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19.誘拐

(なぜ……私ばかりが、こんな目に遭わなければならないの⁈)

 軽く駆けながら大広間を逃げ出したミカエラは、心の中で叫ぶ。 
 ミカエラの心は乱れるも、それを声に出すのは憚られたからだ。

(アイゼルさまに愛されたいと思う方が図々しいのかもしれないけれど……だったら、期待を持たせないで欲しいの……なんて残酷なの、私の王子さまは!)

 叫びたかった。
 大声を上げて泣きたかった。

 でも出来ない。

(そんなことをしたら、何を言われるか……)

 涙がこぼれた。
 夜闇に紛れて見えないであろう涙にすら、ミカエラは気を配らなければならない。
 喉の奥で嗚咽を噛み殺す。

 熱い。
 痛い。
 苦しい。

 声に出してしまえば、誰に聞かれるか分からない。
 聞かれたら、どう受け取るかは相手次第。
 どんな内容でも、聞かれた事は攻撃の材料になる。

 奇声を上げたいほど混乱している時でも、そんな事まで気にしてしまう。
 ミカエラが王宮住まいになってから身に付いた習い性だ。

 黙っていれば聞かれない。
 黙っていれば間違った受け止められ方はしない。
 黙っていれば攻撃の材料は減る。

 そうは思っても、ポロポロと溢れる涙は止められない。

(でも。いつだって何かしら粗を探し出して攻撃してくるのよ、あの人たちは)

 あの人たちとは、もはやミカエラ以外の全ての人間と言っていい。
 もはや、婚約者アイゼルすら敵だ。
 味方を見つけることのほうが難しい。
 いや、味方など、居ないのだ。
 黙っていても攻撃される。
 大人しくしていても、攻撃される。

(だったら、私はどうすればいいの⁈)

 ミカエラの心の叫びに、応えてくれる者などいない。

(王宮に住むことになったのだって……私が望んだことではないのに……)

 私は家に居たかった。
 でも、王家は私が王宮に住む事を望んだ。
 お父さまは、それを許可した。
 それだけのこと。それなのに……。

(いつも悪く言われるのは、私)

 王宮での生活は窮屈。
 それ以上の束縛。
 自由はない。
 時間は有限。
 自由はない。
 趣味は奪われ。
 削られる睡眠。
 短くなる食事時間。
 減っていくのは自由時間ではない。
 削り取られていくのは、私にとって必要な時間。

(誰も私の事なんて、考えてはくれない。そんな事は、とっくの昔に気付いているわ)

 詰め込まれるカリキュラム。
 自分のことを考えるゆとりなど無い。
 自由に羽ばたく想像の世界すら奪われ。
 泥のように眠る一日の終わりすら短くなり。

(朝起きるべき時間は、年を重ねるほどに早くなるのよ。大人の女性として、見苦しくないように身支度をしなければならないから。

 でも……。

 大人の女性としての身だしなみ?
 そんなものが必要?
 誰が見るの?
 誰も見てくれないわ。
 誰も褒めてくれないわ。
 美しさなど誰も見ないの。
 あの人たちがしたいのは、粗探し。
 私を攻撃する為の弱点探しよ。
 美しさを見いだして褒めようとは考えないの。

 だから余計にキチンと身支度をしなければ、と、侍女は言うけれど。

 私は、それよりも寝ていたい。どこまでやっても、あの人たちは探すのよ。私の至らない部分を。無駄なのよ。いくら身だしなみを整えたって。礼儀作法を身に付けたって。、教養を深めたって。変わらないの。私が分不相応な婚約をした悪役伯爵令嬢だという事実は。だったら、少しでも長く寝ていたい。疲れを取りたい。解放されたい。私が必要ないなら解放して欲しい。私は奴隷じゃない。機械じゃない。ただの人間。ただの伯爵令嬢なのよ)

 王宮住まいはミカエラから無邪気さを奪い、代わりに痛みを与えた。

 痛い、痛い、痛い。
 苦しい、苦しい、苦しい。

 ミカエラが痛がっていることも、苦しがっていることも、回りは知っているのに。
 それでも逃さず縛り付ける。
 ミカエラに逃れる術はない。

(だって私には逃げ場所がないし。行きたい場所も、したい事もないのだもの……いつの間に、こんなに空っぽな人間に成り下がってしまったのかしら?)

 ふと浮かびあがった疑問に答えはない。
 溢れた涙をグッと袖て拭って、前を見る。

(月夜の庭も綺麗ね)

 王宮の庭園は手入れが行き届き、夜闇に沈んでも美しい。
 整えられた植物たちは影になっても様になっている。
 絵画のように麗しくそこにあり、さざめく心を落ち着かせようとしてくれているのだ。

 月明かりを受けて花々に落ちた夜露が光るように、ミカエラの周囲では小さな煌きが踊っていた。
 まるで、彼女を慰めるかのように踊る小さな煌き。
 だが、ミカエラは気付かない。
 
(庭園は人の手で作られたものだから、自然なものとは違うけれど。花は自然と寄り添って世話をしなくては咲きはしないわ)

 密やかに夜闇の中でも花は咲いている。
 花を咲かせる定めの植物も、環境が整わなければ美しく花開かせる事はない。

(私が『愛する人を守る』と、いう異能を持っていたとしても。冷遇されていては、上手く働かせることは出来ないと思うのだけれど……なぜか異能は働いてしまうわ)

 望もうが望むまいが『愛する人を守る』というミカエラの異能は、アイゼルを守るのだ。
 そして、ミカエラに痛みを与えるのだ。

(もう逃れたいのに……)

 アイゼル。
 優しかったあなたに恋をした。
 あれは、無邪気な8歳の私。
 その初恋に、こうも苦しめられるとは。
 思ってもみなかったわ。
 あの頃、世界は輝いていたし。
 未来は幸福を求めるためのものでしかなかった。
 私は……いつまで耐えなければならないの?
 何の為に耐えているの?
 
 輝く金髪に青い瞳の王子さま。
 絵に描いたような貴方は、今でも素敵。

 でも……。

(あの頃のような優しさを、貴方から感じないわ)

 私が好きでも、貴方は違うのよね?
 私が愛していても、貴方は違うのよね?

 貴方の為に苦しむ私は、まるで道化。
 貴方は私を利用するだけの悪い人。

 こんなのは違う。
 こんなのは愛じゃない。

 私の求めているものは違う。
 
 これじゃない。
 これじゃない、のに……。

(だったら、何故……私は貴方を嫌いにならないの?)

 なぜ異能は止まらないの?
 私は貴方を守り続けるの?
 
 愛が消えてしまわないのは何故?
 貴方を嫌いになれないのは何故?

(これが愛だというのなら、なんて残酷な呪いなの!)

 愛してる。
 愛してる。
 誤魔化しようもなく、私はアイゼルを愛している。

 何故だろう。
 理由なんて分からない。

 美しい人も、優しい人も、他にいくらでもいるのに。

 なぜ、貴方なのかしら?

 頭で考えたら、こんな事になる筈はないのに。
 冷たくされたなら、その人を嫌いになる筈なのに。
 私は貴方を嫌いになど、なってはいないの。
 私が私の気持ちを、いくら否定したって無駄なの。

 だって、私の『愛する人を守る』と、いう異能は、貴方に向かって動いてる。

 私の気持ちは貴方に捉えられたまま。

 何があっても動かない。
 動かないの、アイゼル。
 
(この先も……このまま、なの?)

 もう解放して欲しい。
 いえ、解放などして欲しくない。

 二つの相反する気持ちが私の中で暴れて、二つに裂かれてしまいそう。

 苦しい。苦しい。苦しい。
 痛い。痛い。痛い。

(逃げ出したいわ……全てから……)

 庭園にひとり佇み物思いに耽るミカエラは気付かなかった。
 背後から近づいていく不審者に。

 それは突然の事。
 ミカエラは視界を奪われた。
 袋のような物を後ろから被せられたのだ。

「きゃっ。いやっ! 誰かっ! 誰か助けて!」

 ミカエラは叫んだが、その声はか細く。
 舞踏会に浮かれる人々の声に紛れて消えた。

 そしてミカエラの姿は舞踏会の会場から消えてなくなったのだった。

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