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20.すれ違い

「会場に戻らなくて良いのかしら? アイゼル王太子殿下」
「固いことを言わないでおくれよ、レイチェル・ポワゾン伯爵令嬢」

 ここは王太子アイゼルの私室だ。
 舞踏会会場から引き揚げた彼は、ポワゾン伯爵令嬢と共に私室まで来てしまったのだった。

「ここまで引き上げてこなくても良かったのでは? 王太子殿下。舞踏会近くにも休憩のための部屋はありましてよ」
「あの場にはもう、居たくなかったのだよ。レイチェル伯爵令嬢殿」

 ソファの上に寝そべったアイゼルは、レイチェル伯爵令嬢をそっと引き寄せた。
 レイチェルはムッと顔をしかめる。
 鼻の上に何本かすじが出て目が剣呑な色を帯びるが、それをアイゼルが気にかける様子はない。
 アイゼルは相手を抱き寄せると、寝そべる自分の腹の上に座らせた。

「ちょっと殿下。オレがイエガーだって事、分かってますよね?」
「分かっているよ。こんな固いお尻をした令嬢などいるものか」
「随分と、令嬢のお尻事情に詳しいんですね」
「私は一般論を言っているまでのこと。あらぬ疑いをかけないで欲しいな、ポワゾン伯爵令息殿」

 王太子アイゼルは、美しく整った顔をしかめてみせた。

「そんな表情まで美しいとは。ムカつく」

 イエガーはアイゼルの高い鼻をつまんだ。

「ちょっ……やめてくれよ」
「大きな声を上げないでくださいまし、殿下」

 高くなよやかな声を出したイエガーは、アイゼルの耳に形の良い唇を寄せてささやく。

「この僕がわざわざ女装してまで貴方に付き合ってあげているんだから。調子に乗らないでくださいよ」
「キミこそ、慣れ過ぎじゃないか? キスをしているように見えるような、見えないような、ギリギリの距離まで近付く、ってのは他人の目を誤魔化すのに良い方法だけど。此処は私室だよ。近付くことにキミは慣れ過ぎているよ」
「そりゃ、殿下。私室だからって他人の目がないとは限りませんからね」
「油断はできないということか?」
「そういう事です。殿下も分かってて僕を腹の上に乗せたんでしょ?……とはいえ、この状況はやりすぎかもしれませんね」
「分かってる……分かってるよ」
「どうかしましたか?」

 イエガーは真剣な顔をしてアイゼルを覗き込んだ。
 王太子にしては珍しく、表情が冴えない。

「ちょっと、な……今日は、堪えた」
「何がです?」
「色々と、だ」

 アイゼルは諦めたように溜息混じりで言う。

「見たか? 私の贈ったドレスを身にまとったミカエラの姿を」
「ええ、拝見しましたよ」
「素敵だっただろ?」
「ええ、素敵でしたよ」
「ただでさえ美しくて可愛いのに、私の色を身にまとった彼女ときたら……」

 アイゼルはうっとりと溜息を吐く。

「私は……ミカエラを愛している」
「知ってますよ。だから僕を目くらましに使って守っているんでしょ?」

 意外なことに王太子アイゼルは、ミカエラを愛していた。
 愛するがゆえに遠ざける。
 それは分かりにくい図式だが、相手が王太子であればイエガーにも理解できた。
 王族との婚約や婚姻は厄介だ。

「今夜の彼女ときたら。あの輝き。あの美しさ。こちらを見る視線の愛らしさを」
「見ましたよ。ええ、たっぷりと拝見させていただきました」

 王太子は悩ましげな溜息を吐いた。

「あれ以上、触れあっていたら。今夜、この部屋に連れ込まれていたのは彼女だったかもしれない」
「それは……ちょっとマズイですね」
「ちょっとか?」
「大変マズイ、かもしれません。でも、婚約者でしょ? 気にしすぎでは?」
「そんなことはないよ。令嬢たちの嫉妬を甘くみてはいけない。貴族たちの欲もね」
「まぁ……なんとなく分かりますけども」
「私はミカエラを、守りたいんだ」
「令嬢たちの嫉妬からも、貴族たちの思惑からも守らないといけない、となったら大変だ。単純に王太子妃の座を狙うだけではなく、政治的な意図を持って近付いてくる輩もいますからね。ミカエラさまに攻撃的な者はもちろん、取り入ろうとする輩だって厄介だ」
「ああ。魑魅魍魎で溢れているからな。私に愛されている、と、分かれば。彼女が、どんな危険な目に遭うか分かったもんじゃない。彼女に何かあったらと思うと……私はそれが恐ろしい」
「本当に愛してるんですね。ミカエラさまのこと」
「ああ。そうだよ。愛してる」
「なら良いですけど……僕の協力料は安くはありませんからね」
「分かっているよ。キミの姉君については、隠し通せているだろう?」
「まぁ、その点は感謝してますよ。姉の現状については、詮索されたくありませんからね」
「姉君は、相変わらずなのか?」
「ええ。相変わらず。眠ったまま、何の反応もしてくれません」
「それは心配だね」
「ええ、心配です。でも、生きてますから」
「ああ、生きているのは良いことだ」
「両親にとっては、どうだか分かりませんけどね」
「どう思っていた所で、実権はキミにあるんだろ?」
「ええ。姉のために、僕はポワゾン伯爵の実権を手に入れたんでから。両親に任せておいたら姉をどんな目に遭わせるか、分かったもんじゃない。昏睡状態のまま、どこかへ嫁にやるか、修道院へ入れるか。……最悪、殺すかもしれない」
「まぁ、貴族なんて、そんなもんだよな」
「でしょうね。体面やら見栄やらで出来ている。昏睡状態の娘がいるなんて知られたくないのですよ。……あの人たちの娘なのに。愛なんてどこにあるのやら」
「辛いね」
「ええ、辛いですね、お互いに」
「私はミカエラを愛しているけど……それを知られたら、彼女がどんな目に遭うことか。それが怖い」
「そうですね。僕も姉の現状を知られたら怖いですよ。持参金目当てや、伯爵家と縁結びのために、結婚の申し込みでもされたら……僕は、その相手にも、両親にも、何するか分かりませんよ。貴族なんてろくなもんじゃないですからね」
「ああ。王族もそうだな」
「平民だったら性格いいかというと、そうでもありませんし。神官たちだって、どうだか。人間なんて、みんな一緒なんですかね?」
「そうかもしれないね」
「でも、殿下はミカエラさまを愛しているんでしょ?」
「ああ。彼女を愛してる」
「彼女は特別なんですよね?」
「ああ、特別だ」
「特別な人がいるって、良いですよね」
「ああ、良いね」
「苦しさもありますけどね」
「ああ、あるね」
「だからって、手放せない」
「ああ。手放せない。離れられない。手元に置きたい。彼女に万が一のことがあったら……私は、何をするか分からない」
「ふふ。ちょっと妬けるね」
「……どっちに、だ?」
「さぁ、どっちでしょうね。……ふふっ。睨まないでくださいよ、怖い怖い」
「……」

(私がミカエラを愛し始めたのは何時だったか……もう覚えてはいないけれど……)

 アイゼルは、黒髪黒目の可愛らしい令嬢に恋をした。
 彼女は、その事実を知らない。

(でも。私が本当に心から彼女を愛していると知られたら……彼女がもっと危険な目に遭ってしまう)

 それだけは嫌だった。
 ただでさえ、ミカエラに負担をかけていることは分かっていた。

(私が彼女を守りたいのに……彼女に私を守らせるなんて……)

 その事が辛い。

(ミカエラを本当に愛しているなら、徹底的に嫌われるようにすべきなんだろうけど……)

 すまないと思いつつも彼女を手放せない事に、アイゼルは悩んでいる。
 結果として、ミカエラの心を振り回して傷付けていることは分かっていた。
 それでも上手に向き合うことが出来ないのだ。
 ミカエラへの愛に。
 愛ゆえにミカエラを傷つけてしまう自分に。

(ミカエラに興味がなかったり、嫌いだったりすれば、もっと上手く付き合うことができるのに……)

 ミカエラの持つ異能を考えたら、打算的に付き合う方が上手くいくことだろう。

 だが、自分は愛してしまった。
 自分の受けた危害の全てを引き受け、癒してしまう異能を持った彼女を。

(誤魔化すだけていいんだ。彼女を傷付ける必要なんてないのに……)

 それが分かっていても上手くはいかない。
 アイゼル自身は、その失敗の原因が愛ゆえだと気付いてはいなかった。
 愛があるから芝居に出来ない。
 芝居で終わらない触れあいは、結局彼女を傷付けることになる。
 触れ合わなければ傷付けることは減るけれど、それではアイゼルのほうが収まらない。
 不意打ちのように湧き上がる彼女への想いに、アイゼル自身も振り回されていた。
 衝動的に行ってしまう愛ゆえの行為が彼女に期待を持たせ、愛ゆえの恐れによって傷付ける。
 その繰り返しだ。

(でも、誤魔化さないと……彼女に何かあったら……私は正気を保てない)

 だからアイゼルはイエガーの双子の姉レイチェルの事情を知った時、イエガーに協力を依頼したのだ。
 イエガーはそれに応じた。
 姉を守りたいイエガーと、ミカエラを守りたいアイゼルの利害が一致したからだ。
 が、ミカエラの異能については、イエガーには話していない。
 彼の抱える問題に、彼女の持つ異能が効果を発揮すると思われてしまったら困るからだ。
 イエガーが親友であることに偽りはない。
 だからといって、全てを信じてしまうのは違うとアイゼルは思っていた。

 ミカエラの持つ、『愛する人を守る』と、いう異能には謎が多い。
 昏睡に陥っている姉レイチェルを目覚めさせる力がミカエラにあると、イエガーに思わせてはいけない。
 ミカエラの持つ異能が万能だと思われてしまう事。
 それはとても危険なことだ。

 勘違いさせないためには、異能を知られないのが一番良い。

 だが。
 命の危機を不自然に回避している自分を見て、勘の良いイエガーが何も気付かないとは思えない。
 そこまでアイゼルは鈍くはなかった。
 彼は何かしら気付いている。
 アイゼルは、そう確信していた。
 だから注意深く観察しておかねば、と、アイゼルは思う。
 裏切られてミカエラを奪われてしまったら大変な事になってしまうからだ。

 イエガーがミカエラのことを愛するとは思っていないし、彼女が彼を愛するとも思ってはいない。
 しかし、異能の内容については、詳しく分かっているわけではない。
 勝手に思い違いをして暴走されては厄介だ。

(ミカエラ。この純情を、この愛を、憂いなくキミだけに捧げることができるなら。私は悪魔にでも魂を売るというのに……)

 切なげに溜息を吐くアイゼルは、この時、愛しい人がどんな目に遭っているのかを知る由も無かった。










 気付けばミカエラは、両手両足を縛られて冷たい床の上に転がされていた。
 口も紐のような物で縛られていて助けを呼ぶこともできない。

(ここは、どこ?)

 辺りは薄暗いが、蝋燭の炎が揺らめいていて室内の様子は伺うことができた。だから、ミカエラは断言できる。

(こんな場所、知らない)

 部屋は広かった。
 物はゴチャゴチャと置かれているようだ。しかし、全て布に覆われていて何が置かれているのかを確認することはできない。

 見知らぬ場所にひとり取り残されたミカエラは、これから起きることへの恐怖に細い体を震わせるのだった。

しおり