三角関係
「私、彼氏ができました」
「ハァ!?マジで~!?相手って猫塚君でしょ!?」
出社してすぐ京子にそう告げると、京子はひっくり返りそうなほど驚いていた。
「うん。猫塚くん」
「だよねぇ~。そうなるような予感はしてたけど、やっぱりか。でもよかったじゃん!!念願の彼氏ができて」
「うん。ただね……ちょっと一つだけ問題があって……」
「問題?」
首を傾げた京子に私はこっそりと伝えた。
「実は、流川にも好きだって言われたの」
「ん?」
京子が固まる。
「えっ!?流――!!」
「――ストップ!!!」
大声で叫びそうになる京子の口を手のひらで塞ぐ。
「えっ、ちょっ、待って。流川にも告られたの?」
「付き合ってとか言われたわけではないんだけど、好きとは言われて……」
「そうなの~!?何よ、急にモテ期到来じゃない!!」
「今までそんなの全然なかったのにねぇ」
「いや、でももしかしたら流川も焦って告ったのかも。アイツ、猫塚くんの存在知ってたわけでしょ?」
「うん。流川には猫塚くんの話もしたから」
「だから気持ち伝えたんじゃない?もしかしたら、流川はずっと玲菜に片思いしてたのかも?」
「まさか」
「でもさ、アイツが女の子と付き合わないのってなんでだろうと思ってたけど本命がいたからって考えれば納得いくじゃん」
「本命……かぁ」
そのとき、ふと以前車で送ってもらったときに車内でした流川との会話が蘇る。
『流川が好きになる相手ってどんな人?どういうタイプ?』
『仕事はできるのにバカで鈍感で不器用で変な女』
え。もしかしてあの女って私だった……?ま、まさかね。
あの時は流川の冗談だと思って軽く聞き流していたけど……。
「まっ、流川は可哀想だけど玲菜は猫塚くんのことを選んだわけだしちゃんと流川には気持ちを伝えた方がいいかもね」
「そうだね。そうする」
流川とは今後も会社で顔を合わせるわけだし、きちんと伝えよう。
「それにしても、玲菜ってばいい男に言い寄られて羨ましい限りだわぁ」
「とかいって京子彼氏いるでしょ?」
「ああ、あたし?もう別れたよ」
「えっ!?そうなの?付き合ったの最近じゃなかった?」
確か2か月くらい前、合コンで大手広告代理店の男性と出会って付き合うことになったって言っていたような?
「それがさ、合わなかったんだよね」
「なにが?」
「アッチの方が」
「なに、アッチって?」
「だから、セックス。体がまぁーーーったく合わなかったの」
「な、な、なんてことを!!今、まだ朝だからね!?よくもまあ素面でそんなこと言えたね!?」
「なによ。アンタが聞いたんじゃない」
「っていうか、体が合わないってどういうこと?そんなことあるの?」
「あるあるでしょ。ヤッてみてガッカリってパターン。でもね、一つだけ確かなことがある」
自信満々に言う京子に耳を傾けながらごくりと生唾を飲み込む。
「キスが合う男は体の相性も抜群だから。もうキスだけで天国に昇りそうになるからね」
「え」
キスが合う男……?言われてみてからふと昨日の猫塚くんとのキスを思い出す。
歯の間を割って入ってくる猫塚くんの柔らかい舌が私の舌に絡んで、そして――。
「くぅぅうーーー!!」
「なに!?急に大きな声出して!」
「私ね、猫塚くんとのキス最高だったんだよ~!もう腰が砕けそうっていうか、半分砕けたっていうか」
「砕けたらヤバいでしょ」
的確に突っ込みを入れられて「ははっ」と笑う。
「いや、本当に冗談抜きでよかったの。あんなの初めてで……。思い出すとなんか変な感じになる。モジモジしたくなるっていうか……」
正直、あの感覚を伝える為のうまい表現が見つからない。
「そう。じゃあ、夜もバッチリね!!」
「そ、そういうもの?」
「そういうものです」
経験豊富な京子の太鼓判になんだか急に自信がみなぎってきた。
猫塚くんとなら……もしかしたらうまくいくかもしれない。
私は猫塚くんとの幸せな未来に思いを馳せた。
「え。流川まだよくならないんですか?」
思わずそんな言葉が漏れた。
「そうなんだよ。珍しいよね?熱が下がらないらしくて心配してるんだ」
出勤すると、流川の席は今日も空席だった。
尋ねると課長は困ったように言った。
珍しいことに流川は会社を2日間も休んだ。
たった2日だというのに流川がいないせいで仕事が滞り、各所で問題が生じている。
あの男は一体どれだけの仕事を抱え込んでいたんだ。
出来ることは私も対応したものの、なかなか終わる気配がない。
「それで、佐山さん。悪いんだけど、この書類を流川君に届けてもらえないかな?」
茶封筒に入った書類を差し出す課長。
「私が、ですか?」
そう尋ねた瞬間、
「課長~!その書類、あたしが流川君に届けましょうかぁ~?」
私と課長のやりとりに気付いた進藤さんがぴょこぴょことこちらにやってきた。
なんだ、その走り方。普通に走れ、普通に!
「いや、大丈夫」
「えー、私行きますよぉ!!どうして佐山さんにしたんですか!?流川君も佐山さんが来るよりあたしが行った方が喜ぶと思いますけど?」
な、なんだそれ。酷い言い様に呆れかえる。
「君、そういう言い方はないだろう?」
進藤さんの言葉に課長は眉間にしわを寄せて言い返した。
「今回は佐山さんにお願いすることに決めたから。それと、進藤さんは席に戻って仕事を続けて。頼んでおいた書類早めに出してね?」
「えぇ~、あたしが看病してあげたかったのにぃ~!ま、いいですけど。課長のお好きにしたらいいんじゃないですかぁ~!?」
明らかに不機嫌そうに言うと、進藤さんは私たちに背中を向けて怒りながら自分のデスクに戻っていった。
「ごめんね、佐山さん。嫌な気持ちにさせちゃったかな」
「いえ、課長のせいじゃありません。それに言い返してもらえてちょっと嬉しかったです」
「いや、当たり前のことをしたまでだよ。彼女はずいぶん君や篠原さんにきつく当たっているように見えるから」
「まあ、確かにきつく当たられてますね。私は全然大丈夫なんですが、裏で篠原さんにあれこれ言ってるんじゃないかってそれだけが心配で。今までもそれが原因で何人か辞めていますし」
「そうだね……。困った人だ」
課長は呆れ気味にため息をつく。
よかった。男性職員の中にも進藤さんの色仕掛けにハマらずに話が通じる人がいて。
「じゃあ、これお願いしてもいいかな?」
「分かりました。私が確実に届けますのでご安心ください」
「佐山さんはいつも良くやってくれて本当に助かってるよ。ありがとう」
課長のねぎらいの言葉が嬉しくて、私は微笑みながら受け取った書類をギュッと胸に抱きしめた。
【今日もバイト?】
【猫塚くん:今日は休み。佐山さんはまだ仕事?】
【うん】
【猫塚くん:仕事終わったら少し会えない?】
【会えるよ。ただ、ちょっと所用があって。終わる時間が分からないんだ】
【猫塚くん:じゃあ、終わったら連絡して?】
【分かった】
【猫塚くん:早く会いたい】
【私もだよ】
休み時間も昼休みも私は手があけば猫塚くんとラインのやりとりをするようになった。
こんなの学生のとき以来だ。
でも、こういうのも悪くない。
退社時間になると、私は流川に渡す書類を持って会社を後にした。
課長に聞いた住所を頼りに流川の家を目指す。途中、流川にも【これから書類渡しにいくね】とラインを入れておいた。
途中、スマホがブルブルと震えた。画面の表示には【母】と表示されていた。
「もしもし。お母さん?」
スマホを耳に当てると懐かしい母の声が耳に届いた。
『玲菜、久しぶり。全然連絡よこさないけど、元気にしていたの?』
「もちろん元気。どうしたの?急に電話なんてして。何か用?」
『実はね、横峯さんの息子さんがアンタの写真見て気に入ってくれたみたいでね。お見合いしたいって申し出てくれたのよ。その確認の電話』
「ちょっ、ちょっと待って!横峯さんってそもそも誰よ」
『ほらっ、お母さんのフラダンス仲間の横峯さん!その息子さん。彼ね、33歳で都内のIT企業のしっかりとした会社にお勤めらしいの。年上でしっかりしているしいいお話でしょ?今月末、時間とれない?』
「待って!!勝手に話を進めないでよ!!私にだって私の都合があるんだから!!」
母は昔から良いと思ったら突っ走ってしまう人間だった。
『どうして?何が不満なの?彼の写真見たけど、とても穏やかそうで優しそうな好青年だったわよ。玲菜、あなたずっと彼氏いないんでしょ?このままじゃ婚期を逃すわよ?』
「自分のことは自分が一番よく分かってるから。だから、そのお見合いはなしにして!!」
『でも付き合ってる人、いないんでしょ?』
「いるよ!!」
『え……そうなの?そうだったの!?』
母は私の言葉に声色を変えた。
『お相手はどんな人?年上?どこの会社にお勤め?』
「そんな急に色々聞かないでよ」
『玲菜、あなたはもう27歳なのよ。将来のこと色々考えていく年齢でしょ?お相手はちゃんとしてる人なの?付き合ってるなら結婚の話とか、そういう話はしっかりしないと』
「ごめんね、お母さん。今、忙しいからその話はまた」
『濁すってことは……。もしかしてお母さんに言えないような相手と付き合ってるの!?結婚と恋愛は別よ!!しっかり考えなさい!』
「はいはい、分かってる。切るね?」
『ちょっ、玲菜――。待っ――!!』
「またね」
そう告げると、私は母からの電話を切った。
母が心配しているのも理解している。
だけど、私は母の言葉になんて返したらいいのか分からなかった。
『お相手はどんな人?年上?どこの会社にお勤め?』
大学生と付き合っているなんて知ったら母はきっとお見合いを進めてくるだろう。
私はハァと盛大な溜息をついた。
「あれ……。おかしいなぁ……」
流川にラインをしてからそれなりに時間が経ったのに、何故か既読にならず電話も呼び出し音が鳴るだけで繋がらない。
寝ているんだろうか。だとしたら、ポストに書類を入れて帰ろう。
「……どんだけ金持ちよ」
流川の住むマンションの前までたどり着くと私は思わずそう漏らした。
天高くそびえる高級マンションに足がすくむ。
エントランスに設置してある機械で流川の部屋の番号を打ち込み呼び出しボタンを押したものの、反応はない。
「嘘……。いないのかなぁ……」
まさか部屋の中で倒れてるなんてことないよね……?
嫌な予感がしてしばらくその場で考えを巡らせているとき、住人らしき人が自動ドアを抜けてエントランスに降り立った。
私はいけないとは思いながらも開いているドアからエントランスを抜け、エレベーターを上がりもふもふとしたカーペットの敷き詰められている廊下を歩いて流川の部屋の前に降り立った。
「やっぱり変だ……」
チャイムを鳴らしても中からは何の反応もない。
もう一度押してみたものの同じだった。
「流川~?いないの~?」
コンコンッと重厚な扉をノックしたあと、一か八かで部屋のドアノブに手を伸ばした。
どうせあくはずもない――。
「え!?嘘、なんで!?」
玄関の扉の鍵は開いていた。
恐る恐る扉を開けてから「流川~?いる~?」と尋ねる。
でも部屋の中からは物音ひとつしない。
それが逆に恐ろしい。玄関先には流川がいつも履いている高級ブランドの革靴が置かれている。
ということは、家の中に流川はいるはず。
「流川、入るよ!?」
大声で言ってから返事を待たずに部屋に足を踏み入れる。
って、入ってきたはいいけどこれって不法侵入とかになるのかな!?
「おーい、流川!!私です。佐山です!!お邪魔してますよー!!」
その瞬間、妙な違和感を覚えた。部屋の中が蒸し暑い。暖房がついているようなものすごい暑さだ。
「う、嘘でしょ?」
駆け足で廊下を抜けて半開きになっているリビングの扉を開けると、そこにはYシャツのボタンを全部開けて上半身をむき出しにして床に大の字で寝転ぶ流川の姿があった。
その顔は真っ赤で苦しそうな表情を浮かべている。
「ちょっ、流川!?アンタ床で何やってんの!?」
肩をゆする。そのとき、流川の体温が異常に高いことに気が付いた。
「すごい熱……!!」
リビングは予想通り暖房がついていた。今日の日中は汗ばむような陽気だったというのに暖房をつけるなんて……!!
急いで暖房を切って冷房に切り替えてから流川に駆け寄る。
「流川!?流川、大丈夫!?」
肩を揺らすと、流川がうっすらと目を開けた。
「私のこと分かる!?」
「……なんでお前が……?」
「よかった……。意識はある……。ちょっと待ってて!!」
まだぼんやりとしている流川に声をかけて冷蔵庫へダッシュする。
水分をとらせてから出来る限りの保冷剤をタオルでくるみ、首と脇の下の血流が多い部分を冷やす。
おでこには水で濡らしたタオルを乗せた。
「流川、動ける!?」
「無理。ここでいい……」
「ここじゃダメでしょ!?」
「あー、なんか冷たくて気持ちいい」
仕方なく流川の足元に回り込んで両足を掴んで思いっきり引っ張る。
「くぅぅ……おも……たい!!」
段差のないバリアフリー住宅でよかった。
ひとまず近くにあるソファの近くまで流川を運ぶ。
細身なくせに筋肉のせいか重たい流川を少し動かしただけで息が切れる。
「流川!!床じゃダメだよ!!頑張ってソファに移動して!!」
流川は渋々頷くと、体を起こしてソファに横になった。
ぐったりとした様子で目をつぶっている流川の苦しそうな表情に胸が痛む。
分かるよ、流川。私はアンタの気持ちが。
一人暮らしってこういう時ホント困るんだよね。部屋の中で倒れても誰も気づいてくれないもんね……。
去年、お盆休み中に食中毒になって部屋の中で一人のたうち回り死を覚悟したことのある私には流川の今の状況はとても他人事には思えなかった。
ひとまず水分もとれたし体を冷やすこともできた。あとはゆっくり寝てもらうしかない。
薬とか飲んでるのかな。ていうか、流川ちゃんとご飯食べてる……?
私はキッチンへ向かい冷蔵庫に手をかけた。
「うわ……。なんかすごい見覚えがあるんだけど……」
冷蔵庫の中には大量のミネラルウォーターがおさめられているだけで食べ物が皆無だった。
キッチンのシンクもピカピカだ。流川は自炊をしないタイプの人間なのかもしれない。
まあそれも仕方がないだろう。優秀な流川はたくさんの仕事を任せられているし、同期の中でも一番の出世頭と噂されている。
家に帰っても料理なんてする時間はあまり取れないんだろう。
「しょうがない。今度は私が一肌脱ぐか」
ソファでは流川がぐっすり眠っている。
「ちょっと出かけてくるね」
私は流川に声をかけてからバッグを肩にかけて部屋を飛び出した。
「……うん。そこそこの出来だな」
調理道具は一通りそろっていた。
近くのスーパーで買い物をしてマンションに戻ると、流川はまだ眠っていた。
起こさないように注意しながら卵粥を作り終えた時、「佐山……?」と流川が私の名前を呼んだ。
「あっ、目、覚めた?」
流川の元へ歩み寄ると、流川は少し充血した目を私に向けた。
「なんで……?」
流川はゆっくりとした動作で起き上がり、ソファに腰かける。
「勝手に家に入ってごめんね。課長から預かった書類届けにきたんだけど、流川電話にも出ないしチャイム鳴らしても返事ないし心配になっちゃって」
「あぁ……それで」
「うん。すごい熱だったけど、大丈夫?病院は行ったの?」
「行ってないけど、もうだいぶいい」
「それにしても驚いたよ。暖房付けて床に大の字でひっくり返ってるんだもん」
「昼間寒気がして暖房つけて寝た後の記憶がない」
「……え!?それヤバいって!!私来てなかったら死んでたかもよ?」
「……かもな」
フッと笑った流川につられて微笑む。
「かもなって。ダメじゃん」
「だな」
なんだかいつものように毒を吐かない素直な流川に調子が狂う。
「熱、測ってみたら?」
「あぁ」
テーブルの上に置いてあった体温計を流川に差し出すと、流川が手を伸ばした。
「……っ、ごめん!!」
一瞬だけ指先が触れあって、私は体温計を離してしまった。
カシャンっと乾いた音を立てて床に転がった体温計を流川が拾い上げる。
そのとき、バッグの中のスマホがブーブーっと震えたことに気が付いた。
スマホを取り出すと、猫塚くんからラインが届いていた。
【猫塚くん:まだ仕事終わらない?】
「あっ……」
そうだ。流川の看病に必死になっていて猫塚くんとの約束をすっかり忘れてしまっていた。
私は慌てて画面をタップした。
【ごめん!ちょっと用が出来ちゃって遅くなっちゃいそう】
【猫塚くん:今日会うのはきつい?俺は遅くても大丈夫だけど】
【あと1時間くらいかかるかな。それでも大丈夫?】
【猫塚くん:大丈夫。駅まで迎え行くよ】
【そんなの悪いよ!!】
【猫塚くん:悪くないよ。俺が心配だから迎えに行かせてください】
な、な、なんていい彼氏なんだろう……!!
【ありがとう。また連絡するね】
ハートマークのスタンプを送りたいところだけど、まだなんとなく照れ臭い。
猫塚くんとはこうやってラインのやりとりをするだけで温かい気持ちになる。
彼のことを好きなのは十分承知しているつもりだけど、私は自分の想像以上に猫塚くんのことが好きらしい。
ピピピッと電子音が聞こえて、スマホをバッグに押し込む。
「熱は?」
「37度8分」
「よかった。37度台か。多分、さっきは39度以上あったと思うよ?」
「かもな。昨日の夜、40度近かったから」
「40度!?アンタ、大丈夫だったの?」
「なんとかな」
40度の熱が出るなんて相当苦しかっただろう。
「あっ、そうそう。冷蔵庫見たら何も入ってなかったからスーパーで適当に買い物してきて冷蔵庫に入れておいたから。冷凍庫にはアイスもあるから食べられそうだったらあとで食べてよ」
「は……?」
私の言葉に流川が驚いたような表情を浮かべた。
「あと、おかゆ作ったの。申し訳ないけど、私料理って得意じゃないから凝ったものは作れなかったけど。食べられそうなら持ってくるけどどうする?」
そう尋ねると、流川が口に手のひらを当てて眉間にしわを寄せた。
「マジか」
えっ。なに。何その反応は……。
もしかして――。
「ごめん、勝手なことして。人の手料理とか無理な人っているよね。無理して食べなくてもいいからね」
「――嬉しい」
「へ?」
「手料理、すっげぇ嬉しい」
流川が表情を輝かせる。
な、なんか……、初めてかも。こんな風に無邪気な顔して笑う流川を見たのは。
よくよく考えてみればプライベートでこうやって流川と会うのも初めてだった。
「それ、分かる!私も誰かに手料理作ってもらうと嬉しい!!」
「……は?」
私の言葉に流川は呆れたように首を傾げる。
「一人暮らしだとどうしても自分で自炊しないといけなくなっちゃうし、めんどくさい時は買ってきて食べることになるもんね」
だから、誰かに振舞ってもらう手料理ってとても特別だし嬉しいものだ。
「ちげーよ。そういう意味じゃない」
「ん?じゃあ、どういう意味?」
「お前の手料理が食べられるのが嬉しいって言ってんだよ」
流川はそう言うと、ふいっと私から顔をそらしてしまった。
えっ。あっ、そういうことだったの……?
「あっ、今、おかゆ温めてくるね!!!」
私は勢いよく立ち上がると、流川に背中を向けてキッチンへと向かった。
な、なにを急に……!!流川の言葉に動揺してしまう。
『俺もお前のことが好きだから』
流川は私に気持ちを伝えてキスをした。
流川が冗談半分でそんなこということもすることも考えられないし、本当に私を好きなのかもしれない。
いつから……好きになってくれたんだろう。
今までそんな素振り見せたことなかったのにな。
とはいっても私は流川に好かれるようなことは何一つしていないし、流川にとって私は分不相応でしかないはず。
流川はいったいこんな可愛げのない女のどこがよかったんだろうか。
おかゆを温め直すためにIHの電源をオンにする。
でも、私は流川の気持ちに応えることはできない。
私には猫塚くんという彼氏がいるし、できるだけ早く流川に自分の気持ちを伝えなくてはならない。
いつ伝える……?今……?でもさすがに具合の悪い人間に伝えるのは酷かもしれない。
うーん、じゃあ、いつ?ああ、こういう時に恋愛スキルが低いのが仇になる。
今すぐ京子に電話をして指示を仰ぎたいのをぐっと堪えた。
「あっ、時間がおしてる……」
部屋の掛け時計を確認すると、午後8時になろうとしていた。
猫塚くんに連絡する時間が迫っている。
私は慌てて温まったおかゆを流川の元へ運んだ。
「おまたせ。正直、味に自信はないけどまあ食べられるレベルの物には仕上がってるはず」
「なんだよそれ。逆に怖いから」
そんなことを言って呆れた様子ながらも流川は「いただきます」と言ってからおかゆを口に運んだ。
「どう?」
「うまい。つーか、昨日から何も食べてないからメチャクチャうまい」
「なによそれ。言い方よ、言い方!」
食べられればなんでも美味しいような言い方をしやがった!!
「冗談だって。うまいよ」
流川はふっと笑うと、嬉しそうにおかゆを口に運ぶ。
「元気出てきたみたいでよかったよ。だけど、あんまり無理しないでよ?アンタが無理して潰れたら会社的にも大損害だし」
「あぁ。お前もな?」
「私はそこそこセーブしてやることにしたから。残業ももう無理してやらない」
「ふぅん。なんで?」
射抜くような視線に思わずたじろぐ。
「なんでって――」
猫塚くんと付き合うことになってバイト以外でも会えるようになったからだ。
コンビニに行かなくても連絡を取り合えば猫塚くんと会うことができる。
――流川、ごめん。私は猫塚くんが好きだ。彼と付き合いはじめたの。
きっと、今がそれを言う絶好のチャンスだ。
猫塚くんとのことを言わずに先延ばしにしていてお互いに良いことなんて一つもない。
「あのさ、流川」
私はフローリングの上に正座して流川を見つめた。
ちゃんと言う。それが互いの為だから。
「こんな時なんだけど実は――」
そこまで言ったとき、バッグの中のスマホがブーブーと震えた。
電話なのかバイブ音が部屋の中に響き渡る。
「電話。出れば?」
「あっ、うん。ごめん」
私はバッグを引っ張りスマホを取り出した。そこに表示されていたのは猫塚くんの名前だった。
「あっ……」
連絡すると伝えた時間を過ぎてきっと心配になって電話をかけてきたに違いない。
「ごめん。流川、ちょっと電話でていい?」
「あぁ」
私は廊下に移動してスマホをタップして耳に当てた。
「もしもし、猫塚くん?」
『佐山さん?今大丈夫?』
低いけどやわらかい猫塚くんの声色。
電話越しの猫塚くんの声を聞くだけで胸がキュッと締め付けられる。
ああ、好きだ。気持ちが溢れ出しそうになり、私は必死に感情を抑え込んだ。
「うん。連絡遅れちゃってホントごめんね!待たせちゃってたよね」
『それは大丈夫なんだけど、まだ会社?遅いから心配になって』
コンビニの外で起こった出来事があったからか猫塚くんは私のことをとても心配してくれている。
で、でも……。
「え、今?」
『うん。仕事、まだ終わらない?』
ハッとした。私、サラッと猫塚くんに嘘をついているのかもしれない。
猫塚くんには所用と伝えていたけど、今私は流川の家にいてコソコソと廊下で猫塚くんに電話をしているのだ。
「あー、うーん。えっとねぇ……」
頭をフル回転させる。猫塚くんに嘘なんてつきたくない。
だけど、ここで「今、流川の家にいるの」って言うのははばかられる。
いくらなんだってこんな時間に独身の流川の家に二人っきりでいるのはマズい。
もちろん、流川は病人だし私達がなんかやましいことをしているっていうことはないけど、それでもきっと変な想像をしてしまうに違いない。
『佐山さん?どうしたの?』
動揺して何も言えなくなる私を猫塚くんが心配してくれているのが伝わってきて更に窮地に立たされる。
「猫塚くん、実は――」
スマホを握る手にぎゅっと力を込めた時、リビングの扉が開いた。
Yシャツを手に上半身裸の流川がこちらに歩み寄ってくる。
細いと思っていたのに、Yシャツを脱ぐと筋肉質で無駄な脂肪は一切ない。
この男、体まで完璧だったとは……!!
それにしても、一応女が目の前にいるというのになんてデリカシーがないんだろう。
「ちょっ、流川!!アンタ何やってんのよ!?」
「なにってシャワー浴びんだよ。汗かいたから」
思わず叫ぶと、流川は平然とした顔で私の横を通り過ぎてバスルームへと入っていった。
……ん?
そのとき、ようやく私は今の状況がマズいことに気が付いた。
今の会話って……なんかヤバくない?
『……佐山さん、今どこにいるの?』
「え……」
『流川さんと一緒にいるの?』
「えっとそれは色々な事情があって……」
『シャワー浴びてくるって聞こえたけど、何してたの?』
猫塚くんの低い声が更に低くなる。必死に怒りを押し殺している彼の声に私は申し訳なさでいっぱいになった。
あーーー、どうしよう。今までのことを一から十まで順序だてて説明すべき?
流川が会社を休んで課長に届けてほしいと頼まれていた書類を流川のマンションまで持ってきたはいいものの、流川が高熱で倒れていてさすがに放っておけずに看病して――。
いや、言い訳してはいけない。まずは謝罪だ。
仕事だってそうだ。言い訳をせずにまずは誠意をもって謝罪する。
「猫塚くん、ごめん。私、嘘ついた。本当は今会社にいない」
『じゃあ、どこにいるの?』
「……流川の家」
猫塚くんが押し黙る。
付き合って早々に他の男の家にいると分かれば猫塚くんだって相当な怒りを覚えるはずだ。
しかも、『シャワー浴びんだよ。汗かいたから』という間違いなく誤解されるフレーズまで聞かれてしまった。
あぁ……こんなの幻滅されて軽蔑されてフラれてもおかしくない状況だ。
私が逆の立場だったら絶対に許すことができないだろう。
「本当にごめんなさい……」
もう一度謝ると、猫塚くんが重たい口を開いた。
『もう用は済んだの?』
「え。あぁ、うん」
書類を渡すという目的は達成したし、流川もシャワーを浴びられるまでに回復したようだ。
私がこれ以上この家に長居する必要はない。
『流川さんの家ってどこ?』
「え?」
『そこまで迎えに行くから』
「そ、そんなのいいよ!!悪いよ!!」
『いいから。どこ?』
猫塚くんの強い口調に押し切られる形で私は流川の家の住所を伝えた。
『わかった。15分ぐらいで着くと思うから。着いたら連絡する』
「うん。ありがとう……」
電話を切ると猫塚くんへの申し訳なさと情けなさで私はその場にヘナヘナと座り込んだ。
私は一体何をやっているんだろう。
「あー、もうバカ!!」
自分を叱咤してから勢いよく立ち上がってリビングに戻る。
「あれ……?」
テーブルの上に置いたおかゆの器がなくなっている。
不思議に思いキッチンへ向かうと、流しには空の器が置かれていた。
「全部食べたんだ……」
とりあえずこれで多少なりとも栄養は取れたはずだし徐々に回復していくだろう。
私は洗い物を済ませてキッチンを元通りに片付けると、忘れ物がないか確認してバッグを肩にかけた。
「帰るのか?」
タイミングよくシャワーを浴びた流川がリビングに戻ってきた。
「うん。もう帰るね」
「茶ぐらい飲んでから帰れば?」
「ううん、大丈夫。ちょっと急いでるから」
首にかけたタオルで髪を拭う流川。眼鏡をかけていないからか何だか別人みたいだ。
「なんで?」
私の前に立ちふさがる流川の目をまっすぐ見つめる。
「あのさ、この前流川に言われたことの返事なんだけど」
「あぁ」
「ごめん。私、猫塚くんと付き合うことになったの。だから、流川の気持ちに応えることはできない」
私の言葉に、髪を拭く流川の手がピタリと止まる。
「お前、本気でアイツと付き合う気なのか」
「本気だよ。……流川とは同期だし、これからも良きライバルとして一緒に仕事をしていきたいって思ってる」
「良きライバル?」
「うん。だから、付き合うことはできないけど今後も仕事仲間としてよろしくお願いします」
ペコっと頭を下げて歩き出した時、「ちょっと待て」と流川が私の手首を掴んだ。
「お前があの猫塚って奴と付き合い始めたっていうのも分かった」
さすが流川。話が早い。
「でも、俺はお前のこと諦めないから」
「……はい?」
「そんな簡単に諦めらんねぇよ」
流川の言葉に唖然とする。
えっ、ど、どうしたらいいの?私、言ったよ?猫塚くんと付き合ってるって。
諦めないってどういうこと?それは困る。困るよ……!!
「私は猫塚くんと付き合ってるし、猫塚くん以外の男のことは考えられないから!!とにかく、ゆっくり休んでください……!!では、お大事に!!!」
流川の手を振り払うようにしてリビングを飛び出して玄関のドアを開ける。
もふもふとヒールの沈み込むカーペットの敷き詰められている廊下を歩き、エレベーターに乗ってエントランスへ降り立つ。
心臓がバクバクと音を立てて鳴っている。
何なのよ、流川の奴!!私には猫塚くんがいるって言ってるのに……!!!
流川に触れられた手首にそっと指先で触れる。
ああ、驚いた。こういう時男に対しての耐性がないせいで情けないぐらいに動揺してしまう自分が本当に嫌だ。
マンションの外に出る。
もうすっかり辺りは暗くなっている。生ぬるい夜風が心地いい。
辺りをキョロキョロと見渡す。まだ猫塚くんは来ていないようだ。
というか、猫塚くんは一体何で迎えに来る予定なんだろうか?
車持ってるとか言ってなかったよね?
21歳だし免許は持っていたとしてもまだ車を買えるほどお金に余裕があるとは思えない。
ってことは――。
「えっ、まさかの自転車……!?」
本当はダメだけど、荷台に乗ってハンドルを握る猫塚くんの背中に頬を寄せてお腹に腕を回してギュって抱き着く……。
猫塚くんの背中に顔を埋めるとか想像しただけでも心臓が震えだす。
学生時代、そういうことをした記憶がないしそういうことをしたみたいという淡い欲求は27歳になった今もほんのちょっぴり残っていて……。
二人乗りかぁ……。
「いい!!すっごくいい!!」
脳内で妄想を繰り広げる私の元へ猫塚くんからラインが届いた。
【猫塚くん:マンションの前に着いたよ】
【私もマンションの前にいるよ】
辺りを見渡しても自転車に乗る猫塚くんの姿は見当たらない。
「あれ……?どこにいるんだろう。場所間違っちゃったかな?」
もう一度猫塚くんにラインを送ろうとスマホに視線を落とした時、
「――佐山さん」
と誰かが私の名前を呼んだ。
「ん?」
目の前の車道にはハザードランプを付けた一台の白い高級車が横付けされている。
その乗用車の助手席側の窓がなぜか全開だ。
「佐山さん、こっち!!」
猫塚くんだ。やっぱりどこからか猫塚くんの声がする。
でも、やっぱり猫塚くんの姿は見えなくて……。
恐る恐る白い乗用車へ近付いて運転席に目をやると、そこにいたのは猫塚くんだった。
「ね、ね、猫塚くん!?なんで!?」
「なんでって迎えにきたんだけど」
「そうじゃなくて……!!なんで自転車じゃないの!?」
「自転車?俺、自転車で迎えに行くって言った?」
「言ってないけど、車だとは思わなくて……」
驚いて自分でも何を言っているのかよく分からない。
そんな私に「とりあえず乗って」と促す彼はとても私の6歳年下には思えないぐらいスマートだった。
助手席に座りシートベルトを締めると車はゆっくりと動き出す。
ふわっとしていて座り心地の良すぎるシートに体を預けると、なんだか落ち着かない気持ちになる。
猫塚くんがいつもの猫塚くんじゃないみたいでそわそわしてしまう。
こんな猫塚くん、私は知らない。
「猫塚くん、あのさ――」
口を開こうとしたとき、お腹がぐぅっと盛大な音を立てて鳴った。
こんなタイミングでお腹を鳴らす間の悪さが情けない。
その音は猫塚くんの耳にも届いたのか彼はくすっと笑った。
ああ、その笑顔は反則だ。
その横顔がなんだかとっても可愛くて私の胸は高鳴る。
「お腹空いた?」
「……実はペコペコです」
「俺も。どこかで食べようか。何か食べたい物ある?」
「あっ……その前にちゃんと話がしたいんだけど……いいかな?」
猫塚くんは平静を装ってくれてはいるけど、きっと思うところもあるだろう。
きっと私のことを思って感情的にならないようにしてくれているんだ。
「分かった。じゃあ、うち来る?話が終わったら何か頼んで家で食べよう」
「……うん」
私と猫塚くんは揃って彼の家に向かった。