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11.イエガー・ポワゾン

 イエガー・ポワゾン伯爵令息もまた、悩める人間のひとりである。

 薄茶の髪と瞳を持つイエガー・ポワゾン伯爵令息は、どこにでも居そうな貴族令息だ。
 男性としては少し小柄なタイプではあったが、剣を持たない貴族としては珍しくもない容姿である。
 ポワゾン伯爵家も、貴族の家としては普通であった。
 財力も政治への影響力も、どうということのない普通の伯爵家である。
 特徴と言えば広い領地を持つことと、男性と女性という珍しい組み合わせの双子がいることくらいであった。

 もちろん、それは表向きのことである。

「お姉さま。今日のご加減は、いかがですか?」

 イエガーは姉に声を掛けた。
 返事はない。
 双子の姉であるレイチェル・ポワゾン伯爵令嬢は、天蓋付きの可愛らしいベッドに横になり眠っている。
 その姿は、双子の弟であるイエガーとよく似ていた。
 あえて違いを言うならば、レイチェルは儚げな美人であるということと、目覚めないということがあげられた。

「エリー。お姉さまの様子はどうだった?」
「はい。本日もお変わりなく。穏やかに眠っていらっしゃいます」
「そうか。目覚める様子はない、と?」
「はい。ぐっすりと眠ったままでございます」
「そうか」

 イエガーは痛ましいものを見るように双子の姉を見下ろした。

 レイチェルが寝たきりの植物状態になってから長い年月が経つ。
 その事は秘密とされ、知る者は限定的だ。

「レイチェルさまは、こんなにもお美しいのに。お労しいことですわ」

 幼少の頃よりの長い付き合いである世話係のエリーは涙ぐみながら言う。

「社交界にいらしたら、殿方が放ってはおきませんでしょうに」
「そうだね、エリー。お姉さまの魅力に、皆、目を見張ることだろうね」

 実際、そうなることだろう。
 レイチェルの状態を知られぬよう、イエガーが女装して社交界にデビューした。
 女装したイエガーであるレイチェル・ポワゾン伯爵令嬢の評判は上々だ。
 実際に姉が社交界に出たのなら、もっと評判は上がるに違いない。
 儚げな美しさを持ちながら、強く優しい女性であるレイチェル。
 美しく淑やかな令嬢として、どんな男性でも手に入れることが出来るだろう。

(そうさ。お姉さまには、出来た筈だ。幸せな未来を手に入れることが……) 
 
 今からだって。
 幸せになれるはずだ。
 目覚めさえすれば。

「エリー。僕がお姉さまを見ているから、下がっていいよ」
「かしこまりました」

 エリーが出て行く気配がして、ドアが閉まる音がした。

 その部屋は貴族令嬢のものらしく豪奢なものだった。
 だが、時は止まっているように見えた。
 必要最低限の物しか動かされることのない部屋は、部分的に生活感がない。
 ネグリジェは日常的に使われているのに、ドレスやそれに関連する物たちは動かされることもなく静かにそこにある。
 ヘアブラシは毎日のように使われているが、ドレッサーが使われることはない。
 その程度のことだが、貴族令嬢にとっては重要な違いだ。

 イエガーはベッドの脇に椅子を引き寄せ、そこに座るとレイチェルの手をとった。
 その手は痩せ細り、とても小さく見えた。

「お姉さま。今日は王宮で騒ぎがありましたよ。王太子であるアイゼルが襲われましてね。……まぁ結果として彼は、いつも通り何事もなく助かりましたけれど……」

 王太子であるアイゼルは、いつも助かる。その幸運ぶりは不自然なほどだ。

「アイゼルの身に起こる幸運の何分の一かでも、お姉さまが得られたら良いのに」

 いつも不自然なほど助かっている幼馴染を、不審に思わないかと言えば嘘になる。
 彼は王族だ。
 何かしらの秘密があっても不思議ではない。
 その秘密をレイチェルにも分けてくれたなら、と、イエガーが思うのは自然なことだ。

(彼の側に居れば、そのうち秘密を知ることができるかもしれない)

 イエガーは、そう考えていた。
 レイチェルの姿をしたイエガーが、アイゼルの側に居る理由のひとつである。

(お姉さまが目覚めるなら、幼馴染を裏切ることも、王家を利用することも、僕は厭わないし……ね)

 しかし、今のところは。
 どんな秘密があるのか、イエガーには皆目分からなかった。
 だから、側に居続ける必要がある。

「彼を守るために、僕も活躍したのですよ。お姉さまにも見せてあげたかったな。僕の活躍を……」

 王太子を守ったのは、国の為でも王家の為でもない。
 他ならぬ姉のためだ。

「ねぇ、お姉さま。貴女はいつになったら目覚めるのかな?」

 レイチェルが目覚めなくなったのは、彼女の身長がイエガーの身長を越した頃だ。
 女性の成長と男性の成長ではタイミングが異なる。
 双子であっても、女性であるレイチェルの方が成長は早かった。
 イエガーは、その頃、姉とした会話を今でも覚えている。

「お姉さまの方が大きいなんてズルいよ。僕は男なのに」
「うふふ。イエガー、男の子は大きくなるのが遅いのよ」
「そんなのズルい」
「ズルくなんてないわ。貴方は男の子なんだから、最終的には私よりも大きくなるのよ」
「本当?」
「そうよ。双子だからって、全てが同じようにはならないわ。ましてや、私と貴方は性別が違うでしょ?」
「そうだね。だから、男である僕のほうが大きくなるべきでしょ?」
「タイミングが違うだけよ。女の子は、ササッと大きくなってしまって、早くに成長が止まるのよ」
「そうなの?」
「そうよ。私の身長は、この辺りで止まるのかしら? 女性は、あまり大きくない方が好まれるのよ」
「背が低い方が、モテるってこと?」
「ええ。そうね。小柄な方が男性から人気があるわ。男性でも小柄な方はいらっしゃるから」
「そうか。確かに自分よりも大きな女の子より、小さい女の子のほうがいいかも」
「うふふ。イエガー、実感がこもっているわね。誰か気になる女の子でもいるの?」
「そんなことないよっ」
「あら、真っ赤。ふふ。図星を突いてしまったかしら?」
「もうっ。お姉さまったら。僕、知らない」
「あらあら。私の可愛い弟が拗ねてしまったわ」

 そんな会話をした日の夜。
 レイチェルは寝床について、そこから目覚めることは無かった。
 それは今日まで続いている。

 最初の頃、両親は嘆き悲しんだ。
「なぜレイチェルは目覚めないのかしら?」
「あぁ、私たちの可愛いレイチェル。お父さまは、お前の為なら何だってするよ」

 その『なんだってする』の意味は、流れていく年月に従って変わっていった。

 イエガーが、それに気にづいたのは、学校を卒業する少し前のことだ。
 貴族令嬢は、十代のうちに結婚するのが通常である。
 しかし、レイチェルは目覚めなかった。
 体面を気にする貴族にとって、選択肢は少ない。
 修道院へ送るか、無理矢理結婚させるか、あるいは――――。

 両親たちは悩みはするが、いずれ何らかの選択をすることをイエガーは知った。
 そこからイエガーがポワゾン伯爵家の実権を握るまで、そう時間はかからなかった。
 彼の幼馴染には、王太子であるアイゼルがいる。
 イエガーは自分の持っている力の全てを使った。
 そして、当然のようにアイゼルの力も借りた。
 イエガーが欲したのは実権のみ。
 爵位は必要なかったし、むしろ邪魔であった。
 レイチェルを守るには、彼女の存在を確実にしておく必要があったからだ。
 イエガー自身は領地経営をするという名目で社交は最低限にし、社交界にはレイチェルが姿を現す。
 彼は、ポワゾン伯爵家の領地経営を手伝うイエガーという息子と、社交界の華であるレイチェルという娘、その両方の役割を果たし始めたのだ。
 そうすることで、両親がレイチェルに害のあることが出来ないようにした。

「レイチェル……僕の大事なお姉さま……貴女を守るためなら、僕は何だってするよ……」

 イエガーの言葉に嘘はない。
 実際、彼は何でもした。
 レイチェルという存在を生かすためなら女装もする。
 他の事でも迷うことなく実行に移してきた。

「でも、レイチェル。時間は止まっていてはくれない……」

 レイチェルもイエガーと同じ22歳。
 既に行き遅れの令嬢だ。
 何でもするとはいえ、レイチェルの代わりに嫁に行くことは出来ない。
 いや、レイチェルを嫁に出せるくらいなら、イエガーが女装してまで社交界を騙す必要などない。

「寝たきりであっても、お姉さまの意思を確認した後なら、お嫁に出すことだって厭わないけれど……」

 眠ったままのレイチェルの意思を確認することはできない。
 イエガーには姉を溺愛している自覚があった。
 双子の姉を守る為ならば、自らの手を汚すことも迷わないだろう。
 姉への愛は、ややもすると危険な域にまで達してしまう。
 その危険性を自覚はしているものの、止める気などない。

「レイチェル……お姉さまを癒すことが出来るのなら……僕は何だってするのに……」

 イエガーは握った姉の細い手を額に当てて、祈った。

 神でも悪魔でもいい。
 姉を目覚めさせてくれるなら誰でもいい。
 姉を目覚めさせてくれるのなら、僕は何だってする。

 誰に宛てての祈りか分からないまま、イエガーは祈った。

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