case10.なし崩しの運転
「おはよう、ガジュマル。」
そう声を掛けると、
「おはよう!」
と聞こえてくる気がする。
する訳ねぇだろ。何言ってんだか。
すまんすまん、俺はちょっとイラついている。今朝、歩いている時に自転車と接触したからだ。そんな大層なことではない、肘にコツンとした感触があったくらい。
(あ、当たった。でも、このくらい…)
と思っていたところ、
ピュー
自転車はそのまま走り去って行った。一瞥をくれることもなく。
「はぁ?!ふざけんなよ!」
思わず声が出た。小声だったが。
俺はもちろん歩道を歩いていた。真ん中を占拠していた訳でもない、人とすれ違いができるくらいには端に寄っていた。
自転車はママチャリだった。チャイルドシートが付いており、多分三十代くらいの女が乗っていたと思う。顔は見えなかった。走って追いかけても良かったのだが、面倒だったのでやめてやった。感謝しやがれ。
歩道を通るなとは言わんよ?車道で自動車と同列に走るのは怖いだろうから。でもさぁ、歩道で歩行者と同列顔するのはやめない?大男でも小学生の自転車に突っ込まれたら流石に体勢崩すでしょ?ぶつからないように減速するとか、一旦降りて通過するとか、色々あるじゃん。それらを無視して自分の都合だけで歩道を走るのってどうなんだろうと思うんですよ。
せめてぶつかったかもしれないと思ったら、振り返って会釈して、
「ごめんなさい。」
くらい声掛けしてくれればトラブルも起きないのに。そんな世の中じゃあおちおち安心して道も歩けませんよ、全く。
ガラッ
「すみません。」
おっと客だ客だ。こんな不満顔ではよろしくない、顔を作らないと。
にぃっ
薄ら笑いを浮かべて、
「はい、どうしました?」
四十六歳男性。物流トラック運転手。四人家族。妻と息子と娘。息子は大学二年、娘は高校二年。
悩みは、節々の痛み。長年の運転と重い荷物の積み下ろしで身体中にガタがきているらしい。特に首と腰。最初聞いた時は整骨院に行けよと思った。だがそう単純でもないらしい。痛みが直接辛いというよりは、そんなに身体をボロボロにしながらも働かないといけない現状を思うと、憂鬱になって辛いということ。人間の機微とは不思議なものだ。
運転手としてはそこそこ古株になったが、それでも世間的に見て給料は低い方に当たる。子ども二人を大学に行かせるために、自分が使う金はできるだけ節制して働き詰め、せめて下の子が大学に行くまでは倒れるわけにもいかないそう。以降は奨学金で何とかしてもらうらしい。ようやるわ。
それで毎週整骨院に通う金を惜しんで、月一で通うことにしていたが効果を感じられなかったので止めてしまい、ドラッグストアの湿布や塗り薬で耐えているという。それでも辛いは辛いので、二月に一度のご褒美でここに来て、やる気を取り戻すということ。
「お身体の方はどうです?良くなったりしました?」
社交辞令で一応聞く。
「いえ、それがなかなか…休憩取りながらやってはいるんですが、なんせ仕事は仕事なものですから。どうしても身体は使ってしまいます、はい。」
そう言いながらゴツい手で首の付け根をさする。服の襟から白い湿布が痛々しく覗いている。
俺も首とか肩が凝ってしょうがないんだよな。歳かな?
「それで先生、お願いします。」
「あぁ、はいはい。抜きましょう抜きましょう。」
スッ
スウウウウウウウ
物流って大変だよな。たびたびニュースで、高速道路でトラックが居眠り運転して大事故を起こしたと報じられる。その度に運転手の労働環境が指摘されるが、指摘されるだけで何も変わらない。人手が増えるわけでも納期が延びるわけでもない。
「いつかAIで何とかなるから!」
「いつか外国人がやってくれるから!」
この二つの言い訳で隅に追いやられている。そんな仕事はいっぱいあるんだよな。
「こういう実験結果があります!」
「こういう雇用が増えています!」
って実例を見せたくれたって、直ちに端々の現状まで変わるわけではないし、救いの手を差し伸べる人が増えるわけでもない。
言い方アレだけど、虚しい仕事だよな。搾取される側というか。どうしようもないことだし、自分がその立場でなくて良かったとしか思えない。さらにそこに扶養家族という重しがのしかかって、一切身動きが出来なくなる。
それが嫌だったら、自分で何かを生み出すクリエイティビティを身に着けないといけないのかもなぁ。それもそれで茨の道だと思うが。
まぁ俺は吸い出してボールをころころさせるだけで金が入ってくるが。良かったぁ黒魔術の才能があって。
スゥ…
自分の境遇を喜んでいるうちに、靄が出なくなった。
「はい、終わりましたよ。どうですか?」
「いやぁ、ありがとうございます。やっぱり気分が軽くなっただけで、身体も軽くなりますね。」
そうにこやかに語る。
んなわけねぇって。どこもかしこもガチガチに固まったままだよ。目を背けないで。
「これでしばらくは大丈夫ですよ。本当にありがとうございます。」
「そう言っていただけて嬉しいです。またどうぞ。」
『土間健二郎』
『四十代後半男性』
『仕事と扶養から感じる閉塞感』
子供が大学に行ったら救われるのだろうか。大学なんてまだまだ始まりの段階なのに。子供は色々悩むだろうし、親に頼りたいことだってあるだろう。その時親に金銭的に余裕が無かったら、自然と選択肢が狭まることだろう。きっとそのことは薄々気付いてるはずだ。死ぬまで、もしくは定年までこの生活を続けなればならないことに。
子供とは無垢で残酷だ。まさしく先祖の屍の上に立っている、自覚無しに。
「だからって勉強頑張れるか?何の束縛も無しに、正しい方向に頑張れるか?無理じゃねぇか?だって『自分の人生』だもんなぁ?なぁ、ガジュマル?」
ガジュマルからは何の返事も無い。ただ真っ直ぐに立ち尽くしている。
帰り道。いつもと違う道を通る。ちょっと思い立ったことがあり、帰る前にそこに立ち寄るのだ。
すると、後ろからヘッドライトが差し込む。自転車が来たと分かる。今朝のこともあって自転車には敵意がある。道を譲ったりはしない、横を通りたければ勝手にしろという思いでいると、
「な?!」
なんと正面からも自転車が来た。なんということだ。左側通行でない点でも道路交通法に違反している。歩行者一人に自転車二台が同時にすれ違うスペースなんて無い。今ここに、誰かが自己犠牲の精神を発揮せねばならない事案が発生した。
ザッ
俺は歩みを止めない。ここは歩道なのだ。何ら気後れする必要は無い。胸を張って堂々と進めば良い。
ザッザッザッ
さぁ、お前らはどうする?
すると、
キィッ
お?
正面の自転車が進行を止め、車体を端に寄せる。お先にどうぞ、という体勢に入ったのだ。
勝った。
ふすぅー
鼻から強く息を吐き、凱旋の足取りを味わう。振り返らないが、きっと後ろの自転車も付いてきているのだろう。
少し歩いたところで、
ピュー
俺の横を自転車を通り過ぎていった。どこにもぶつからずに。
後ろを振り返る。道を譲った自転車も既に走り去っていた。
「まぁまぁだな。」
自分の権利をそんなに侵害されなかったことにそこそこの満足感を抱きながら、目的地に向かった。
一時間後。
(うぅ〜っほぉ〜♡きん、もち、えぇ〜♡)
とあるマッサージ店でうつ伏せになって施術を受けていた。決してエッチなものではない。俺は服を着ているし、やってくれているのもおっさんだ。決してそういう傾向のお店でもない。
(だがおっさんだからこそ、うほっ♡その、熟練のテクで、おぉっ♡キクとこをちょうど良く、ほぐして、くれるぅ〜♡)
グィグィ
おっさんは実に的確な所を突いてくれ、力加減もこちらの反応を見つつ痛気持ちいいくらいのところで抑えてくれている。
グィィィ
(うぉぉぉ〜♡)
六十分しっかり楽しんだ、はず。
退店。
首と肩が面白いくらい何の抵抗も無くくるくる動く。
楽しんだはず、というのは後半寝てたから。最初こそ内心リアクションを取っていたが、後半から慣れてきて気持ちいいしか感じなくなったから。まぁいいや。
やはり作業時の姿勢を指摘された。いくら性格が根暗でも、やはり猫背は良くないらしい。今度から気を付けよう、できれば。
「うぅ〜ん。」
背伸びを少し。視界まで晴れた気がして、夜空に星がよく見える。今までやってもらったことは無かったが、こんなにいいものとは。もっと早くやれば良かった。
「吸い出してやったら、皆んなこんな気分なのかもしらんな。」
ちょっとその気持ちを味わうことが出来た気がする。
それと、
「あのおっさん、もっと来ねぇかな?来たらその金で毎回、マッサージに行ってやるからさぁ〜?」
邪な考えも思い付く、気分がいい夜更けだった。