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泣きっつらに蜂.9


 借りた部屋にのこされたふたりは、しんみりと時間をつぶしていた。

 日が(かたむ)きかけているとはいえ、まだ、夕食をとるには早い刻限だ。

〔わたし……。やっぱり、あなたをゆるせそうにないわ〕

〔ん。許されると思っていないから〕

 アントイーヴは、思いあまったようにくだされた女稜威祇(いつぎ)の宣言を言葉のままに受けとめた。

 彼の片脇の床に灰色がかった緑の法具箱が置かれていて、箱の(ふた)の上には、直径が一メートルほどもありそうな透明な球体が乗っている。

 それは全体が水で出来ているような無色の球で、内部にはルビー色の立体が浮かんでいた。

 大小、大きさの(こと)なる五角錐(ごかくすい)を底面であわせたような形状(かたち)
 稜威祇(いつぎ)の少年の体力を増幅するのに使った法具のひとつである。

〔それだけあの子が大事だったって(いう)ことだろう? ぼくにとっても彼女は特別だった。だから……少しはわかるよ〕

 アントイーヴは、ひっそり、さみしげに微笑んだ。



『——そんなこと…。あなたがしなくても、きっと誰かが(しず)めてくれる。手伝いたくても…わたしには、なにもできない…――あの子は、とても不憫(ふびん)な子よ? あんなふうにあるのは、かわいそう…だけど……』



 あの時…。

 彼女の力が、未来……もしかしたら過去をも観るものだと認識していたら、やめていただろうか?

 彼は、ただ……、
 その少女が夢見るように語った白い原野に、彼女(その娘)を連れて行きたかった。

 喫茶店の壁にかけられていた絵画を視界に目を輝かせている姿を見て、そうしたいと思った。
 直接、見せてやりたいと……
 それだけだった。

 だが、その場所には、かなり前から獣人が住みついていたのだ。

 ヒトのようでありながらヒトには見えず、ありきたりの獣とも思えない……中途半端な姿をした毛むくじゃらの妖威が。

 他人を見れば無差別に襲いかかるような強暴なもの――被害ならあったが、死人はでていなかった。

 なわばりがあるのか、千魔封じの大地を越えてくることもなく、一般に《野人(やじん)》と呼ばれるものとも行動傾向が違い、人を(さら)ってゆくようなこともない…――こちらから近づきさえしなければ安全な妖威。

 神鎮めの数は、いつだって不足していたから、そんなものの相手をさせるよりは、疲れた身内を休ませよう。

 いずれ、あれにも寿命がくる。
 貴重な法具を(つい)やし、無駄に問題をひきのばすよりは成りゆき(自然)(まか)せるのが得策(とくさく)で、上手(うま)いやり方。
 自分たちさえ気をつけていればいいのだと。

 家は身近に棲息(せいそく)するその妖威の存在を知りながら、放置していたのだ。



『妖威がいたら《初白雪(はつしらゆき)》の野に行けないじゃないか。大丈夫だよ。意図して魔力をふるうものではないようだし、補助がなくても連動する印を重ねて配置して、わなにすれば…――』

『ダメ! ダメよ…。あなたはもう、あの場所には行かないで! わたしも行かないっ! あなたがあの子を封印したって行かない…。行かないもの……。お願いだから行かないで…――いやな…いやな白昼夢を見るの……』

 彼女は……メルレインはとめたが、アントイーヴは、こっそり行動をおこした。
 その子を驚かせたくて…。
 喜ばせたくて……。
 その忌まわしい悪夢から解放したくて――…
 念入りに計画をたてた。


 ——幻影、捕縛、不要をはじく形成の整理修復、封印秘匿(ひとく)……


 順々に立ちあがり、それぞれ適切な条件下で効力をなくして構成から(はじ)き出されるもの。

 捕らえたものを抱えたまま残るもの――その状態を維持し、つつみ隠す仕組み……

 邪魔が入るなかにも陣形の配置構想……下準備はどうにか完成させた。

 けれども、予定してなかったその事態——獣人の反応に、それから先の手段を迷う。
 彼は、やたら魔力をふるわない獣人とみて、その対象の獲物や敵、生物を感知する能力を甘く見積もったのだ。

 作業もなかば、森からまろび出てきた獣人は、幻影による誘導に惑わされることなく、アントイーヴに向かってきた。

 気配を消す作用をもたせていなかったとはいえ、彼がまとった守備の法印は確かで、害意ある獣人の爪を通すことはなかった。

 作業のあいだ中、つきまとわれ、配置作業を邪魔された。
 構成に梃入れをほどこし、乱されたものももどるよう細工し、変化に対処したまでは良かったのだ。

 これと踏んで用意していた手段は無効——その獣人は幻影には惑わされない。
 その時、手もとにあった法具では、これと思いつく代替えの方法がなくて……。
 どうやって封じるポイントまで、その妖威を誘導するか、もって()くかという段階になって作業がとどこおった——アントイーヴは、そのあたりまでは冷静でいられたのだ。

 そこに、……メルレインが現れた。

 誰にも言わずに行動していた彼は、その子が襲われることなど予測してなかった。

 だから、いま思い返すと、どうしてなにもできなかったのか、もどかしくて(ちょう)がよじれるほど後手をふんだのだ。

 さらにプルーデンスが駆けつけたので、どうにか獣人を遠ざけメルレインを保護することには成功したが――しかし。
 そこで、また好転するかに見えた事態が急変する。

 アントイーヴの作戦に加担したプルーデンスが、目的の場所に獣人を誘導しようと炎を繰りだすと、メルレインが思いもしない行動をとった。

 なにを思ってか、追いたてられ、より獰猛(どうもう)さを増している獣人の前に飛びだしていったのだ。


『来て! こっち……こっちだよ…。だいじょうぶ。恐くない……。(おび)えなくていいの。きっと、…きっと、彼が救ってくれる……』


 呼びかけながら……法印の中央。《(むろ)》が成立するポイントに獣人を誘った。

 なぜ、彼女がそんな行動をとったのか――他のふたりはもちろんのこと、その獣人が理解できるわけもなく、メルレインの血が流された。


『――っヤメテッ…! 駄目よ! なにをしようというのっ! メルがっ!』

『手遅れだよ。いまのうちに封じないと…』

『どうして…? どうして、そんなところに入っちゃうの? メル……。どうして…――あんなやつ、わたしがっ!』

『プルー…。殺しちゃいけない』

『じゃぁ、あいつは…、あいつは、なんなのっ? 理性がなければ、何をしてもいいというのっ! ゆ…ゆるせっていうの!? あなたがたの誓約なんて、知らないわっ! あいつはメルを……メル…、メル…。どうして……どうしてなのっ…? うそっ! うそよ…。まだ…。まだ、生きているっ。そうよ! そんなはずないもの…生きて……いるの! だからイーヴ、メルを…。……姉さまを助けなきゃ…そうでしょう? イーヴ…?』

『…ごめん…――』



 ——…。

 藍色の目をした女稜威祇(いつぎ)は、今この場にはいない連れを意識して、まぶたを半ば伏せた。

〔あの子は……、手伝ってくれると思う?〕

〔わからない〕

〔どうにかしてよ。ずっと、あのままなんて我慢がならないわ〕

〔セレシュ君は、その気のようだから、もしかしたら、ね……〕

 楽観的予想を胸に微笑した彼は、球に満たした《由宇可水(ゆうかすい)》に(ひた)してから三日目になるルビー色の法具を視界に憂鬱(ゆううつ)な溜息をこぼした。

〔だめだな…。狂いが消えない。矯正(きょうせい)して強引に使ったのがまずかったみたいだ……〕

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