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幸せな時間

「え……」

猫塚くんのマンションの前で私はポカンッと口を開けた。

な、なに。なんなの?今の男性ってみんなこんな高級マンションに住んでるの……?

猫塚くんの住むマンションは流川のマンションに負けず劣らずだった。

こんなところに大学生で一人暮らししているなんて親が大金持ちだったりするんだろうか。

いや、そもそも私のアパートのレベルが低いだけ?いやいやいや、そんなことない。

あのアパートは私の身の丈にきちんと合っているはず。

じゃあ、何だこのマンションは。なんだか足がすくんでしまう。


「佐山さん、行こう」

猫塚くんはスッと私の手を取りマンションのエントランスへと入っていく。

昼間はコンシェルジュが滞在しているようだ。

私のアパートとの違いになんだか眩暈が起こりそうになる。

広いエレベーターに足を踏み入れると、静かに上昇していく。それにつれてなんだか自分の心拍数も急上昇しているみたい。

ていうか、これ、ダメだったんじゃない……?

付き合い始めた男女が一人暮らしの男の部屋にやってくるなんてそれってそういうことだよね?

そういうことOKだと認識されてもおかしくはないはず。

恋愛経験のある人ならまあいいかっていう気持ちで体を許せるのかもしれない。

だって相手は自分の大好きな人だし、遅かれ早かれいつかはそうなるわけで。

「……――佐山さん?」

猫塚くんに名前を呼ばれてハッとする。

「どうかした?」

「ううん!!全然!!なんでもないよ!!」

否定の仕方が妙にぎこちなくなり、猫塚くんも若干怪訝そうに私を見つめていた。

「入って?」

エレベーターから降りた私は長い廊下を歩いて猫塚くんの部屋の前までやってきた。

玄関を抜けた先にあるドアの向こう側に広がっていたのは目を見張るほど広くて豪華なリビングルームだった。

「え。なに。これ、貴族の家?広すぎ!!」

「大げさだよ」

「いやいやいや!!これは大学生が一人暮らしする部屋なんかじゃないよ?」

「物がないから少し広く見えるだけだよ。適当に座って?」

猫塚くんは謙遜していたけど、物がないからとかそういうレベルでは決してない。

少なくとも我が家のリビングの何倍だ…!?と思ってしまうレベルの部屋の広さだった。

観葉植物も家電も照明もすべてがスタイリッシュで洗礼されているように思える。

「猫塚くんってさ……何者?」

「どういう意味?」

ソファに座ってキッチンでお茶を入れてくれている猫塚くんに視線を向ける。

今時の大学生ってみんなこんな感じなの……?27歳の私よりもずっと大人に見えるのは気のせい?いや、むしろ私が子供なのか……?

いや、それはない。彼より長く生きている分、それなりに色々な経験だって積んできたはず……!!だよね?

なんだか急に不安になってくる。

「どうぞ」

運んできたお茶をお洒落なガラステーブルの上に置く猫塚くん。

「……ありがとう」

4人掛けと思われる大きなソファに猫塚くんも腰かける。

私は淹れてもらったお茶を一度口に含んで気持ちを落ち着かせると、猫塚くんと向かい合った。

「ごめん。私、猫塚くんに嘘ついた。さっきね、本当は仕事じゃなかったの」

流川の家に行くキッカケから彼がシャワーを浴びることになるまでのいきさつを事細かに話す。

「だから、もう流川の家には行かない。誤解させるようなことして本当にごめんなさい」

誠心誠意謝ると猫塚くんは立ち上がってそっと私の隣に移動した。

「話してくれてありがとう。でも、俺も嘘ついてたんだよね」

「え……?」

「全然平気って顔してたけど、本当はすごい嫉妬したし腹も立った」

「猫塚くん……」

「でも、なんかそういうの見せるのって余裕ないみたいで嫌だった。でも、佐山さんが俺以外の男と部屋で二人っきりだって考えるといてもたってもいられなくて」

猫塚くんが私の手をギュッと掴む。

自然と互いの目が合うと、どちらからともなく唇を重ね合わせていた。

やわらかくて温かい猫塚くんの唇の熱にほだされて私は溶けてしまいそうになる。

「んっ……」

唇の間から舌が入ってくる。必死になって舌を出すと猫塚くんが私をリードするように舌を絡ませてくる。

甘く溶けてしまいそうなキスに私は必死に食らいつく。

知らなかったけど、私は意外とドMなのかもしれない。そして、意外にも猫塚くんはああ見えてドSなのかも。

「猫塚く……」

苦しくなって唇を離して息をすると、猫塚くんがそっと私の頬に触れる。

「まだ足りない。もっと佐山さんが欲しい」

「っ……」

「そんな顔されるとますます止まんなくなるんだけど」

猫塚くんが再び私にキスを落とす。私はただ彼に身をゆだねることしかできない。

完璧に猫塚くんのペースだ。

「んんっ!」

激しい彼のキスにたまらず声を漏らすと猫塚くんはそっと私の頬を撫でつける。

「すげーいい」

艶っぽい瞳で見つめた後、彼は私の首筋に顔を埋める。

首筋にキスをされたのかもしれない。彼の触れた部分が熱を帯びて思わず吐息が漏れる。

「んっ……」

「可愛い」

猫塚くんは私の顔を見てその反応を楽しんでいるようにすら見える。

なんでこんなに余裕なの……?私はもう余裕なんて全くないのに。

「佐山さん……」

猫塚くんが私の肩を優しく押した。私の体が大きなソファに仰向けになる。

う、嘘……。このまま私……まさか猫塚くんと……!?

ギュッと目をつぶって必死になって今日の下着を思い出す。

こんなことなら新しい下着を買っておけばよかったかもしれない。

だけど、猫塚くんと付き合うまでは男性とこんなことになるなんて考えてもいなかったから……。

あー、今日に限ってベージュだよ……!!

しかも、結構使い古したお世辞にも可愛いとは言えないあれだ……!!

猫塚くんが私の指に自分の指を絡ませてギュッと握る。

ただそれだけのことなのに、私の心臓は飛び出てしまうかと心配になるぐらい高鳴っている。

そして、猫塚くんの顔が徐々に私に近付いてきた瞬間、ぐぅぅぅっという重低音が静かな室内に響き渡った。

「……ふっ。お腹空いたよね?」

「ごめん、ホント色気ないよね……」

その音はまさに私のお腹が限界を超えた証だった。

猫塚くんはクスクスと笑いながら私の腕を引き、ソファに座らせてくれた。

「ごめん。ちょっとキスするだけのつもりだったんだけど佐山さん可愛くて止まんなかった」

「ううん!!こっちこそなんかごめんね」

目を見合わせて私たちは揃って笑った。

ああ、こういうのいいなぁ。私が望んでいた幸せが目の前にある。

そして、私の前には大好きな猫塚くんがいる。

「何食べる?」

猫塚くんがスマホを私にかざす。私は猫塚くんのスマホ画面をジッと見つめた。

「猫塚くんは?」

「俺は肉かな」

「じゃあ、私も同じものにしようかな」

「了解」

猫塚くんは慣れた様子でテキパキとネット注文を始める。

……それにしても、猫塚くんって本当に何者なんだろう。

猫塚くんがスマホの画面に視線を落としているのをいいことに、私はぐるりと部屋の中を見渡す。

大学生がこんな部屋に住めるものなの?

それに、あの車。車に詳しくない私でも知っているぐらい有名な高級車だった。

コンビニでバイトをする大学生が買えるような金額ではないはずだ。

やっぱり、親が金持ちとか?

いや、でもあんな高級車を親が子供にプレゼントするの……?

一般庶民の家庭で育った私が無知なだけなんだろうか……?

疑問がふつふつと沸き上がる。

首を傾げながら何気なくスマホを開くと、定期的に来るニュースアプリの通知が来ていた。

【年下のイケメン彼氏はとんでもない結婚詐欺師だった!!】というタイトルの記事が目に留まる。

え。

思わず隣にいる猫塚くんに視線を向けてしまった。

ま、ま、まさか猫塚くんってば……!?

よくよく考えれば私、彼のことまだ何も知らないんだった。そして、彼もまだ私のことを何も知らない。

「ん?どうした?」

「あっ、なんでもない!」

って、猫塚くんが結婚詐欺師なわけないよ。だって、猫塚くんは結婚してくれなんて一度も言ったことがないし。

「今の時間ステーキ弁当しかないんだけど、いい?」

「うん!」

「分かった。注文するね」

視線はスマホに向けたままそう言った猫塚くんの横顔をジッと見つめる。

見れば見るほど猫塚くんって整った顔してるなぁ。

鼻筋が美しい。まつ毛だって長いし、肌もつやつやだ。

「さすがにそこまで見られるとちょっと照れるから」

「気付いてた?」

「気付かないはずないよ。俺の顔、なんかついてた?」

「ううん。猫塚くんってホント整った顔してるなぁって思って」

私がそう言うと、猫塚くんはそっと私の方に腕を回した。

「それをいうなら佐山さんの方でしょ。俺、一目見た瞬間から可愛いって思ったよ」

「可愛いっていわれる年でもないんだけどね」

「そう?いくつになっても佐山さんは可愛いと思うけど」

うぅ……そういうセリフをさらっと口にできちゃう猫塚くんのストレートさがなんだか刺さる。

「あのさっ、ちょっと聞いてもいい?」

「うん」

「猫塚くんの好きな食べ物は?」

「焼肉と寿司」

「じゃあ、嫌いな食べ物は?」

「ピーマンと人参」

か、可愛すぎる……!!

「好きな色は?」

「白」

猫塚くんは不思議そうな顔をしながらも答えてくれる。

「急にどうしたの?」

「なんか私、猫塚くんのこと全然知らないなぁって思って。だから、猫塚くんのこと色々知りたいって思ったんだ」

「そうなの?嬉しいよ。ありがとう。俺も佐山さんのこと色々知りたい」

「も、もちろん!私のことなら何でも聞いて!!」

「じゃあ、俺のことどれくらい好き?」

「へ?」

猫塚くんの質問に面食らう。

「どのくらい、好き?」

「そ、そんなの口に出せないぐらい……だよ?」

「本当に?」

猫塚くんは私をからかって楽しんでいるように見える。まさか年下の猫塚くんに遊ばれるなんて……!!

余裕そうな笑みを浮かべた猫塚くんに私は反撃を開始する。

「ね、猫塚くんこそ私のこと好きなの?」

「好きだよ」

「じゃあ、どのくらい?」

「言葉じゃなくてもいい?」

「いいけど、それ以外の方法ってある?」

「あるよ」

猫塚くんの目の色が変わった気がした。

私は力強い猫塚くんの腕の中で抱きしめられた。

私の体は猫塚くんの腕の中にすっぽりと納まってしまう。

甘くて柔らかい香水の匂いがする。

なんだか心が落ち着く。私は彼の背中に腕を回してそっと目を閉じた。

私、多分今世界一幸せかも。

猫塚くんの存在は私のカラカラに乾いて干からびかけていた心を潤してくれる。

「好きの気持ち、伝わった?」

「はい。とっても」

猫塚くんの腕の中で彼からの『好き』の気持ちを受け取った私はだらしなくニヤついてしまった。

料理はあっという間に届いた。お腹が空いていたこともありぺろりと平らげたものの、この時間にがっつりステーキ弁当は胃にくる。

そんな私とは対照的にケロリとしている猫塚くんをみるとやっぱり年の差を感じてしまう。

「そういえばさ、猫塚くんって昔から年上好きだったりするの?」

ふと気になって猫塚くんに尋ねると、彼は首を横に振った。

「特に年上が好きとかそういうことはないかな」

「そ、そうなんだ。じゃあ、なんで私のこと……――」

なんで私のこと好きになってくれたの?私のいったいどこが好きなの?

言おうと思っているセリフを頭の中で思い浮かべてハッとする。

なんかそういうことをわざわざ聞くのってめんどくさい女の典型だ。

「あ、ごめん。今のなし」

「俺がどうして佐山さんのこと好きになったのかって?」

「ば、バレた?」

私の言葉に猫塚くんがくすっと笑った。

「佐山さんって誰に対しても裏表ないでしょ?平等に優しいし。そういうのいいなって。佐山さんの容姿はもちろんタイプだったけど、それだけじゃなくて内面の綺麗さと純粋なところに惹かれた感じかな」

「そ、そう?多分、私結構裏表あるよ?平等に優しいかって言われたら……微妙かも?」

猫塚くんにはキツイこと言わないけど、会社の男にはバリバリ言いたいこと言ってるし。

こないだだって上野さんに言いたいこと言っちゃったし。

ごめん、猫塚くん。私、裏表ありまくりです……。

「女の人って男に自分のいいところしか見せないでしょ?素を隠してるって言うか。でも、佐山さんはそうじゃないし」

「え……」

「俺、女の人のこと信じられないところがあって。でも、佐山さんなら信じられるって思ったんだ」

猫塚くんはそう言うとやわらかい笑みを浮かべた。

「今日も流川さんとのことちゃんと俺に言ってくれたでしょ?」

「だって本当に流川とは何もなかったから。これで猫塚くんに誤解されたら嫌だから」

そこまで言ってからハッとする。

「あっ、ごめん……。一つ、まだ言ってないことがある」

「なに?」

「猫塚くんと付き合う前、流川に告白されて……キス……された」

「そうなんだ……。やっぱり、流川さんは佐山さんのことが好きだったんだね」

猫塚くんはぐっと奥歯を噛みしめた。

「でも、ちゃんと断ったから。流川とは同期だしこれから先も仕事の付き合いはあると思う。ごめんね?」

「話してくれてありがとう。流川さんとのことは分かったよ。本当は嫌だけど、我慢する」

「うん。ありがとう」

「ねぇ、佐山さん。これからはお互いに何でも話せるようになりたい。隠し事とか遠慮とかしないようにしたい」

「隠し事……?」

「そう」

ほんのわずかに目の下が引きつってしまう。私は猫塚くんに最大級の隠し事をしているのだ。

「う、うん。分かった」

「よかった」

猫塚くんの満足そうな笑みに私はぎこちない笑顔で返すことしかできなかった。

「今度佐山さんが休みの時、泊まりで一緒に温泉旅行にでもいかない?」

「えっ!?温泉!?」

「嫌?」

「そんなわけないよ!!猫塚くんとならどこでも喜んで!!」

「よかった。俺が佐山さんの仕事に合わせてバイト調整するから。休み取れそうな日あったら教えてね」

「分かった!」

笑顔で答えながらも内心ひやひやしていた。

猫塚くんと一泊で温泉旅行?そんなのそこで結ばれるのはもう確定事項みたいなものじゃないか……!!

「温泉、楽しみ」

そう言って無邪気な笑みを浮かべる猫塚くんの横顔からそっと視線をそらして天を仰ぐ。

どうすんのよ!!さっき隠し事はしないって約束したばっかりなのに、もうすでに約束破ってるし……!!

バカバカ!!私の大バカ者め!!

今からでも伝えようか……?

私、エッチできないんだけど……いいかな?って言う?

いやいやいや!!そんなのいくら私でも言えない。口が裂けても言えない!!

それを知ったらいくら優しい猫塚くんだってきっとガッカリするに違いない。

まだ大学生の彼は性欲だってそれなりにあるだろうし、動物的本能として快感を求めようとするのは当然のこと。

でも、私はそれを満たしてあげることができないわけで……。

それができないと分かれば心変わりしてもおかしくない。

そんなの……

嫌だ……!私は猫塚くんを離したくはない。

猫塚くんといられる幸せを手放したりしたくない。

彼と一緒に温泉旅行に行ける喜びとエッチができない葛藤、その板挟み状態に私の心の中のモヤモヤは広がっていった。

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