case11.性なる仮面
今日も診療所には一人の患者が。
今回は珍しく、戻し入れを希望する患者だ。まぁロクでもない理由だろう。詳しく見ていこう。
談話室には一人の女性、もとい男性が。髪が長く化粧をしており、レディースのワンピースとパンプスを身に纏っているが、骨格は男そのもの。
顔に髭は一片も生えてないが、彫りが深く目つきも鋭い。爪にマニキュアを塗っているが、指と腕は骨張っていて筋肉質。足を閉じて座り、太腿の上で手を重ねる仕草には女性らしさを感じる。
いまいち目のやり場に困るので、少し目線をずらしながら話し掛ける。
「お久しぶりですね。調子はどうですか?」
「まぁまぁです。」
声は高くもなく低くもないが、確実に喉仏を感じる男声。
二十七歳男性。サラリーマン、いや、会社員。大手保険会社の総務で働く。高校二年生の頃から自分の性に違和感を抱き、学生服や体操服に何となく抵抗を感じていた。大学生になって自由な時間と金を手に入れてからは、しばしば自分に合いそうな女性ものの服やアクセサリーを買うようになった。最初は通販で買っていたが、サイズやデザインが実際と違うという事態によく見舞われたため、やはり直接買いに行きたいと思っていた。しかし一人では恥ずかしい、特に下着は。そこで意を決して仲が良かった女友達に性事情を告白し、味方になってもらうことに。幸い彼女には受けて入れてもらえた。むしろノリノリになって、あれはどうだ、これはどうだと進めてくれたらしい。ここが人生のターニングポイントとなったそうで、思い切り好きなものを身に付けるきっかけとなった。彼女には本当に感謝しているという。そうして少しずつ女性のファッションを身体に馴染ませていくとともに、美意識も高くなった。全身脱毛の施術を受け、身体のラインを意識するようになった。性の理解者が傍にいて、かつ自分が望む性に近付いていく実感があったこの頃はとても楽しかったそう。
だがいつまでも楽しんでばかりはいられない。悩みは、職場での性的アイデンティティの維持。自分の性をオープンにしつつあったが、就職活動の際はそれを隠していた。スーツに身を包み、ネクタイを締め、男らしい経験から自分をPRした。その期間は精神的に辛かったらしい。面接が終わるとすぐさま家に帰り、叩きつけるようにスーツを脱いで涙ぐんだ。
それで就職先が決まってからは、いっそう憂鬱になったという。
「職場でどれだけ受け入れてもらえるかは未知でしたから。最悪、もう一生これを隠して働かないといけないかもしれないと思って、すごく落ち込みました。」
「はぁ、そうですよねぇ。」
わ、分からん。そんな気持ちになったことが無いからさぁ。
それでしばらくは性事情を隠して働き続けたが、一年弱で限界が来たそう。ご飯が喉を通らず、吐き気もする。退職から自殺まで考えるに至ったが、大学時代友達だった彼女、今や恋人になったが、彼女の説得を受け会社に打ち明けることに。
「大分困惑していました。前例が無いみたいで、会社としてもどう対応するか悩んでいました。男性の服装はスーツに限ると、就業規程にもありましたから。」
「そうですよねぇ、難しいですよねぇ。」
理解出来ないことにはとても無力だ。適当に相槌しとこう。
打ち明けた結果、元の営業部から総務部に異動させられた上で、特例として服装の自由などを認めるということになった。加えて、原則在宅ワークは禁止されていたが、毎週火曜と木曜のみ在宅ワークを許可された。これらの措置のお陰で、出社時には女性のファッションを楽しみ、また家で落ち着く時間を確保することが出来たという。この措置が今もずっと続いている。
だが懸念もある。この特例について、人事部は良く思ってないらしい。人事部は就業規則を改定するつもりは一切無く、服装はともかく在宅ワークはなるべく止めるよう圧がかかっているという。
「原則は在宅を認めていないから、僕だけが認められてる状態なんです。それで他の人、特にお子さんがいるような方々が僕を引き合いに出して、自分達も許可してほしいと人事に働きかけてるんです。でもなかなか通らないみたいで。」
「なるほど。それ、大野さんはどう思ってるんです?」
「正直、他の人が許可されるかどうかはどうでもいいかなって思ってます。ただ在宅ワークはありがたいので、一度許可した以上、それを取り上げるのはやめてほしい。そういうスタンスで人事部に言ってます。」
別途かかっている精神科の先生から、在宅ワークは精神安定上必要とする旨の診断書を書いてもらって、それで人事部に対抗しているという。
俺もそれでいいと思うわ。自分の有利を手放すわけないだろうが。就業規則くらい変えてやれよ。絶対面倒だからやりたくないだけだよ人事なんて。前の会社もそうだったわ。なんかずっと偉そうで気に入らんのよなあの部署。いや面倒なのは分かるよ?分かるけど、そしたら、俺らは抵抗してもいいよなぁ?それで対等だよなぁ?
「とにかく人事部との話し合いは今も定期的にあります。『このままだと昇進も難しい』といったことを仄めかされますが、無理して働くよりはいいかと。そろそろ転職の準備も始めようかと思ってて、彼女と相談しながら探しています。」
てか立派だな?仕事できるな?あんた。我慢出来そうな所は我慢するけど、無理な所は人を頼って味方に付けて、裏付けも取って、色々と準備を並行するってなかなかだぞ?こういう難しい問題に切り込んでいくには、頭の回転が要るのかもなぁ。俺馬鹿だから分かんねぇけど。
「ところで彼女さんとはどうです?上手くやってますか?」
「えぇ、結婚の話はまだですけど、お互いの両親に事情を話した上で大方の了承は取れていますので。もう少し自分の身が固まったらそこも進めたいです。」
ここも不思議だよな。女性の物が好きで身につけたいと思うし、それが似合う自分でありたいと思うけど、恋愛的に男性を見ることは全く無いらしい。な、なぜだ。
分からんて。ゲイやらホモやらレズやら。二つしか無いと思ってた性がこんなに多様化してるなんて。もうおじさん頭がいっぱいで理解してあげられないよ。ごめんね。
「それで、今日はどうします?」
理解は諦めて話を進める。
「そうですね…入れて、もらえますか?何か良いのがあれば。」
「いくらでもありますよ。持って来ますね。」
鬱ボール保管庫。
こないだの母親のはどこだっけか。
『嶋田佳菜子』
あ、あった。これでいいや。
ひょいと掴んで戻る。
「家庭に悩むお母さんのがありましたよ。息子さんが引きこもりで、旦那さんは協力してくれない感じです。」
「それは…辛そうですね。」
「えぇ、えぇ。じゃあ、始めますよ。」
左手に水晶、右手に鬱ボール。
ズッ
ズズズズズズズ
靄が大野に吸い込まれていく。
何で戻し入れを望むかというと、女性の悩みを実感したいんだと。女性について様々に思考を巡らせることはあるけれど、身体は男性だから、実感はできない。そんな自分が女性に関わる権利を主張していいものかと悩んでいた。だからこうして女性の憂鬱を味わうことで、より心から女性を思いやれる人間になりたいのだと。それで度々ここに来て、女性とは何たるかを学んでいるのだと。
ご立派。立派過ぎて眉を顰めてしまう。苦しんでまで他人のことを分かってやりたいなんて思う人間がいるとはね。頭が上がらんよ全くぅ。
ちょっと背伸びをする。欠伸が出そうになるが、流石に堪える。
ズズ…
大方入り込んだ。
「大丈夫ですか?抜きます?」
抜くとせっかく入れた記憶や気分が薄れるが、倒れられても困る。それに料金も二重に請求できる。
「…いや、大丈夫、です。いや、辛い…?」
どっちなんだい。
「抜きますか?」
「大丈夫、です。うん、大丈夫。そうか、自分が産んだから…でも夫は…何で…」
顔を抑えながらぶつぶつ言ってる。こわ。後片付けをしながら大野が落ち着くのを待つ。
五分後。
「いやぁ、ありがとうございます。やはり子を持つ母の心情とはとてつもないですね。しかも引きこもりだと尚更…心配の中にも怒りと悲しみが潜む…息子に…いやこれは夫…?それとも自分…?」
「はいはい、それで体調は大丈夫ですか?」
また物思いに耽ろうとしてたので中断する。後は家でやってくれ。
「えぇ、大丈夫です。」
「それは良かった。また何かありましたらどうぞ。」
はぁ
疲れた。いや黒魔術自体は何ら疲れない、事情が細かい話を聞くと脳のリソースが侵食されてかなわん。
まぁあの男は殊勝なやつだよ。自己主張の前に身を削って経験を積もうとする。世の中全てのマイノリティが見習うべき姿勢だな。
スマホを弄る。毎日毎日、もはや何の立場か分からない「フェミニスト」なるものが跳梁跋扈して百鬼夜行の如く魑魅魍魎の絵図を展開している。
フェミニズム自体は素晴らしいと思う。獲得すべき権利を検討して要求するのは当然だ。俺でもそうする。
問題なのは、フェミニズムからフェミニストという名詞が一人歩きして、都合が良いペルソナの仮面になってしまったことだ。本義を知らないままとりあえず仮面を被っている輩も多いだろう。
ギィコ、ギィコ
椅子を揺らす。
「俺も都合が悪くなったら被ろうかな。客の誰かから訴えられたりしたら。」
自分のアイデンティティを都合良く見つめ直す夕暮れ前だった。