(1)
夜。
静かな雨の音が微かに聞こえるが、風があるのか時折窓がかたかたと揺れる。
禅一は夕食のあと、早々に自室に籠って本を読んでいた。昼間に病院でテストステロン投与したら、倦怠感もなく体調が良い。
しかしなんとなく落ち着かないのも本当だった。
病院に行ったばかりの日はいつもそうだ。それまで欠乏していた男性ホルモンが体に入ってくるわけだから、色々と影響がある。
(なんか珠雨も、変な感じだったな)
環奈と何かあったのだろうか。夕食の時もどこか上の空で、ぼんやりとしていた。単にプールで疲れただけなら良いのだが、何か気掛かりなことがあるような印象を受けた。
(話を聞いてあげたいけど、今は無理かも)
少し距離を置きたい気分だ。だからこうやって、自室に籠っている。
――ふと、
珠雨の声が耳に入った。禅一に向けられた言葉かと思ったがそうではなく、誰かと電話で話しているようだ。
気になって部屋から顔を出すと、珠雨が一階に続く階段の途中に腰を下ろし、スマートフォンに向かって何やら文句を言っている。ビデオ通話だが、イヤホンになっているようで相手の声は聞こえなかった。
「……珠雨、大丈夫かな?」
「あっ、ごめんなさい! うるさいですよね。ちょっと移動します」
珠雨は慌てたようにそそくさとヒトエの方に移動していった。
聞き耳を立てるのもどうかと思って部屋に顔を引っ込めようとしたが、聞き流せないワードが出てきて禅一は動きを止める。
「だから! どこに入院するんだよ。教えてくれなきゃ俺行けないじゃんか。……え、禅一さんは、部屋に……うん、だから」
入院とはなんだろう。もしかして氷彩と話しているのだろうか?
「え? ……は? なんて? ……あー、それはもういいけど、それとこれとは話が別で」
なんだか揉めている。禅一は傍観していることが出来なくなり、階段を下りてゆく。
「電話しているとこ悪いけど、珠雨。僕も混ぜてくれないか」
スマートフォンの画面に映っているのが氷彩であると確認し、禅一は割って入った。
「禅一さ……」
イヤホンジャックを抜けたら良かったが、生憎珠雨の使っているのはワイヤレスタイプだった。画面の向こうで氷彩が何か言っているが、まるでわからない。
「……Bluetooth切りますね」
氷彩の声がやっと聞こえた。
「やだぁ、大袈裟だなあ……ちょっと一週間くらいの入院。軽い手術するだけ。えっと、虫垂炎。来なくて平気だよー」
「氷彩さん……でも。一人じゃ色々大変だし。どこの病院ですか」
珠雨も先程聞いていたが、どうも教えてくれていないようだ。一週間も入院するのであれば力になりたいと禅一は考えたが、氷彩は大丈夫を繰り返すばかりで一向に教えない。
「大丈夫! あのね、あたし結婚したから。新しい旦那さんがちゃんとしてくれるから、ね」
「――えっ!?」
思わず耳を疑う。氷彩はなんだか楽しそうにこちらの反応を伺っている。これから入院するにしては、結構元気そうだ。
「だから浅見は、そこで大人しくお祈りしてて。珠雨も、来なくて本当に大丈夫」
「どういうことですか? この前フリーって言ってたばかりなのに」
まだあれからそんなに経っていないのに、何を別の男と結婚なんてしているのだ。あまりのことに、普段の禅一からは考えられないような声になる。珠雨がそんな姿にびっくりしたのか、少し目を見開いた。
「浅見、落ち着いて? あたしこの前より戻す提案をして、却下したのは浅見でしょう? だから、もし君に断られたら結婚しようって、言う前から決めてたの。誰だと思うー?」
「僕の知ってる人なんですか」
氷彩が横を向き、画面の向こうの誰かを手招きしている。しかしなかなか出てこない為、氷彩に手を引っ張られた。やがて渋々出てきた人物は、確かに禅一の知っている男だった。
「浅見くん……、すまない。そういうことなので、あとは任せてくれて大丈夫だよ。珠雨さんも、久し振りだね」
「――海老沢教授……? お元気そうで……何よりです」
海老沢は禅一が大学生の時に付き合いがあった教授で、氷彩と引き合わせた人物でもあった。氷彩とも年齢が離れており、白髪の目立つ柔和な男だ。
確か海老沢は既婚者だったと記憶していたが、氷彩と結婚するということは、いつのまにか離婚を経験していたのだろうか。
挨拶を済ませると、海老沢は早々とスマートフォンの画面からフェイドアウトしてしまった。
「氷彩さん……海老沢教授と付き合ってたんですか? なんでフリーとか嘘言って……それにあんな提案、僕が真に受けると思いますか。何度煮え湯を飲まされたことか」
「ごめんてば。でも嘘ではないんだよ。エビちゃんとは、付かず離れずの間柄だったの。だから、あの時は大丈夫。浅見はエビちゃんからあたしを寝取ったりしてないよ」
「寝取……あ、珠雨! 今のは……つまり」
「……まあそれは今更なので……お母さん、本当に大丈夫なの? 入院に必要な買い物とかちゃんと出来てるの? 手伝うことあったら言ってマジで」
禅一が取り乱しているのに、珠雨は意外と普通だった。
「うん本当に本当に大丈夫。心配かけてごめんね。ありがと、浅見も。もう切るね。バイバイ」
氷彩は微笑んで、こちらの挨拶を待たずに通話を切った。
窓の外の風がかたこと、静まり返った店内に微かに響いた。