1.苦しみ
苦しい! 苦しい! 苦しい!
王太子の婚約者であるミカエラ・ラングヒル伯爵令嬢は、赤いネグリジェに包まれた細い体を絞り上げるようにしてベッドの上で身悶えていた。
動きに合わせて引き攣れる深紅のシーツの上を光沢がうねうねと這っていく。
白過ぎる肌は血の気を無くし蝋のようだ。
彼女がのたうつたびに真っ黒な長い髪が深紅のシーツに散らばる。
いくつかの束に分かれて動く黒髪は、蝋燭の灯りに照らされて何匹ものヘビが絡み合っているようにも見えた。
骨と皮のような指が、喉を掻きむしる。
細すぎる首に爪の先が食い込んでいくのを、ベッドの脇に立つ侍女は冷たい瞳で見下ろしていた。
「グッ……ゲホゲホ……ゲボッ」
「もう、汚いっ! いい加減、吐くかどうかくらい自分で分かるでしょ⁉ ちゃんとしてよねっ!」
いかにも汚いモノを見るような表情を浮かべた侍女ルディアは、おう吐物にまみれたミカエラを憎々しげに睨む。
ルディアにしてみれば、侍女として仕える身であるとはいえ伯爵家の令嬢たる自分が汚物処理をしなければならないことに納得できていないのだ。
相手が王太子の婚約者であり、未来の王妃、国母になる女性であったとしても、それは変わらない。
「ごっ……ごめんなさ……ゲボッ」
「あぁっ! またっ⁉」
ミカエラがおう吐し、深紅のシーツが汚物にまみれ汚れる。
血と消化途中の食べ物、胃の分泌液にまみれたおう吐物は、とんでもなく臭った。
豪奢な部屋の中に、おう吐物の臭いが充満していく。
侍女の顔は更に醜く歪み、眉間のシワは深くなった。
「グッ……ぁあ……ゲホゲホ……」
細い体をのたうち回らせて苦しむミカエラに寄り添う者は、そこに居ない。
王宮内に用意された未来の王妃の部屋だというのに、華やかさはトゲトゲしさに化けるばかりで安寧を感じるには程遠い場所となっていた。
「苦しそうにしてたって、朝にはケロッと治っちゃうんだから。ホント便利な体よね」
「ゲボッ」
「だからっ。汚さないでって!」
イライラとした声を出す侍女の隣で、白衣を着た老人は溜息を吐く。
「いつもの事だ。ルディア。キミも少しは慣れておきなさい」
「嫌なことを言わないで下さいよ、先生」
「王太子は狙われるものだ。王になればなおのこと。減ることはない」
「あぁ……そうですよね」
「今夜のような事は何度でも起きる。昼夜を問わずね」
「はぁ~……あ。すみません。先生のせいではないのに」
「気にするな。キミの気持ちも分かるよ。一応、薬は置いていくが……必要ないだろう。また明日の朝に来るよ」
「分かりました。ご苦労さまでした、先生」
「おやすみ、ルディア」
「おやすみなさい、先生」
医師はミカエラの生存を確認すると、おざなりの処方薬を残して帰って行った。
「あぁっ!」
「もうっ。うるさいっ」
苦痛にうめくミカエラに、侍女は冷たく言い放った。
この部屋は、ミカエラの部屋だ。
ミカエラは未来の王妃となる立場であり、現在は王太子の婚約者である。
だが。
伯爵令嬢でもある彼女に寄り添い気遣ってくれる人物は、誰一人としていない。
「いくら秘密にしなきゃならないからって。なぜ私がこんな目に? ホント、損な役回りだわ」
侍女はブツブツ言いながら、おう吐物の処理を始めた。
ミカエラ・ラングヒル伯爵令嬢は18歳。
王太子であるアイゼル・イグムハットの婚約者である。
身長165センチでやせ型。
黒い髪に黒い瞳。
唇は血の気の薄いピンク色。
特別美しいわけでもなく、後ろ盾がしっかりしているわけでもない伯爵令嬢が、王太子の婚約者なのには理由がある。
ミカエラは『愛する人を守る』と、いう異能を持っているのだ。
愛する人を守るといっても、直接的なものではない。
攻撃を受けてすぐに跳ね返すような類のものではなく、もっとひっそりと裏で支えるような形の能力だ。
彼女は異能によって、相手が受けた傷や盛られた毒物の効果などの危害を肩代わりすることができる。
その能力は、『愛する人』だけに対応する限定的なものだ。
今現在、ミカエラが『愛する人』は婚約者である王太子アイゼル、ただ一人。
そのため、アイゼルが刃に襲われようと、毒を盛られようと、倒れるのは彼ではない。
ミカエラだ。
彼女がアイゼルに向けられた危害を肩代わりすることで、王太子は守られている。
ミカエラが苦しんでいるということは、王太子が何者かにより狙われたことを意味していた。
その犯人を捜すことに躍起になる者はいても、彼女の体を気に掛ける者はいない。
ミカエラの異能は、自らの体に被害を引き受けて王太子を守るだけではないからだ。
身代わりとなったミカエラ自身は、高い治癒能力により死ぬことはない。
ミカエラの異能を知っている者は皆、治癒能力のことも知っている。
だから、誰も彼女の心配はしない。
だが、彼女には高い治癒能力があるだけで、痛みは軽減されることはない。
身代わりとなったミカエラは壮絶な痛みを引き受けてもがき苦しむ事となる。
しかし、死ぬ心配のない彼女を気に掛ける者はいなかった。
彼女の持つ異能は秘密とされていて、一部の者しか知らない。
そのため、侍女であるルディアが苦しみ悶えるミカエラの世話を一手に引き受けなくてはならなかった。
他にも知っている者はいるが、その中に女性は少ない。
異能の秘密を守るためには、それを知る女性を限定したほうが良いと考えたからだ。
そのため王太子の婚約者であるにも関わらず、ミカエラの側に控え仕える者は少ない。
必然的に、女性であるルディアが果たす役割は大きくなっていた。
だからといって、それに見合った報酬が彼女に用意されているかどうかは疑問である。
この国で女性の地位は高くはない。
ルディアに用意されている報酬は、将来、王妃の侍女として仕えることである。
彼女への報酬はそれで十分だと、この国の男性たちは考えているのだ。
それと同様のことが、ミカエラについても言える。
王太子は常に狙われる立場であり、危害を与えようとする者は多い。
それを肩代わりし続けるミカエラが受けるダメージも、少なくはないのだ。
だが、それに対して何か与えねばと考える男性などいない。
彼女がダメージを受け続けることは異能を持つ者としての責務だと、この国の男性たちは考えていた。
そして、報酬は王太子の婚約者ということで十分だと考えているのだ。
未来の王妃になれること、国母になれることは報酬であり、むしろ贅沢過ぎると考えられていた。
ミカエラの痛みを軽くしてあげよう、などと考える者は誰もいない。
この国、イグムハット王国におけるミカエラの待遇は、恵まれたものではなかった。
ミカエラが王宮に住んでいるのは、異能を秘密にするためだけが目的ではない。
もちろん、彼女に贅沢をさせるためでもなかった。
王妃教育を受けさせるためだ。
教育は厳しく、それだけでもミカエラの精神を削っていった。
王宮のなかに彼女が安らげる場所などない。
王妃教育だけでなく、異能によるダメージを頻繁に受け続けているミカエラには、体も気も、休まる暇がなかった。
周囲からは、美しい王宮で贅沢な恵まれた暮らしをしていると思われてはいるが、ミカエラ自身がそう感じたことはない。
彼女が、此処でいつも感じているのは苦痛。
苦しい! 苦しい! 苦しい!
痛い ! 痛い! 痛い!
頭にあるのも、体にあるのも、心にあるのも、苦痛。
彼女の苦しみを癒す者も、癒す場所も、ここには存在しなかった。
そんなミカエラが、こう思うのは必然。
(私はなぜ、こんなにも苦しまなければならないの⁉ この苦痛は、いつまで続くの⁉ 逃げたいわ! こんな所に居たくないっ!)
しかし、ミカエラが心の中でいくら叫ぼうとも。
その疑問に答えてくれる者も、希望を叶えてくれる者も、ここには存在しないのであった。