大人に負けないくらいの靄が出る。
そりゃあな。やろうとしてるのに頭に入らないのは鬱の典型的な症状だ。脳が拒否してしまっている。もう無理、疲れたというサインなのだ。それをこうやって吸い出して誤魔化し誤魔化しで続けているのだから、ほっといてもいつか廃人になりそうな気がしなくもない。
クラス分け試験がなんだというんだ、何が後少し頑張れだ、馬鹿らしい。この子の勉強人生はまだまだ続く。クラス分け試験が終わって最上位のクラスに入れたとしても、今度はそのクラスを維持するための勉強が始まる。その上でようやく中学受験のための勉強をしていく。それが終わっても次は高校受験がある。その次は大学受験。加えて、この母親、父親もか、彼らはきっと息子が中学に行っても高校に行っても塾に行かせるだろう。その度にこの子は最上位のクラスにいることを強いられる。ずっと勉強の理由を外から与えられる日々。苦痛に感じても無理はない。
偏見だが、なんだかこういう子は大学で失敗しそう。大学に入ったら流石に自分の時間が増える。親の目も塾も無いはずだ。その解放感の中、どうして自ら勉強地獄に戻るというのだ?そうやって今までの反動から勉強と疎遠になっていって、一番勉強すべき時に何も身に付かない。やがて就職という頃になって、焦る。自分の手札があまりに少ないことに。大学院進学も一つの道だが、勉強の意思も無いのに惰性で行くような人間には不適だろう。
俺は勉強はそこそこできた方だが、小学生のうちからこんなに勉強した覚えは無い。小学生の頃なんて蟻の巣穴に水ぶち込んだり、教卓の中に蝉の抜け殻大量に突っ込んで先生をビビらせた思い出しかない。中学生からはネトゲに嵌って、そこから大学生まで代わり映えのしない毎日だった。大学は結構テキトーに過ごしてたし、何か身に付いた気がしない。女関係で痛い目見たくらい。それで結局、大学も終わってから身に付いたことで飯食ってんだから、分からんわなぁ人生なんて。
勉強って何のためにあるんだろうなぁ?お前の努力は将来の自分のためになるのか?パパとママはそう言ってるだろうけど、自分ではどう思う?なぁ?
スゥ…
靄が出なくなった。
が、しかし。
「このまま、お母さんも抜いていかれます?」
「え、あ、私もですか?いえ、その、私は…」
「いいからいいから。案外悩みなんて多いものです、特に大人は。」
「はぁ、じゃあ、試しに、お願いします。」
「分かりました。じゃあ君も、まだ目を閉じててね。」
こっくり
目を強く閉じたまま微かに頷く。
スッ
スウウウウウウウウウウウウ
やっぱ出るじゃあん。こっちは何を考えているのかなぁ?
三十五歳女性。
悩みは、何だろうな、多分息子の進学先と、家計とかだろうか。
専業主婦で夫は普通のサラリーマンらしいから、まぁ収入に対する出費が多くて不安だろうよ。私立だし、塾の月謝だって馬鹿にならない。月四万円くらいかかるらしい。たっけぇよな。中学、高校のクラスだとこの倍くらいになるという。全く、うちのじいちゃんちの近くでおっさんがやってた個人塾なんて、一月三千円で小学生も中学生も教えてたぞ。遊んでるんだか勉強してるのか分からんくらい騒がしかった記憶があるが、でも子供なんてそんなもんだろう。遊ばせろよなぁ。人格形成期の抑圧は絶対大人になってから響く。圧で歪んだ形のまま大きくなるから、一生治らないぞ。
子供は勉強で苦しい、母親は息子の進学先と家計で苦しい、父親は仕事と家庭と、こっちも家計で苦しいか。自分の収入一本だもんな。飯の贅沢もできんわな。
一体誰が幸せになるんだか、やれやれ。
スゥ…
こちらも出なくなった。
「はい、終わりましたよ。どうですか、お二人とも?」
「…何だか、気分がすっとしてます。視界が晴れたような感じで。何で今までやってもらわなかったんだろうって、今は思います。」
「これ本当にいいよ、ママ。また頑張れそう。」
「本当?良かった。晩御飯はお肉にしましょうねぇ。」
「やったぁ。」
「先生、本当にありがとうございました。」
「いえいえこちらこそ。またどうぞ。」
しっかり会計二人分取ってやった。キャッホゥ。
『郷坂大智』
『十代前半男性』
『進学へのプレッシャーからの鬱』
『郷坂優香』
『三十代半ば女性』
『息子の心配と家計の不安(推定)』
その日の夜、クリニックを閉めて家への帰り道。
もう家まで後一分ほど歩けば着くというところ、人通りも少ない。
ここで懐から、さっきコンビニで買った缶チューハイを取り出す。
カシュッ
歩きながら開けて、
ごっくごっく、ごっくん
ぶっはぁー
僅かな人目も気にせず喉を鳴らして飲む。
「あぁ、至福…」
夜空を見上げる。星が瞬いているような気がするが、目がかすれて見えない。視力がさらに落ちたのかもしれない。
ごっくごっく
だがそんなこと気にしない。いつだって酒は美味いのだから。
ぶふぅー
「見てるかぁガキどもぉ。これが勉強を越えた大人の姿だぞっとぉ。」
火照り始めた頬を夜風が叩く。
実に心地良い、ちょっと悪い大人の時間だった。