二人きりだから言えること。 後編
「そういえば貴方、あのキスの後にまるでこの世の終わりみたいな顔してたねー」
今となっては笑い話だけれど、彼はあの時、本気でわたしにクビにされると思ったらしい。……まぁ、そこがマジメな彼らしいといえば彼らしいのかな、とわたしは思うけど。
「だって僕、あの時本気で悩んだんですもん。『ヤベぇ、絢乃さんに幻滅されたかもしれない』って。マジで失業するかもとか、この恋も終わったとか、あの瞬間に色々考えちゃって」
「あの時わたし、ちゃんと言ったじゃない? 貴方のこと、絶対にクビにしないって。信じてくれてなかったの?」
そして、マジメすぎるがゆえに考えすぎてしまうのは、彼の欠点でもある。今ではそんな欠点すら愛おしくて仕方がないけれど、彼がわたしの言葉を信用してくれていなかったのはショックだ。
「……ええ、まぁ。スミマセン。――でもその後に、僕はホントに、この恋が終わってしまうんじゃないかって思ったことがあったんです」
「え……、それって」
「はい。あの雨の夜に、あなたに背中を向けられた時です」
……ああ、やっぱりそうだったんだ。
それは去年の秋、とある大きなパーティーに二人で出席した夜のこと。彼がわたしとの結婚に及び腰になっていて、自分ではムリだと言ったから、わたしも「じゃあ、もうこの関係はやめよう」と言って彼に背中を向けたのだ。
あの後、わたしは父が亡くなった時以来の大号泣をした。でもそれと同じくらい、いやそれ以上に彼も傷付いていたのだと翌日になって分かり、申し訳ない気持ちでいっぱいになったことを今でも憶えている。
「あの時、絢乃さんはどんな気持ちで僕に背中を向けたんだろうって思うと、胸が痛みました。失恋を覚悟したことはもちろんですけど、お義父さまとの約束もこれで果たせなくなると思うと、なんだかやるせなくて、自分が情けなくて……。でも、それを認めたくない自分自身もいて、八つ当たりで兄からの電話を着拒してめちゃめちゃ怒られました。『オレは関係ねえじゃん!』って」
「……うん、知ってる」
その翌日の夕方、お義兄さまはわざわざわたしの目の前で彼に電話して、
「でも、貢はわたしのこと恨んでなかったのよね? あんなにひどいこと言っちゃったのに」
「恨んでません。あの後、絢乃さんが大泣きしてたって知ったんで」
「えっ?」
「翌日、お義母さまが教えて下さったんです。『あの子、あの後大泣きしてたのよ』って。それを聞いてなかったら、僕はホントにこの恋を終わらせてたかもしれませんね」
「えっ? ママが貴方に話したの?」
あの夜、わたしが泣いたのは家の中に入ってからだった。その翌日は出社していなかったので、母がそのことを貢に打ち明けていたというのは初耳だった。
「はい。『でも、あの子も悩んでるみたいだから恨まないであげて』って言われました。絢乃さんは自分のことで泣くような人じゃないから、って」
「そう……だったの」
あの時泣いたのは、彼に対して申し訳ないという気持ちからだったのだ。母にはそれもお見通しだったのだろうか。我が母ながら畏れ入る。
「じゃあ……、貢は気づいてた? わたしが貴方にプロポーズされるまで、一度も貴方の目の前で泣いたことがなかったって」
「あ……、そういえばそうですよね。理由、訊いてもいいですか?」
これは今日まで、一度も彼に打ち明けていなかった話だった。彼が気にするんじゃないかと思っていたから。
「いいわよ。それは、貴方を悪者にしたくなかったから」
「え……」
「貴方をこんな形で巻き込んで悩ませて、追い込んでしまったのはわたしの方なのに。わたしが泣いたら、真面目な貴方は自分を責めてしまうでしょ? 優しい貴方を苦しめたくなくて、わたしは貴方の前で泣くのをガマンしてたの。……でも、あのプロポーズで張りつめてたものがプツンと切れちゃって」
そういえばあの時も、彼は泣いているわたしを見てオロオロしていた。『僕、会長を泣かせてしまうようなことしました?』みたいなことも言っていた気がする。
「あれはホントに嬉し涙だったの。貴方は気にしてたみたいだったけど」
「ハハハ……」
この話も笑い話にできたのは、今がすごく幸せだから。わたしはこの人を選んで本当によかった。悩んだこともあったけど、もう大丈夫だ。
「わたし今、すっごく幸せ! 貢は?」
「僕もです!」
ゴンドラはもうすぐ頂点に達するところで、窓からはキレイな夕日が見える。季節は違うけど、彼にプロポーズされた日に会長室から見えた西日もこんな感じだったように思う。
「――ね、この夕日をバックにして写真撮らない? 二人の手でハート作って。里歩に送ろうと思うの。貢は右手出して、ハートの片割れみたいに指曲げて? わたしは左ね」
「いいですね。――ハートの片割れって……こうですか?」
「うん、いい感じ! ……あ、ちょっと待って。カメラ起動させるから。……ハイ、行くよー! チーーズ!」
彼が右手で作った片割れと、自分の左手で作ったもう半分との間にスマホを持った右手を通して、できたハートの後ろに夕日が映る写真を撮影した。
「……うん、オッケー! いいのが撮れたわ。じゃあコレ、里歩に送信するね」
その写真の共有先としてメッセージアプリを開き、その場で里歩に送信した。
実は貢の知らない間に、彼女には今日見て回ったあちこちで撮った写真をもう何枚も送っている。昨日はわたしたちの結婚式のためにわざわざ学校を休んでくれたけれど、今日は大学で講義を受けていただろうから、反応が返ってくるのは夜になってからだと思う。
「――ね、貢。貴方にお願いがあるんだけど……」
「えっ、お願い……ですか?」
彼の表情がちょっと強張る。彼曰く、わたしからのお願いは命令と変わらないので断りづらいらしいのだ。
「そんな顔しないの。プライベートのお願いは断ってもいいから。……あのね、一度でいいからわたしの名前、呼び捨てにしてみてくれない?」
「ええっ!? ……では、失礼して。絢乃…………さん」
かなり意気込んだわりには尻すぼみで、しまいにはさん付け。ダメだこりゃ。
「~~~~っ! やっぱりムリです、ゴメンなさい!」
「あ~、ムリかぁ。じゃあ、たまにはわたしの前でも自分のこと〝俺〟って言ってよ。そっちの方が貴方の素なんでしょ? お義兄さまにはいつもそう言ってるじゃない?」
落ち込む彼に、今度は別のお願いをしてみた。わたしに心を開いてくれているなら、もっと素の彼を見せてほしい。
「……まぁ、それくらいなら。でも、多分敬語は直らないと思いますよ? 一度身についちゃった習慣っていうか、話し方のクセってなかなか抜けないんで」
「いいわよ、別に。それが貴方の個性だと思ってるし、呼び方とか話し方とかに拘る必要ないのよね。もう夫婦なんだから」
ゴンドラが頂点まで上がったところで、わたしたちは唇を重ねた。もう本当にベタなシチュエーションだけれど、やっぱりこういうのには憧れるのが女の子というものだ。
「――あ、ところで僕、前から絢乃さんにお訊きしたいことがあったんですけど」
「ん? なになに? 言ってみて」
急にかしこまっちゃって、一体何を訊きたいのかと思えば。
「会長の役員報酬って、月にいくらくらいもらってるんですか?」
わたしの収入の話だった。……そういえば、彼に話したことなかったかも。
「ふっふっふっ、聞いて驚くなかれ! なんと月額五千万円よ!」
「ごごごご……五千万んん!? ……スゴいですね、さすがですね。そりゃあ、ブラックカードも作れますよね……」
「でしょ? おかげでお金は貯まる一方で、なかなか減らないのよ。わたし物欲ない方だし」
でも実は、これは母と二人分の報酬で、