(4)
夕方、珠雨は環奈を伴ってヒトエに戻ってきた。本当に随分と仲良くなったものだ。
「禅一さん、環奈俺の部屋に上げてもいいですか? ちょっと勉強見てあげる約束してて」
「え、プールのあと勉強? 真面目だなあ」
「期末試験、赤点があったんだよな、環奈」
「えっそういうこと普通言う? 珠雨くんひど」
軽く言われて環奈はショックを受けている。今日は制服ではなく、私服だったので新鮮な印象を受けた。麦も環奈を見て「いいなあ」などと呟いている。
「だから教えるって」
なんだか間に入っていけず、禅一は大いに戸惑った。
「……何か作って持っていこうか?」
「お気遣いなく。さっきコンビニで買ってきたから」
「ああ……そう。ごゆっくり」
なんだかしょんぼりしている禅一を見て、麦がにやにやしている。それに気づき、禅一はなんでもない顔を装ってみせた。
「何か?」
「いえ、別に。……禅一さん、体調はもう大丈夫なんですか?」
「あぁ、だいぶ楽になったかなあ……。麦ちゃん、君には本当にいつも感謝しているんだ。ありがとうね。もし就職が決まらなかったら、ずっと居てくれていいんだよ」
「えっ、なんですか急に。禅一さん死亡フラグですか。そして不吉なこと言わないでください」
麦は照れたのか何なのか、妙なことを言っている。
感謝しているのは本当だった。
珠雨の部屋で赤点を取ってしまった科目について教えて貰っていた環奈は、少し休憩して買ってきたコンビニスイーツを口に入れていた。
「ねえ珠雨くん、今日は楽しかったね」
「ああ、プール久し振りだったなあ」
「珠雨くん水着可愛かったし、いっぱい遊べて良かった」
にこにこしながら珠雨を見つめてくる環奈の方が、よっぽど可愛らしい。珠雨は別に女の子が恋愛対象ではないが、こうも好意をまっすぐに向けられると、悪い気はしなかった。
一緒に遊ぶのは楽しい。
けれどやはり友達以上にはなれない。
「……あのさ」
言い掛けた珠雨の唇に、環奈の指が触れた。
「珠雨くんがなんか不穏なこと言おうとすると、あたしの指が阻止します」
「はっ? ……別に不穏なことは何も」
「なら良かった。まだあたしに夢見させててね。いつ珠雨くんの気が変わるか、わからないから。あの時断らなきゃ良かった! なんて後悔しても、知らないんだから」
深刻な表情など一切見せず、環奈は笑う。
「珠雨くんは、好きな人いるの? 聞いてもいーい?」
「ええ? 聞いてどうすんのそれ」
「闇討ち?」
「こっわ」
「なんてね。嘘だよ。……もしかして禅さんかな? って思ったんだ。違ってたらごめんね」
環奈の前で、そんなことを言ったつもりはなかった。
他人に悟られるほどの感情なのか、これは。
あれは禅一に言ってはいけないことだった。だから次の日珠雨は何事もなかったかのような態度で禅一に接し、彼の心身的負担を軽くしようと努力した。
禅一は父親と同じなのだと、肉親への愛情なのだと、気持ちを切り替えようとしているところだ。
けれどそこには無理がある。
嘘だからだ。そんなこと思っていない。禅一が、あざみちゃんが本当は欲しくて、たまらない。
「珠雨くん、悩まないで。……悩んでもいいけど、それを外に出して。あたしが受け止めてあげる。禅さんがあたしにしてくれたように」
環奈が近づいてきて、珠雨を背中からきゅっと抱き締めた。柔らかい感触が触れてどきりとした。
その感触は、氷彩に似ていた。
……珠雨、
浅見がいなくなって悲しいのね
ごめん ごめんね 許して
もし珠雨がずっと浅見を求めるのなら
ママが取っておいてあげる
珠雨が大きくなるまで
誰にも奪われないように見ててあげるから
「……なんだ今の」
唐突に思い出した記憶の断片。氷彩が訪れた夜に見た夢のかけらだ。
(夢じゃない)
氷彩が禅一と離婚して、二人きりに戻った。寝る前にあざみちゃんがいてくれたのに、いなくなって寝付けなくなった。お気に入りの毛布を取られたような、精神的なものだろうか。
あの時氷彩が珠雨の布団をぽんぽんと叩きながら、子守唄のように囁いた言葉。
大学進学の時に、やたらと地元ではなくこちらの大学を勧めたのは氷彩だ。ここは氷彩が生まれた土地で、とても良いところなのだと言った。こちらに知り合いがいるから、そこに居候させて貰えば良いからと。
よくわからない鳥肌が立った。
氷彩は何を思って行動しているのだろうか?
禅一を他の誰にも奪われないように、たまに自分の体を使って彼のことを繋ぎ止めて。珠雨が大きくなったら、差し出せるように?
それは母なりの愛情なのか。わからない。
「珠雨くん……?」
頭の整理がつかなくて、混乱した。