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稜威祇の少年.1


 森林下をゆく、その少年の歩みは(とどこお)りがちだった。

 二〇歩も離れたところに渡されている踏み土の道では、後から来た旅行者が木立の奥に彼がいることも知らぬまま追いぬいていく。

 楽器を背負った旅芸人が周囲を気にしながら、なにかに追われるように駄馬(だば)をはやしたてて遠くなってゆき……。

 徒歩の親子連れまでもが彼を追いこしていった。

 彼も(ひら)かれた道を行きたかったが、こう弱っていては、姿を人前にさらす気にもなれず…――
 少年は息を切らしながら、シダ植物が葉をひろげている木の根元に膝をおとした。

 部分部分の毛先が躍動的な流れをみせる金茶色の髪。

 あどけなさが消え去らない気丈なおもてに(またた)くのは、色相がいれかわる闇人の双眸。

 それは一次考査に(おもむ)いたセレグレーシュの痕跡を追っている稜威祇(いつぎ)の少年だった。

 むちゃしてしまったことを彼はいま、自覚していた。

 呼吸が乱れはじめたら、対処するのに手間どる。
 彼はそうなるまえに土地の気をさぐり、必要なもの・害のあるものを識別し、よりわけ整理して、自身が()める領域を適切な(ほどよい)状態に維持しなければならなかった。

 (おこた)っていたわけではないが、それがうまく出来なくなっている。

 つねに変化する大気の組成。

 その場所、土地で異なる、あらゆるものの物理条件……空間のゆらぎ。霊的浸透圧。

 そういった、もろもろの環境変動に影響されないよう、わずらわされないよう…――彼はいつだって注意をはらっていなければならなかった。

 ふつうに歩いているだけでも気が抜けないのに、なじめぬ気をより分け、肉眼で見ることの叶わぬ遠方に探りをいれている。

 そうすることで、かなり霊力を消耗していたから…。

 抑制し周囲にまとめておくべき感覚を、のばし(ひろ)()らしていたから……。

 そう。保身とは真逆といってもいい行動をとっていたから…――こうなることは、予測できたはずなのに。

 今朝は〝行けるかも〟と思ってしまった。

 どうして、行けると(そう)思えたのか……?
 ずっと気脈の()いだあの土地にいたせいで、現状を見定める感覚意識・危機観念に(スキ)が……ブランクが(しょう)じていたのかもしれなかった。

 この先に彼の感覚を刺激するものがあって…――

 それがなにか確かめたくて。

 大丈夫。平気だと……。
 切り抜けられると。
 そう、思いたかったのかもしれない。

 このような事態に対する予防措置として、あてにしたものもあるのだが、今朝はそれ(・・)が動こうとしなかった。

 無視しないで、それをたたき起こせばよかったのだ。

 自分の失態をかさねがさね意識する。

(あいつはいったい、なにをしているんだ。まだ、寝ているのではないだろうな……)

 気になるものは遠くない。

 ほんの少し努力すれば。がんばれば、たどり着けそうなのに足を止めるしかなくて……少年は、主に琥珀と銀、黒と紫、それに飴色(あめいろ)錯綜(さくそう)する双眸を天にむけた。

 世界が彼を拒絶しているように思えた。

 喰らい、咀嚼(そしゃく)しようとしているようにも…。

 呼吸するたび、体内にとり込んだ空気が彼の魂魄……意識・感覚をぐにゃぐにゃにかき乱す。

 多少、多く複雑なものが見えるようになったといっても、幼い頃から見あげなれた青い空がそこにあるのに……

 ここには彼の活力……命を千々(ちぢ)(くだ)き、散らそうとする作用があって、疲れてくると彼は、その働きに(あらが)いきれなくなる。

 わずらわしさの中に、自分がなにをしていたのか明確な思考を維持することも難しくなってくるのだ。

 闇人は、招かれた種。

 余所(よそ)から来た、異質なもの――…。

 彼としては、そんな指摘。不明を憶測で(くら)ましているような推言(おしごと)めいた解釈。呼ばれ(かた)概念(がいねん)に思うところもあるのだが……。

 いずれにしても、これはきっと、バランスを(たも)とうとする空間の正常化作用……——環境を乱すもの……負荷(ふか)をもたらすほど濃いもの…または希薄(きはく)なもの……(よど)みを、ちらして(ひら)(なら)そうとする世界の修復反応なのだろう。

 あらゆるものに除外され、拒絶され、とり残されていくようで……。
 そんな事実、現象など、とうの昔にどうでもよくなっていたはずだった。
 なっとく出来てなどいなかったが、もう充分だと……。
 終わってもかまわないと。

 この状態は、自ら行動しなければ終わらないのだからと…――過酷な成りゆきを甘受(かんじゅ)しようとしたこともあったのに――
 それなのに……、いま、こうして現実に(あらが)っている自分がいる。

(…往生際(おうじょうぎわ)が悪いな……。…なぜ、こんなにも…われは……)

 ままならぬ想念を胸中に、ぼんやり(かが)みこんでいた彼だったが、そうしているなかに、ふと。
 特定の人間の気配を察知した。

 流れだす自身の気脈のはし――

 自分が来た方角から、近づきつつある存在(もの)

 《法印》の使い手の気配は、(すぐ)れるほど自然の波動になじみ、とらえにくくなるものだが、一度、接したことがあるものだったので直感的に、それだと判断することができた。

 それでなくても、その種類の存在……《法印使い》の(たぐい)が近づいてくる現実は明白だった。

 少なくとも、制御もままならず感覚を――気脈を一帯にまき散らしているいまの彼にとっては。

 彼。稜威祇(いつぎ)の少年の霊威(れいい)漫然(まんぜん)とゆらぎ(ただよ)う、この空域を移動してくる小規模の秩序(ちつじょ)のひろがり。

 人と馬の形状にくりぬかれながら、その延長にほんわかと…――正常な状態に維持された、幽寂(ゆうじゃく)とした空間をまとっているもの。
 それが、ぱかぱかと大地を踏みはじきながら接近しつつあったのだ。

(やっと、来たか…)

 相手の行動の遅さを非難しつつも、この好機を逃すまいと。彼はなけなしの集中力を総動員して、大地を踏む二本の脚と押しやる腕に力をこめた。

 その技を(きわ)めた者の周囲には、無機物も有機物も、あるものをそのままの位置に安定させる独特の静寂がある。

 あくまでも天候や土地の気に順応するもの――波及(はきゅう)範囲も個体差やその体調に大きく左右されるもので、その存在がいま騎乗してる馬に備えられている備品(もの)(法印構成)が見せるものほど確定的ではない。
 むしろ環境になじみ過ぎて、じかに目にしないと(のが)してしまいやすいもの。まわりにある自然物との区別がつかなくなってしまいがちな種類のものだったが、周辺の異常には安易にのまれない確固たる存在領域が固持(こじ)されている。

 環境変動の影響を受けやすい彼にとって、そのようにかなりまで整理された空域は、万全と言えぬまでも、少し楽ができるポイントなのだ。

(まだ、来るなよ。…われが(そこ)に行く——…)

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