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魂呼び子.8


 ザザッと。
 閉ざしたまぶたの内側を占めた闇——それが瞬時に走りさったような感覚があった。

 次に水が満たされているような空間に、ぼやけた影が見えてくる。

 ふさふさして流れるようなもの……
 髪…? 
 …いや。もっと、ひろい範囲……
 身体から生えた毛? 体毛のようだった。

 観察するなかに、それが何者(なに)かの背中だと気づく。

 白と茶、そして赤茶……背筋にそって密集する長い……髪を思わせる毛皮?

 ()げて異臭を発し、(ちぢ)れてチリチリになっている部分も認められるそれが、鏡か反射率の高い鉱物でできているような地面におりて、長くうねっている。

(…なんだ? 獣? …——)

 色のない地表をとらえている腕の先端。

 皮が厚そうな手の甲…つけねのあたりから……内にあるものを庇うように二枚。
 あるいは三枚、四枚……

 鋭いかぎ状のものがはえていた。

 骨のような材質にも見えるが、装甲過剰な籠手のごとく手首の甲側から段階的に突きだし、鋭くも肉厚で先細りの(うろこ)状の連続をみせている。
 それは奇形の骨……いや、骨というよりは、やはり(ツメ)なのかもしれなかった。

 その内側。

 茶色の被毛で(みつ)(おお)われながら、形状が人のそれに類似する(マヌス)――爪を備えない軟らかそうな指先が、凶器的な突起に庇われるようにして存在し、
 その部分部分には、赤黒い生きものの液体がふちゃくして、じっとりと。したたり落ちないばかりに湿(しめ)っていた。

 右手と両足を地面について前屈(まえかが)みになっている。その見たこともない大柄な獣の(かいな)から、少しばかり土ぼこりのついた人間の()の足がはみだして見えた。

 白くて繊細そうなつま先と……かかと。

 下肢にまとわりついている水色のナイトガウンには大量の血痕。

 噛まれたのか、裂かれたのか。
 (すそ)の一部が焼け落ちた薄手の着衣に保護されているほっそりした胴は、どこに傷があるかもわからないほど真っ赤だった。

 血液が、ひとすじ、ふたすじ……くだりおりている繊細なあごの輪郭。その喉もとを横切り、見えなくなっている黒い頭髪の束。

 ()と隔離され、独立して場を占めているその空間内部では、物理的な流れが制止していた。

(…どこかと似て否なる様態(ようだい)……在りかた……だけど底が浅くて、うすっぺらな……。いずれにしてもこれでは肉体に根差す存在は、まともに活動できない。死ぬに死ねない……。大多数は自力でぬけ出すことも…――)

 いっぽうの体毛豊かな獣は――彼、セレグレーシュが、いま、初めて出会ったもの。

 あきらかに初対面だったが…。
 その(ふところ)に横たわっている少女を……彼は知っている気がした。

(…もしかして彼女が、メル…——?)

 ぴくっと、
 実際に動いたわけでもないのに動いたような錯覚……彼女の黒い睫毛が震え、(かす)かに口角(こうかく)があがり、微笑み…開かれようとしたようなイマジネーションがあった。

(だめだ。これは……いま呼んだら…——)

 セレグレーシュの注意が、その子の右肘をくわえている獣に向けられた。

 毛むくじゃらの生きもの。

 筋骨たくましい人に長いのや短い毛を密集させたらそんな容貌になりそうなもの。

 ただ骨格に獣と人間が混ざりあったような不自然な曲がり、拡がりがあり、
 尾かも毛の束かも判らなくなる量のたてがみが、過剰に伸びた毛髪のごとくおりて地面に横たわり、うねっている。

 部分部分にみとめられる鋭利な(やいば)のようにも見える突起(器官)(のぞ)けば、その形状は大柄な人間の男子そのもののようでもあるのに、全身が密な毛におおわれている。

 熊でも、大狼でも、大猿でもなく――。
 二本の足で自立して、外見は霊長目。ヒト科のようであるのだが、不活性ながら異常なまでに混濁した魔性――人には読み解けぬよどみを帯びている。
 この地において、自然に成りたった生きものの系譜とは思えないおどろおどろしさを連れている。

 毛深い頬と口元を汚している赤い汚れ――血痕。

 少女の上腕に食いこんでいる獣の証明のようにも思える鋭く尖った牙(・・・・・・)の連続……。

 眼球に白い部分のない無垢な瞳をした、孤独な存在……。

 泣いている…――涙を流せぬままに……。

 それにも名前がある。

 濁音(だくおん)を帯び、たわみ、無駄にねじくれているが、確かに――むこうの音が強くあらわれた生きものの(しるし)が…。

(…呼び…づらい…——)

 🌐🌐🌐

 早朝の冴え冴えとした陽光のもと。
 さながら地面や空間を割って(あらわ)れたかのようにまろび出たのは、大柄な直立二足の影。

 白と茶色と赤茶の、ゆたかな毛なみ。

 そのすきまから、ぎらついて見えた奥の深い緑色の双眸が、周囲にいた人間を映し――
 威嚇とも歎願(たんがん)とも……苦悩とも、苦痛ともつかない叫びをあげようとした。
 〝その獣人《彼》〟の……わずかに(ひら)かれた口から、()ではなく、人間のものと寸分も違わぬ白い歯並び(・・・・・・・・・・・)が、ちらと(のぞ)き……
 閉じられた時――

 その生きものは、ひたりと。彫像のように硬直して動かなくなった。

 五歩もないところに見たもの。

 瞬間的に不動の境地に(おちい)っていたアントイーヴが(まばた)きするのも忘れたような顔をして、いま運ぼうと抱えあげようとしていた少年の身体をとり落とす。

「どうして、こいつがっ…?」

 その声の下方――。

 どさっと地面に落とされたセレグレーシュが、その衝撃に、うっすらと目蓋(まぶた)をもちあげた。

 草地に頬をあずけ、つかの間、うつろな表情も見せた彼だが、そうして開いた瞳の焦点が定まるとともに、(われ)をとりもどす。

 さして遠くないところに毛むくじゃらの生物が立っている。

 そう認識したことで、失態を自覚したのだ。

 手応えはあやふやでも、その存在の名を呼んだ記憶があった。

 呼ぶつもりなど、なかった。なのに……。
 どうして呼んでしまったのか――一時的にわからなくなる。

 いずれにせよ…。

 いま彼は、法印の中にあるその種も呼べる(・・・)のだということを体現してしまい、それをこの場に居合わせた者に目撃されたのだ。

 自分がそれをどこからひっぱり出したのか。取りあげたのか…。
 やたら生々しい確信、自己認識があって、
 知らぬ存ぜぬで、済ませられる精神状態でも、状況でもなかった。

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