稜威祇の少年.2
いっけんには、なんの変哲もない森の道。
それなのに、いつなにが起きても不思議ではないような、ぴりぴりした空気がただよっていた。
空間の不自然な
のったりと重くゆらいで、不明瞭な存在の干渉を感じさせる気流にくわえ、
影響力の強い妖威でもいるのだろうか?
警戒していた青年の視界を掠めたのは、木々の
右前方の森林だ。
馬上から周辺の変化に注意をはらっていた彼。アントイーヴは、そのあたりに確認できた者の正体に、ふっと
「やぁ。こんなところで、なにをしていたんだい? 目が覚めたら、どこにもいなかったから、おいて行かれたのかと思ったよ。……そうだよね。帰るよりは進むよね」
路肩にはびこる雑草にまぎれながら足を止めたその少年は、すぐにはなにも言おうとしなかった。
そこに見た相手の不安定な気の脈動に、アントイーヴのおもてから笑みが消えた。
空間のゆがみが、
一帯の乱れを生みだしている根源。発生源のより濃い部分が、その少年
考えるより先に動いた彼の手が、くいっと手綱をひきしぼる。
馬は
そこで当の少年が乱れた呼吸をおし殺しながら、まっすぐにアントイーヴを見た。
その少年の瞳に現れていたのは、冷ややかな光をたたえた琥珀色。
まなざしが鋭いので威嚇しているようにも見えるそれは、以前より、ずっと白っぽい色合いが混ざりこんでいた。
まばゆい光にさらしだされた
――うっすらと青紫色がかっているようにも感じられたので、
〔…馬の……背をかせ〕
〔どうぞ〕
ゆらっと、まろび寄ってきた
ともなく。
青鹿毛が頭をふって脚を乱したので、アントイーヴは手綱をしぼりながら馬の黒い肩を優しく叩き、
(これは、ひどいな)
平静をよそおっている少年の
これという方向性……明確な志向をもたないので攻撃的でこそないが、霊的なものを見る素質がほとんどない者でも異常を感じられそうな
逆に過敏な者であれば、悪酔いして吐き気やめまいをもよおしそうなほど重く
ついさっきまで、なにかと
触りなりとも、その種族の子供にありがちな症候と成人率を知っている彼には、その少年が弱みを見せたがらない理由も理解できた。
相手かまわず弱点を暴露して歩いたのでは、生きてゆけないのだ。
補助が必要になった時、生きのびたければ本人から言い出すだろう――後に延ばされることで対処がより困難になろうと、とうの彼がその気になってくれなければ、手など出せない。
その
鎮め未満の法印使いでなくても、無関心に
〔念の為、行ってみたんだけど、シャミールの
アントイーヴがなにくわぬ顔で話題をふったが、後ろの少年は、これという反応をみせなかった。
〔新しい情報を手にいれたよ。貴方も調査済みかもしれないけど……。
次の宿場までは、森林部に分けいる細い
変わりばえのしない林道の連続なので、差しせまった事情でもなくば緊張感とは無縁の工程である。
〔――忍び歩きで法貨を使うのはどうかと思うけど、《家》は基本、そういった細々した選択を個人に任せる流儀で…――そのへんは考査の採点要素でもあるから。それに…あの
彼らがどこに泊まったのかは、やっぱり、わからなかったんだけど、年格好、状況からして間違いないと思うよ〕
ときおり意見を待つような
〔必要は別として…――費用を私的に使うと借金になるんだけど、
つき添いが、いくら
地道に馬を駆る単調な道すがら。
相手が聞いている手応えをくれなくてもおかまいなしに、アントイーヴはこれと思う話題を提供した。
〔スフレでもケーキでも、焼き菓子類はリーデン・シュルトの名物だよね。
《家》の喫茶店でもあつかっているけど……君、甘い物はいけるほうかい?
こんなに早く合流できるなら、君の分も考えておくんだったね。ひとつ購入したんだけど、情報くれた子供にあげちゃってさ。
実を言えば、情報料に催促されたわけだけど……。
その子がいうには、かっこいい馬をつれた
そんなふうに半時も進んだところ。
〔知ってる? 向こうに流れている川。いまは、《ブレス》が一般的になっているけど、昔は流域に済む人達によって呼び方が違ったから、呼称が複数あってさ……。
《ダヌ》や《ダヌス》、《アヌ》ともいうんだよ?〕
いつからか。黒い発色を見せるようになっていたうしろの少年の瞳が、ある方角をじっと見すえていた。
〔徹夜は得意な方だと思うんだけど、どうもね。ひとたび寝てしまうと寝起きが悪いのか、なかなか起きないみたいで…(早めに寝ても、午前中、
親類は、だいたい睡眠傾向に長短、癖があるみたいだから遺伝特色だと思うんだけど、今朝も寝坊して……。だからあなた、いなかったんだろう?〕
不意に、すとん、と。
にわかにふらつき、地面に片手と片膝をつく姿勢で動きを止めている。
それと見ながら手綱を引きしぼったアントイーヴが、くるりと右まわりに馬を返す。
〔どうかしたのかい?〕
「――すぐ戻る」
人の言語で答えた
沈黙のなかにようすをうかがっていると、さほどなく。
ようよう立ちあがったその彼が、心なしか頼りない物腰で歩みだした。
(待ってろ、って……ことなんだろうけど)
アントイーヴは、やたらゆったりした動作で森林に分けいってゆく少年の背中を見送りながら、
(あのようすじゃ、どこで倒れないとも知れないし……。待たないよ、ぼくは)
彼の手にあるのは、球体を半分に割ったような形のクリーム色をした半透明の石で、《法の家》が所有する馬具につきものの法具だ。
主に馬の窃盗および逃亡防止を目的として
個体にも依るが《法の家》所有の馬の多くは、乗り手と一定以上の距離が
アントイーヴは、手にした半球体を自身の目の高さの空間にねりこんだ。
はた目には指先につまんだ石が空中に呑まれて消えたようにしか見えなかったが、それに干渉される生きものは、その地点を基軸として彼が設定した範囲の外に出なくなる。
誰かが馬を連れだそうとしても、そのあたりをぐるぐる
ひと通りの予防措置を終えた彼は、黒馬をその場に放置して、まだ森林下に見え隠れしている少年の背中を追った。
※ リーデン・シュルトにある関所で
政情や素性にもよりますが、シャミールの人間以外は、長く足止めされる傾向があるので、そっちへ向かっていたら、まだそのへんにいる可能性があった。