第4話 思い出の夢
川の流れる土手の上。
そこを子供達が笑いながら走って行く。
そんな子供達の後を、彼女は必死になって追い掛けていた。
「おーい、早く来なよー!」
「じゃないと、置いて行っちゃうよー!」
「ま、待ってよーっ!」
しかし走っても走っても、前にいる子供達に追い付けない。
遂には力尽き、彼女は大木の下で膝を付いてしまった。
「はあ、はあ、はあ、はあ……」
乱れた呼吸を整えている間に、子供達の声は聞こえなくなってしまう。
自分がここで力尽きている事なんて、どうせ誰も気が付かないのだろう。
どうせ追い付けないと判断した彼女はそこで諦めると、木に寄り掛かるようにして腰を下ろした。
「はあ、こんなに頑張っているのに。それなのに何で全然追い付けないんだろう……」
自分の駄目さ加減に、ジワリと目に涙が浮かぶ。
運動が駄目なだけだったら、まだ救いようはあっただろう。
しかし彼女の場合、全てにおいて他の子供達より劣っていた。
今のように走れば結局置いていかれてしまうし、勉強をすれば常に補習クラスに送られる。
字を書けばところどころに象形文字が現れるし、歌を歌えばあまりの酷さに笑いを通り越して可哀想な目で見られる始末。
ランチタイムだっていつも時間内に食べ終われないし、異性となんて緊張して話せない。
ああまったく、どうして自分はこんなに駄目なんだろう。
人間一つくらいは良いところがあってもいいハズなのに。
それなのにどうして自分には何にもないのだろうか。
(もう嫌だな。何で私ばっかりこんななんだろう)
浮かんだ涙が零れる前に、彼女は膝に顔を埋める。
しかしその時だった。
「ボクもだよ。ボクもみんなに追い付かないんだ」
「!」
ふいに聞こえた声に顔を上げる。
いつからそこにいたのだろうか。
見上げれば、白銀の猫っ毛を持った同い年くらいの少年が、苦笑を浮かべていた。
「ボクもクラスで一番足が遅いんだよね。その上テストの点数もいつも一桁。この前友達に、「どうやったら二択問題まで全部間違えられるんですか」って言われちゃったよ。酷いよねー」
あははは、と乾いた笑みを浮かべるその少年は、吸い込まれそうな青い瞳をしていた。
「でもその友達って、何だかんだ言いながらも、ボクの勉強も運動も見てくれるんだ。キミも、そうなんじゃないかな?」
「?」
その言葉に首を傾げた時、遠くから声が聞こえた。
どうやら自分を置いて行った友達の一人が、戻って来てくれたらしい。
「ちょっとー、何諦めてんのー? 本当に置いて行っちゃうよー!」
「あ、カルディア……」
「ホラ、呼んでるよ。早く行かなきゃ」
「あ、う、うん……」
友人に呼ばれ、少年に促され、彼女はようやく立ち上がる。
「ねえ」
しかし再び走り出そうとした彼女を、少年が呼び止める。
振り返れば、ニコニコと微笑む彼の姿が目に入った。
「今度一緒に特訓しない? 落ちこぼれ同士、一緒に頑張ろうよ。そして色々出来るようになってみんなをギャフンと言わせてやるんだ」
異性……男の子と話すのは苦手だ。
だから一瞬、彼の言葉に躊躇った。
けれどもここは頷くべきだと本能が訴える。
だってここで変わらなければ、この先もずっとこのままだ。
変わろうとする努力をしない限り、この先で変わる事など出来るハズもない。
だから彼女は手を取った。
彼の駄目さ加減がどの程度なのかは知らないが、それでも彼と一緒に頑張れば、この先の未来で何かが変われるような気がしたからだ。
「うん、特訓する。私も、みんなと同じくらいに走れるようになりたい!」
「違うよ。みんなよりも、もっと速く走れるようになるんだ」
ニッコリと、少年は微笑む。
そしてそっと、右手を差し出した。
「ボクはムナール。よろしくね。キミは?」
「私は……」
□
耳元で誰かが呼んでいる声がする。
いつも聞いているその声に、ムナールの意識は無理矢理現実へと呼び戻された。
「起きて下さい、ムナールさん。まだ仕事は終わっていませんよ!」
「え? ……ああ、レイラ」
「ああ、じゃありません! 起きて下さい! そんなんじゃ、いつまで経っても終わらないんですからねっ!」
どうやら書類整理中に睡魔に襲われ、そのまま眠ってしまったらしい。
レイラに叩き起こされる事によって、ようやく覚醒したムナールは、大きく伸びと欠伸をした後に、机の上にある置時計へと視線を移した。
「何だ、まだ十三時じゃないか。そんなに煩く起こさなくったって良い時間だよ」
「まだ寝惚けているんですか! あとこれだけあるんですよ? これ、本当に今日中に終わらせられるんですか!?」
ドサッと音を立てて、広辞苑三冊分くらいの書類が目の前に積まれる。
確かにこれは、本気で頑張らねば今日中には終わらないかもしれない。
「今日はリンちゃんとデートの約束があったのに……」
「自業自得です。ホラ、私も少しくらいなら手伝ってあげますから、さっさと終わらせてしまいましょう。早く終われば、リンちゃんとのデートにも行けるんですからね!」
「うう、がんばる……」
彼女とのデートが理由で仕事をサボった事がバレたムナールは、上司(父親)から罰として大量の書類整理を押し付けられてしまった。
そのため朝からこうして頑張っているのだが、量が量なので中々終わる気配がない。
……まあ、終わらない原因は、ムナールが睡魔に襲われたからだというのも、もちろんあるのだが。
とにかく今日のデートのためにも、この聳え立つ資料の山を何とかしようと、ムナールは再びそれに向き直った。
「随分楽しそうでしたけど。一体何の夢を見ていたんですか?」
今日は休みだから少しくらい手伝ってやろうと、同じく書類の山に目を通しているレイラがふと口を開く。
それによって手を休めても、無視しても怒られるので、ムナールもまた手を休める事なくその問いに答えた。
「昔の夢だよ。リプカちゃんと会った頃の。懐かしかったなあ……」
「昔ですか、それは懐かしい話ですね。あの頃はあなたもリプカさんも、恐ろしいくらいに何も出来ませんでしたからね」
「あれでもボク達は必死だったんだよ」
「知っていますよ。だからこそ、周りは温かく見守っていたじゃないですか」
「そうだったねえ」
書類を弄りながら、ムナールは昔に想いを馳せる。
あの頃、人よりも劣っていた自分達。
親や教師には、何で出来ないんだと何度も怒られたが、友人達は決してバカにする事なく、ただただ温かく見守ってくれていた。
それが救いだったのだろう。
おかげでグレる事なく、自分達はこうして少しは出来る事が増えた。
「あの頃のリプカちゃん、まだ可愛かったなあ。」
「何を言っているんですか。今でも十分可愛いですよ」
「いや、そうなんだけどさ。でも昔は大人しくて、おっとりしていて、泣き虫だっただろ。何かあるとムナール、ムナールって頼って来てくれてさあ。それなのに今じゃ、泣く前に手が出るし、文句とか愚痴ばっかり言うし、僕になんか頼らずに全部一人で解決しちゃうし。あーあ、いつからあんなに性格ひん曲がっちゃったのかなあ?」
「はあ?」
と、その瞬間。レイラから恐ろしいくらいの低い声が聞こえた。
それまで書類整理の手を休める事のなかった彼女はその手を休めると、その冷ややかな視線をムナールへと向けた。
「ムナールさん。あなたそれ、本気で言っているんですか?」
「え? あ、えっと、え?」
冷たい視線と声を向けられ、ムナールの表情が一気に青ざめる。
何で彼女は怒っているのだろう。
え、僕、何か今変な事言った?
「い、いや、リプカちゃんは可愛いよ? 可愛いけどさ、昔は今より素直でもっと可愛かったなっていう話なんだけど……」
とりあえず当たり障りのない事を言って、自分に悪気はないと、必死に弁解する。
しかし、そこに彼女の望む答えはなかったのだろう。
レイラは冷たい視線を向けたまま舌打ちまですると、広辞苑何冊分かよく分からない程の大量の書類を、ズドンと彼の目の前に叩き付けた。
「幻滅しました。後は一人でやって下さい」
「えっ、え、ええーっ?」
ギシギシと机が軋む程の書類を残して立ち去って行くレイラに、ムナールは思わず悲鳴を上げる。
こんな大量の書類、一人で今日中に終わらせられるわけがない。
「僕、何かしたのかなあ……」
レイラが怒って出て行ってしまった理由。
それは自分にあるような気はするが、その理由が分からない。
何が彼女のスイッチを入れてしまったのだろうか。
「女の子って難しいな」
はあ、と一度溜め息を吐くと、書類の重みで机が壊れない内に、ムナールは再び書類へと向き直るのであった。