バナー画像 お気に入り登録 応援する

文字の大きさ

2.ミカエラ

(また、ですの?)

 ミカエラ・ラングヒル伯爵令嬢は、そっと溜息を吐いた。
 その美しい黒い瞳に婚約者である王太子、アイゼル・イグムハットの姿を映したからだ。

 午後に予定されている王妃教育を受けるために王宮の廊下を歩くミカエラが、ふと庭園に目をやった時の事だ。
 自分の婚約者であるはずの男性に、女性が群がっているのが見えた。

 彼女の婚約者である第一王子で王太子であるアイゼル・イグムハットは22歳。
 母親は王妃。
 正妃である王妃セレーナに男子はひとりしかいない。
 アイゼルを王太子たらしめる理由は他に必要なかった。
 背が高く、スラリとした印象の王太子は、青い瞳に煌く金髪、健康的な肌色をしている。
 整った顔立ちではあるが、女性的には見えない。
 男性優位の国にあって侮られない程度の筋肉と威圧的な雰囲気を持った青年だ。

 心技体、全てにおいて優れた男性でもあるアイゼルにも弱点はある。
 それは、女好きという点だ。
 男性優位の貴族社会において、それすらも絶対的な弱点とは言い難い。
 だが。
 ミカエラの心をえぐるには、十分過ぎるほどの特徴であった。

 薔薇の花が咲き乱れる庭園では、女性たちに囲まれた美丈夫が、降り注ぐ太陽の日差しを浴びて金髪を煌かせながら笑っている。
 無邪気さを感じさせるほど明るい輝く笑顔は、しばし公務を離れた男性が癒されている証に見えた。

(あのような笑顔。私には見せて下さらないわ)

 ミカエラの胸はツキンと痛んだ。
 思わず、目を背ける。
 いつものことであっても、この痛みに慣れることはない。
 いっそ、何も感じなければ、とも思う。
 だが、ミカエラの心はアイゼルの元にあるのだ。
 異能が教えてくれている。
 知りたくもない自分の心のある先を感じながら、彼女はいつも苦痛に耐えていた。

(私が昨夜、苦しんだこともご存じだろうに。気遣ってすら下さらないのね)

 彼のためにミカエラは苦しみを味わったのに。
 彼は全く関係ないとでもいう様子で令嬢たちと楽しそうにしている。
 警護の者たちが調べているが、十中八九、アイゼルは毒を盛られたのだ。
 ミカエラは彼と共に食事を摂ってなどいない。
 それでも、盛られた毒に苦しむのはミカエラである。
 ミカエラが持っている異能とは、そういうものなのだ。

(嫌いに……なれたら、いいのに……)

 アイゼルからミカエラの心が離れたのなら、異能が効果を発揮することはない。
 彼のことを嫌いになれたなら。
 嫌いになりさえすれば、ミカエラは苦痛から解放されるのだ。
 しかし、そうはならない。
 ミカエラの心は彼の元にある。
 初めて会った日からずっと。

 ミカエラは庭園を見やった。

 アイゼルを取り囲む女性たちは貴族の令嬢たちだ。
 華やかで美しく、気品もある。
 特に親しいのが、レイチェル・ポワゾン伯爵令嬢だ。
 今も頬が触れ合わんばかりの距離で笑い合っている。
 近寄っても下品にならず、誰かに咎められることのないギリギリのラインを、彼女たちは知っているのだ。

 ギリギリを超えた所で咎められるはずもない。
 ミカエラが正妃となったとしても、側妃の席は空いている。
 爵位が高すぎず、政略的に釣り合った貴族令嬢であれば、側妃を目指したとしても当然の事なのだ。
 むしろ、家族から勧められているだろう。
 ミカエラが正妃になった所で飾りのようなものだ。
 側妃として寵愛を受ければ、未来の王の母となることも夢ではないのだ。

 レイチェル伯爵令嬢は爵位も高くないし、髪も瞳の色も薄茶色と派手さはない。
 だが、なんとも言えない色香の漂う令嬢である。
 双子の兄、イエガー・ポワゾン伯爵令息が王太子の幼馴染ということもあり、ふたりは特に親しい。

 ミカエラはキュッと唇を引き結んだ。

 自分がアイゼルの側に居るのは、愛されるためではない。
 彼を守るためだ。
 そのことはミカエラも十分に分かっていた。
 彼を愛し、側にいることで、王太子は守られる。
 不埒な輩の刃に襲われようとも、食事に毒を盛られようとも、彼は生き延びる。
 そのために、ミカエラはここにいるのだ。
 愛されるためではない。

 愛を求められているのは、ミカエラにだけだ。
 彼に愛を返す義務はない。

(分かってはいるけれど……辛い……)

 ミカエラには王太子を愛することが求められるけれど。
 アイゼルに愛を求めることは出来ない。
 彼がどう思っているか、など関係がないのだ。
 それが彼女の持つ異能の特殊性でもある。
 ミカエラが愛しさえすれば、王太子は何があろうとも生き延びるのだ。
 本来であれば、お側に上がる必要すらない。
 ミカエラの心が離れさえしなければいいのだ。
 丁寧に扱おうと、雑に扱おうと、関係はない。

 雑な扱いには理由があるのだ。

 それに、この異能はミカエラの命を脅かすことはない。
 彼女は簡単に死ぬことはないからだ。
 異能は彼女に高い治癒能力を与えている。
 だから、どれだけ身代わりになっても、ミカエラの命を脅かすことはない。

 普通の人間であれば、剣で刺されたり、毒殺されかけたりすれば、それなりのダメージを負うことになる。
 だがミカエラは高い治癒能力によってダメージから容易に回復することができる。
 そのスピードは早い。
 一晩あれば、大体のダメージからは回復することが可能だ。

 だから扱いは雑になる。

(死なないけれど。体の機能が損なわれることもないけれど。痛いのよ)

 異能に痛みの軽減は含まれてはいない。
 ダメージからの回復には壮絶な痛みが伴う。
 そして、この痛みには薬が効かない。
 ミカエラは耐えるしかないのだ。

(最近は、回数も増えているし……)

 王太子であるアイゼルは常に狙われている。
 たびたび起きる暗殺はミカエラに壮絶な痛みを与えるけれど、彼の命を奪うことはできない。
 一度や二度なら幸運で済むだろうが、こう何度もあれば不自然さに回りも気付くだろう。

 ミカエラの異能については秘密とされている。
 しかし、そろそろ周囲も気付く頃だ。
 なぜ暗殺は常に未遂で終わってしまうのか?
 その疑問に対する答えを探しているうちに、いずれはミカエラに辿り着くことだろう。

(異能がバレた時、私は……どうなるのだろうか……)

 ミカエラは王太子にとって大切な存在であるはずだが、守られている気はしない。
 むしろ。
 死なない便利な道具のように扱われていると感じる。

 死ななくて、便利な女。

 だからだろうか。
 ミカエラに求められているのは、王太子の命を守ることだけではない。
 未来の王妃としての役割も求められている。

(命を守るだけでなく働け、ということよね)

 王妃教育も厳しく、ミカエラには気の休まる暇がない。

(せめてアイゼルさまが、私のことを少しでも気にかけて下されば良いのだけれど……)

 王太子は令嬢たちを侍らせる上に、なぜかミカエラにだけは冷たいのだ。

(実家にも私の居場所はないし……)

 異能が発現し、王太子の婚約者と決まってからは、王宮住まいになっている。
 まだ10歳にも満たないミカエラは、早々に実家から出されてしまった。
 時折り顔を合わせる父親は、家のために王太子の婚約者としての務めを果たせ、と、言うばかりでミカエラに対して優しい気持ちを見せてくれることはない。
 母親とは、しばらく会ってもいない。
 離れて暮らしているせいなのか、王太子の婚約者という立場のせいなのか、兄弟姉妹はいるものの関係性は薄い。
 もはや実家にミカエラの居場所など無い。

 ミカエラには逃げ場すら用意されてはいなかった。

 しかも命をかけて王太子を守っているミカエラに浴びせられる言葉は、

  可愛げが無い、
  不気味、
  無能、

  そして悪役令嬢。


 彼らは知らない。
 ミカエラが、王太子の命を守っていることを。
 知らなければ、疑問に思うのは当然なのだ。
 美しくもなく、後ろ盾もたいしたことがない伯爵令嬢ごときが、なぜ王太子の婚約者でいられるのか、と。

 クスクス笑いながら令嬢たちに「あの方、赤がお好きよね。派手好みなのね」などと言われることもよくある。

 しかし、赤をよく着るのは赤い色が好きだからではない。
 血の色が目立たないようにするためだ。
 ベッドカバーが深紅なのもそうだ。
 血を吐いたり、出血したりすると、どうしても汚れる。
 白では目立ち過ぎるから、赤なのだ。
 深紅の服を着ていれば、血と汗の区別がすぐにつくわけではない。
 血が染み出た所で汗染みに見えれば異能に気付かれる危険は減る。

 ミカエラが笑われるだけで済むのだ。

 だから、ミカエラは赤を着る。
 深紅のシーツを使う。
 それだけのこと。
 それだけのことなのだ。
 ただ、それだけの事なのに。

 なぜ……ミカエラの心は軋むように痛むのか。

 ミカエラが笑われようと、血を流そうと、気にならない人を守っているからだろうか。
 守っているのだから、私を守って欲しい。
 そんな当たり前のことも、叶えて貰うどころか、口にすらできないと感じるからだろうか。

(こんな状態で、私は……いつまで彼を愛せるのだろうか? 私は……本当は、どうしたいのだろう……か?)

 答えは見えない。

しおり