12.傷
痛い、痛い、痛い。
ミカエラは自室のベッド上で呻いていた。
「大袈裟ですよ、ミカエラさま。明日の朝には治っているのですから、騒がないでください」
侍女はいつものように冷たく言い放つ。
だが。
それが分かっていたとして、何の意味があるのか。
(いま痛いの。傷が、とんでもなく痛いの!)
いまの痛みが事実なら、それ以上に重要なことなどミカエラには無いではないか。
だがミカエラの痛みは、ミカエラ以外にとっては意味がない。
侍女ルディアは冷たい表情で見下ろしながら傷口の包帯を取り換える。
その隣で、白衣を着た老人は苦笑いを浮かべていた。
「まぁまぁ。いつもの事だといっても、痛みは取れないのだから大目に見てお上げなさい」
「先生。今回のことは先生も悪いのですよ?」
「はははっ。いや、面目ない。どうせ死なないと分かっているから、つい。一気に小剣を引き抜いてしまってな。だから血は噴き出してしまったというわけだ」
「そんなことだろうとは思いましたが。王太子殿下が無事だとしても、ミカエラさまのことを気付かれないようにしなければいけませんので気を付けてくださいね。一応、王太子殿下の婚約者なのですから。部屋に引きこもっているわけではないのですよ? 他人の目は意識してください」
「ははっ。分かった、分かった。王太子殿下の傷から血が噴き出してしまっては困るが、違う場所で起きることまで気が回らなくてな。年かな?」
「先生は……まぁまぁ御年を召していらっしゃいますが……秘密を守るためには頑張って頂かないと困るのですからね?」
「分かっているよ、ルディア」
「王太子殿下が国王になられても続くのでしょう? 秘密を守るためには、何十年とコレに付き合わなければなりませんのよ」
「確かにそうだな。私の次の世代についても考えておかねばならんな」
「何をおっしゃいますやら。まだまだ先生は頑張ることが出来るではないですか」
「それでもいつかは世代交代せねばならんしな。それに、私だって少しは老後を楽しみたいよ」
「私もそれは同じですわ、先生。いつまでも、こんなお世話ばかりでは嫌です」
「それは、どんなもんかなぁ。王妃さまの侍女長に収まったら、ちっとやそっとのことでは辞める気にはならんじゃろう。女性としては、かなりの高い地位じゃ。その地位を辞する覚悟は、なかなかできますまい」
「そうかもしれませんけど……」
「まぁ、先々のことについては考え過ぎんことだな。気が変になる」
「そうですわね」
「さて、私はそろそろお暇するか。……一応、痛み止めの薬は置いていくが……どうせ効かないだろうな。また明日の朝に来るよ」
「分かりました。ご苦労さまでした、先生」
「おやすみ、ルディア」
「おやすみなさい、先生」
医師はミカエラの生存の確認だけ済ませると帰って行った。
ベッドの上でミカエラは、のたうち回る。
今日のネグリジェも赤い。
深紅のシーツを握りしめ、苦悶の表情を浮かべ、身をよじらせたところで同情心のひとつすらも得られない。
そんな事はとっくの昔に知っている。
それでも苦しいものは苦しいし、痛いものは痛い。
もだえ苦しむことは、ミカエラの意思で止められるような事ではないのだ。
「うぅ……」
背中の真ん中辺り。
神経が集まっているあたりを刺された。
本来であれば、もがき苦しむだけでは済まない。
命に関わらなくても、体を思うように動かせなくなる危険はある。
もちろんミカエラは回復してしまうし、アイゼルの体に支障が出ることはない。
(彼の命は守られる。私の命も守られる。では……心は?)
その答えをくれる者などいない。
豪奢な部屋が寒々しく思えるほど、此処にはミカエラのことを想ってくれる人はいない。
(優しくしてくれないアイゼルさまの為に苦しまなければいけないなんて……どうして……どうして、私は……あの方の事が嫌いになれないのかしら……)
王太子アイゼルへの愛が無くなった瞬間、この身を苛む痛みからは逃れられるのだ。
(もう痛いのも、苦しいのも、たくさん。嫌なのよ、私は。こんなに苦しまなければならない人生なんて……)
逃げたい。
逃げ出したい。
だからといって、どこへ逃げ出せばいいのか。
王宮から逃げた所でアイゼルへの想いが無くならなければ、彼が襲われるたびに苦しむことになるのだ。
どこに居るのかは重要ではない。
ミカエラの気持ちのほうが重要なのだ。
(どうすれば、アイゼルさまを愛する事をやめることができるの?)
第一王子にして王太子アイゼルの姿を思い浮かべてみる。
金色の髪は輝き、スラリと背が高く、整った顔に青い瞳の、甘い笑顔を浮かべる青年の姿を。
締まっている体は細く見える。
だが筋肉が付いていないわけではない。
剣を振るう彼の姿は、迫力もあるし動きに無駄がなく美しい。
逞しい王子さま。
嫌いになんてなれない。
だけれども。
私の……私だけの、王子さまでは無いの。
彼の甘い笑顔は、いつも誰かミカエラ以外の令嬢に向けられている。
(あの笑顔を私のものに出来るのなら……あぁ、ダメ。アイゼルさまの事を嫌いになるなんて、私には出来ないっ)
愚かだと思う。
思いを返してくれない男性の為に、自分の全てを捧げるなんて。
逃げたいと思っても、逃げられない。
自分の気持ちからは――――。
(でも……逃げたい……)
アイゼルからも。
アイゼルへの想いからも。
ミカエラの運命からさえも、尻尾を巻いて逃げ出したかった。
(痛いだけの人生なんて……嫌……)
なぜ自分には、こんな異能があるのだろう。
こんな異能さえなければ、普通の令嬢として暮らしていけたのに。
(地味でも、慎ましやかでもいいの。幸せに暮らしたいわ)
ミカエラの希望は昔から変わってはいない。
王太子婚約者などという派手な立場は望んではいなかった。
幸せに暮らしたいだけなのだ。
自分にとっての王子さまと一緒に。
(それはもう、叶わない……)
次期国王となる王子さまの、妻となるのだ。
小さな幸せでもいい、などと呑気な事は言えない。
国を巻き込む陰謀の渦中に、常に置かれることとなる。
(それは……私が一生、痛みから解放されないことを意味するのね……)
その傷は、一晩中疼いた。
だが、やがて傷は癒え消えていく。
傷痕すら消えるのだ。他人に同情や理解を求めても無駄だ。
しかし。
ミカエラの心に残る傷は癒えることなくそこにあり、消えることも癒えることもなかった。