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3.優しい思い出

(遅くなったわ……今夜も夕食は、お部屋で軽食かしら?)

 王宮の薄暗い廊下をミカエラは自室に向かって歩いていた。
 護衛はいつも付いている。
 一応は、王太子の婚約者であるからだ。
 外から見たらミカエラは護られている。
 でも、真の意味で護られているとは彼女自身思ってはいなかった。
 むしろ、自分のほうが護衛よりも体を張っている。
 だからといって、何か言いたいことがあるわけでもない。

 ミカエラは、とにかく疲れていた。
 早く眠りたかった。
 なるべく平穏な夜を迎えたかった。

 だが、今夜もそれは叶いそうにない。
 向かいから王妃が歩いてきたからだ。
 王妃セレーナは足を止め、その美しい青い瞳を未来の嫁に向けた。
 息子と同じく輝く金髪を高く結い上げ、青い瞳とよく似た色のドレスを身に纏う姿は一分の隙もない。
 大きく開いた襟元には、白い肌に映える金と真珠で出来たネックレスが輝いていた。

「あら、あなた。まだこんなところにいらっしゃるの?」
「はい。座学が終わったのが、ついさっきだったので」
「もう、お夕食の時間よ? まだ着替えてもいないのね」
「はい……」
「わたくしたちは食堂で、貴女を待たなければならないのかしら?」
「いえ、私は自室で食事を摂らせて頂きます」
「あら、そうなの。では、またね。陛下を待たせるわけにはいきませんから」
「はい。いってらっしゃいませ」

 ミカエラが美しいカーテシーをとるなか、王妃は溜息混じりで目的の場所へと向かって行った。

 昨夜の騒ぎは知っているだろうに。
 労わりの言葉ひとつかけず、溜息で王太子婚約者としての至らなさを伝える。
 王妃は嫌味ひとつすら、スマートにこなす。
 とても優秀な王妃である。
 だが、それだけだ。

 夕食を共に摂りたいと思っているわけでもないし、豪勢な食事に興味があるわけでもない。
 王妃に対してミカエラには、思う所など何も無かった。
 長年の積み重ねで諦めてしまったのか。
 慣れてしまったのか。
 心は動かない。
 どうでもいいのだ。
 王妃が自分のことをどう思っていようと。

 とはいえ、心が動かないことが良いことだ、とは思えなかった。
 だからといって何かを考えるには、ミカエラは疲れ過ぎていた。

(こんな筈ではなかったのに……)

 廊下から外を眺めれば、薔薇咲き乱れる庭園。
 夜闇に沈んでいく庭園は、静かで美しい。

(あの日の会場は、確かここだったわ。季節もちょうど今頃で……)

 初めて訪れた王宮の庭園は太陽の日差しであちらもこちらもキラキラと輝いていて、この世はとても楽しくて綺麗だ、と、感じていたのに。

 ミカエラは王太子と出会った、遠い日を思い出していた。





 王太子アイゼル・イグムハットが12歳の時、高位貴族の令嬢たちが集められた。
 そこに何故かミカエラも呼ばれたのだ。
 大人たちは知っていた。
 そのお茶会が、王太子の婚約者を探すためのものであることを。
 しかし、ミカエラは全く気付いてはいなかった。

 その時、彼女は8歳。
 まだ世の中に憂いというものがあるという事すら、知らない年頃のことである。

「きれいっ。とってもきれいっ!」

 よく晴れたうららかな日。
 花は咲き乱れ、日差しはたっぷりと降り注ぎ、ミカエラの心に憂いはなかった。
 花咲き乱れる庭園に、華やかなテーブルセッティング、そこに並べられた彩りも鮮やかな可愛らしいお菓子たち。

「うふ。かわいい。絵本みたい」

 お伽噺のような空間に、ミカエラの心は踊った。

 春から夏に向かっていく季節は、いつも希望に満ちている。
 初めて見る高位貴族のご令嬢たちは、美しく可愛らしい。
 お人形のように完璧に着飾り、淑女のような所作をとる。
 現実とは思えないほど素晴らしく、そこに混ざっている自分に違和感を感じるほどだった。
 しかし、ミカエラは、わずか8歳。
 深く考えることはなかった。

 見ているだけでも楽しいお茶会に浮かれて、踊りだしそうな気分でいたのだ。

 回りの大人たちは伯爵令嬢ではあるものの、力があるわけでも、お金があるわけでもない家柄の娘が混ざっていることを不思議に思って、あるいは不快に思って眺めていたようだった。
 不躾な視線を浴びながらも、美味しくて可愛いお菓子とお茶を楽しむミカエラは、ただの子供だった。

 あの時までは。

「今日は私が12歳になる誕生日。この記念すべき日のお茶会に出席して頂き、ありがとうございます」

(王子さまだぁ……。きれい)

 金髪を太陽の光に煌かせるアイゼルは、いかにも王子さまという雰囲気をまとっていた。

(キラキラしていて、絵本の中から抜け出てきたみたい。素敵ね。でも……私とは、関係のない人。遠くからでも見られてラッキーだわ)

 王子も、王族も、王宮も。
 素敵だけど、自分とは関係のない人たちで遠い存在、縁のない場所。
 
(生きてる世界が違うのよね)

 だからミカエラは気にせず、お茶とお菓子を楽しんでいた。
 だが、それが面白くないご令嬢がいた。

「生意気なのよ」
「?」

 何が生意気なのか分からないまま、ミカエラは足を引っ掛けられて転ばされ。
 ついでとばかりに、お茶もかけられた。
 集められた令嬢のなかで一番年齢が若く、爵位も低い家のミカエラを邪険に扱うことなど簡単だ。
 令嬢はツンと澄ました顔で何処かへ行ってしまった。

(なぜイジワルされなきゃいけないの?)

 庭園に転んだまま残されたミカエラは、泥だらけのまま泣き出してしまった。

「キミ、大丈夫?」

 優しく声をかけられて見上げれば、日差しを浴びて光り輝く金の髪。

「転んで泣いちゃったのかな? 大丈夫だよ。さぁ、手を出して」

 優しい笑みを浮かべるその人は、ミカエラに向かって手を差し出した。
 ミカエラは、その手に向かって自分の手を伸ばす。
 暖かで、自分よりも大きな力強い手。
 その手に自分の手をしっかりと掴まれて、ミカエラは引っ張り起こされた。

「汚れちゃったね。ケガはしてない?」

 澄んだ青い瞳が、ミカエラを覗き込む。

(王子さまだ!)

 ポンッと音がするくらい勢いよく、耳が熱くなるのが分かった。
 顔は耳まで真っ赤だろう。
 ミカエラは頬に手をあてた。

 熱い。

「あの……大丈夫……です」
「せっかく可愛くして貰ったのに、かわいそうに。転んじゃったのかな。痛くなかった?」
「……」

 ミカエラは顔を手で覆いたくなった。
 そんな見苦しい所作をとるのは恥ずかしいことだけれど。
 恥ずかしくて、恥ずかしくて。
 自分の手の陰でもいいから隠れたい。
 そんな気分だった。

「すぐに直して貰おうね。キミの侍女はどこかな?」

 優しい口調。
 優しい気遣い。
 優しい笑顔。

 ミカエラが恋に落ちるのに時間は必要なかった。

「侍女……」

 と、突然。ミカエラは激しい痛みを覚えた。

 全身に突き刺さり、筋肉がねじり上げられるような痛み。

「うっ……」

 うめいた後の記憶は無い。
 初めて『被害の肩代わり』が起きた日だ。
 あの日、実は王太子に毒が盛られており、ミカエラが身代わりとなって苦しむことになった。

 ミカエラは初恋を知ったその日に。
 初めて服毒による苦しみを知った。

 そこからの動きは早かった。

 瞬く間に婚約が結ばれて。
 毒による苦しみから目覚めたミカエラは、自分が王太子の婚約者になったことを知ったのだ。

 この時、ミカエラは知らなかったのだ。
 ミカエラの家系には異能が多く発現するという事も。
 それを王族が把握しているという事も。
 特に黒髪黒目であるミカエラには、その可能性が高かった事も。
 何も知らなかったのだ。

 王太子を救ったミカエラの存在は王家の知るところとなり、素早く婚約が結ばれた。

 その理由については秘匿され、詳しい事情を知る者は限定的。
 当然、事情を知らない貴族たちにとっては、不可解な婚約としか受け止められなかった。
 口さがない貴族たちは噂する。

「何故あの娘が?」
「たかだか伯爵令嬢なのに?」
「特別に美しいわけでも、魅力的なわけでもないわ」
「飛びぬけて賢いわけでもないようだ」
「金持ちでもない」
「後ろ盾も弱いわよね?」
「どんな卑怯な手を使ったのだ?」

 誰もが納得するような、バランスのとれた婚約ではない。
 高位貴族たちの募る不満は止めようがなかった。
 しかし、その不満が王家に向けられることはないのだ。
 伯爵家に向けてしまうのも、あからさま過ぎる。

 結果として不満は、弱い立場であるミカエラのみに向けられた。

 それは今日まで延々と続いている。
 ミカエラを悪く言う者はいても逆はない。

 王太子の婚約者という、女性にとって国内最高と言っても良い立場を理由も明確にされないまま引っさらって行ったミカエラは、貴族たちにとって紛れもなく『悪役令嬢』なのだ。




(あの日の想いが、私を支えているけれど……)
 ミカエラは目を閉じ、やせ細った指を握りしめて胸元にあてた。
(いまの私は、王太子のことが好きなのだろうか? あの日の、私のように……)

 あの日の気持ちに縋りつきたいとも思うし、逃げ出したいとも思う。
 どちらの気持ちも本音であり。
 どちらとも決められないのもまた、ミカエラの本音なのであった。

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