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すれ違い

猫塚くんと付き合って2か月が経った。

互いに忙しくてもまめに連絡を取り合い、少しでも時間が合えば会うように心がけた。

ケンカも一度もしたことがないし、今のところ順調だけどやっぱり問題なのは夜のほうで……。

「ハァ?アンタ達付き合って2か月も経つのにまだヤッてないの!?」

「シーッ!!ちょっと声が大きい!!」

珍しく揃って社員食堂で昼食をとりながら猫塚くんの話を京子にすると、京子が驚きを露にした。

「ていうか、猫塚くんよく我慢してるわ。彼、大学生でしょ?よくまあ一緒の部屋にいてそういうことにならないわ!!」

「やっぱ……私に気を遣ってるのかなぁ……?」

猫塚くんに私のヒミツを打ち明けたわけではないけど、意外と敏感な彼は私がするのをためらっていることに気付いているのかもしれない。

だから、手を出してこない……?

「ねぇ、普通のカップルって付き合ってどれぐらいでそういうことになるの?」

「普通かどうかは分からないけど、あたしは気が合えば出会ったその日にそういう関係になるけど?」

たらこスパゲッティの上の刻みのりを前歯に張り付けたまま堂々と言う京子はさすがだ。

「その日のうちってどういうこと?」

「だから、まだ付き合う前段階でするってこと。その方がお互いに手っ取り早いってこともあるし。体の関係が先でもそのあと好きになるってこともあるし。今の彼氏もそうだから」

「今の彼氏!?なにそれ、私、聞いてない!!いつのまに!」

この間彼氏と別れたというのも聞いたばかりなのに、もう新しい彼氏ができたなんて……!!

「よく来る外注さんでこの間仕事中に連絡先渡されて今度食事でもどうですか?って誘われたの。見た目もタイプだったし食事でもと思ってたんだけどそれでお互い止まらなくなっちゃったのよ」

「そ、それで!?」

「で、そのままホテルに直行って感じ?とにかく体の相性が良かったから付き合おうって話になったの」

「すごいねぇ……!私には縁のない話過ぎて驚きだわ……!」

経験豊富な京子がなんだかとっても眩しい。

「女だって性欲があるんだもん。そんなこともあるわよ。でも、普通は男の方が性欲はあるだろうし、我慢の限界ってあると思うよ?しかも彼、若いんだし」

「だよねぇ……。きっと我慢してるよね……」

なんだか胃の奥がキリキリと痛む。猫塚くんのことを私はきっと我慢させてしまっているに違いない。

でも、優しい彼は強引に迫ってきたりしない。

「一回そういう雰囲気になったら流れに身を任せてみたら?もしダメだったらそこで実はって今までのことをカミングアウトするとか」

「それで猫塚くんに嫌われたら……?」

「そんなぐらいで嫌うような男だったら、さっさと別れた方が身のためだって」

京子はぶれることのない口調で言い切った。

「それにさ、そんな心配するってことは猫塚くんのことを信じてない証みたいじゃん」

「――そ、そんなことない!!」

突然大きな声を出した私に周りの視線が集まる。

私は周りの人に小さく頭を下げると、再び京子に視線を向けた。

「私は猫塚くんのことちゃんと信じてるよ?」

「じゃあ、ちゃんと彼と向き合いなよ。分かった?」

「うん」

「よし!!頑張れ……!!」

京子が私の頭をナデナデする。京子はいつだって何かあるとこうやって私のことを励ましてくれる。

「私、京子のことホント好き」

「バカ。あたしのほうが好きだから」

「そんなことない。私は京子がいないと生きていけないよ」

「それ、あたしだからね?」

私達は目を見合わせてブッ!!と吹き出した。

彼氏と彼女が交わすようなべたなセリフを言い合う私達を周りの席の人間は気味悪そうに見つめていた。

【猫塚くん:まだ仕事?】

就業時間が終わり、帰りの準備を進めていたとき猫塚くんからラインが届いた。

【もう終わって今から会社出るところ】

【猫塚くん:今日用があって佐山さんの会社の近くにいるんだけど、一緒に食事でもどう?】

【行く!!どこにいけばいい?】

思わず顔がほころんでしまう。猫塚くんは知っているだろうか。

今日、私たちが付き合ってから二か月目の記念日だということを。

【猫塚くん:佐山さんの会社の前で待ってるね】

【急いでいく!!】

猫塚くんが会社の前で待っていてくれるなんてなんだか夢のようだ。

【猫塚くん:慌てなくていいよ。ゆっくりきて】

【了解です】

私は猫塚くんに返事を帰すと、書類をバッグに詰めて肩にかけた。

「お先に失礼します」

まだ残っている人に挨拶をしながらフロアを出ようとしたとき、前方から歩いてきた流川とばったり会った。

流川のマンションへ行ったあの日以来、流川とは出来るだけ距離を置いていた。

『諦めない』と言われてどうしたらいいのか分からなかったからだ。

「もう帰んの?」

「うん。これからデートだから」

「ふぅん」

こんな風に流川を突き放すのは良くないって分かっているけど、どうしようもない。

私は猫塚くんが好きで、流川の気持ちに応えることはできない。

下手に期待を持たせたりする行為こそ残酷だし失礼だ。

「じゃあ、お先に」

「あぁ」

流川はそう言うと私の横を通り過ぎフロアに入っていく。

なんだ。意外にあっけないな……。

拍子抜けしながら私はエレベーター目指して駆け出す。

早く、早く、早く。気持ちが急く。

早く猫塚くんに会いたい。エレベーターを待つ時間すらも惜しいなんて私、相当猫塚くんにハマってる。

やってきたエレベーターに乗り1Fのボタンを押すと、私はエレベーター内の鏡で髪型とメイク崩れをチェックする。

「よし。大丈夫!!」

出口へ向かう途中、受付に京子がいるか探したものの姿が見当たらない。

案内業務でもしているのかな……。

せっかく猫塚くんを紹介できるチャンスだったのに……!!

ガッカリしながら小走りで出口へ向かっていると、猫塚くんの姿を視界にとらえた。

後ろ姿だけど、見間違えるはずがない。

っていうか、今日スーツなの……!?なんで!?

なんだか心臓がドクンドクンッと激しく鳴りだす。ああ、どうしよう。

このほんのわずかな距離すらももどかしくて仕方がない!!

「猫塚く――」

手を挙げて彼の名前を呼ぼうとしたとき、喉の奥に言葉が突っかかった。

「なんで……?」

猫塚くんの隣にいるのは進藤さんだった。何故か彼女は親し気に猫塚くんの顔を覗き込んでしゃべりかけている。

「猫塚くん?」

二人の元へ歩み寄り声をかけると、私に気付いた猫塚くんが嬉しそうに微笑んだ。

「佐山さん!」

「ごめんね。待った?」

「全然」

首を横に振る猫塚くん。その様子を進藤さんがジッと見つめていた。

「えっ、彼……佐山さんの知り合い?もしかして佐山さんの弟だったりするぅ?」

首を傾げて可愛らしく尋ねた彼女に内心呆れる。

彼女は大の面食いだ。猫塚くんの容姿に惹かれて声をかけたに違いない。

「違う。彼は私の彼氏だよ」

私は進藤さんの目を見てハッキリ言った。

その途端、進藤さんの顔がみるみるうちに変わっていき、彼女は明らかな敵意をこちらに向けてきた。

「……は?彼氏?佐山さんと彼が?」

「そうだけど、なに?」

「えー、ちょっと信じられないなぁ。年、相当離れてない?パッと見た感じだと、姉と弟にしか見えないけど?」

私と猫塚くんを交互に見つめて口の端を片方だけ持ち上げて笑う進藤さん。

「確かに年は離れてるけど、彼は私の弟なんかじゃないから」

それに、自分だって27歳でしょ?

「ふーん。佐山さんって老け顔だし、不釣り合いな感じだけどね。その点あたしは若く見られるしっ!ねぇ、君、佐山さんじゃなくてあたしにしない?」

彼女はにっこりと笑いながら猫塚くんの腕に自分の腕を絡めた。

彼女がいようが奥さんがいようが彼女にとってそんなことは関係がないのだろう。

自分が欲しいと思った男がいればどんな手段を使ってでも手に入れようとする。

「うわぁ、腕結構筋肉質なんだねぇ。背も大きいし顔もカッコいいし素敵!」

彼女は自分の胸元に猫塚くんの腕をグイグイと押し当てて上目遣いで彼を見上げる。

「っ……」

私はこの時始めて嫉妬した。真っ黒なドロドロとした感情が胸の奥底から沸き上がってくる。

猫塚くんに触ってほしくない。そんな目で猫塚くんを見ないで。

やめて。やめてよ――!!

心の中でそう叫んだとき、

「馴れ馴れしく触るの辞めてもらえますか?気分悪いです」

冷めた口調で言うと、猫塚くんは進藤さんの腕を解いた。

「……なっ、そんな怒らないでよぉ。あっ、ねぇ、お仕事は何してるの?」

「大学生です」

猫塚くんの答えに進藤さんはポカンッとした表情を浮かべた。

今日の猫塚くんは珍しくスーツ姿だった。だから彼女はまさか彼が大学生だとは思ってもいなかったんだろう。

「え。大学生?本当に?」

「そうですけど」

「……あははははは!!ありえないんだけど!!いくらなんでも大学生は無理!!えーー、佐山さんってば大学生と付き合ってるの~?いくら男にモテないからってそれはないでしょ~?」

彼女はお腹を抱えてケラケラと笑う。

この女は本当にどうしようもない女だ。私は心の中でため息をつく。

彼女にとっての良い男の条件は社会人であること、かつ高学歴、高収入、高身長の三高なのだ。

「えっ、ってことはもしかしてデート代とかも佐山さんが払ってるの?大学生じゃ車も持ってないでしょ?まさか実家暮らしとか?あははは!!もしかしてデートは自転車?」

「別に自転車デートしてたってあなたには何の関係もないでしょ?」

猫塚くんと自転車デートしたことはないけど、正直ちょっとしてみたいし。

彼の後ろに乗っているところとか勝手に想像してドキドキしちゃったし。

「まあ関係ないって言えば関係ないけど、佐山さん金ヅルにされないように気を付けなよ?最近、そういうの多いし。彼、ヒモにならないといいね~?」

チラッと猫塚くんに視線を向けると、彼は眉間にしわを寄せてグッと奥歯を噛みしめていた。

ダメだ。こんな顔猫塚くんにさせたくない。

ケラケラと笑いながら酷いことばかり言う彼女に堪忍袋の緒が切れた。

「あなたね、さっきから黙って聞いてれば――」

「――佐山さん」

その瞬間、猫塚くんが私の手を掴んだ。

猫塚くんは私に「大丈夫だよ」というようにそっと微笑んだ。

「もう行こう。佐山さんの知り合いだから我慢してけど、その必要ないよね?」

「猫塚くん……」

目の前であんなに酷いことを言われたのに冷静な猫塚くんは私以上に大人だ。

「お幸せに~!!まあどうせすぐに別れるだろうけど?」

進藤さんは捨て台詞を吐くと、フンっと鼻を鳴らして私たちに背中を向けて歩き出した。

「ハァ……」

彼女のせいでどっと疲れてしまった。

私は猫塚くんと向かい合い、頭を下げた。

「本当にごめんね。私のせいで猫塚くんのこと嫌な気持ちにさせちゃって」

自分が酷いことを言われるよりも猫塚くんが言われる方が100万倍嫌だ。

すると、突然猫塚くんが繋いでいた手を引っ張った。

私はその拍子に猫塚くんの胸にトンっと頭をぶつけた。彼はぎゅっと私の体を抱きしめてくれた。

「俺のことはどうでもいいよ。ただ、佐山さんがいつもあの人にあんな酷いこと言われたりしてるのかなって思うと辛い」

「猫塚くん……」

「確かに俺はまだ大学生だよ。だけど、必ず佐山さんのことを幸せにするから」

「うん……」

猫塚くんが私の体を離す。その瞬間、なんだか急に恥ずかしくなって私は頬を赤らめた。

か、会社の前で抱き合うなんて信じられない……!!

会社から出てきた名前は知らないけれど顔は知っている社員が私のことを驚いたように見つめている。

「ちょっと移動しよう!!」

私は猫塚くんの手を引っ張り勢いよく歩き出した。

「そう言えばなんで今日はスーツなの!?」

「今日、会社訪問してたからそれで」

「そっかぁ。なんかすごい大人っぽく見えてドキドキしちゃった。私服姿もコンビニのバイト姿もスーツ姿も全部カッコいいね!!」

思わず本音を漏らすと、猫塚くんがその場でぴたりと立ち止まった。

「ん?どうしたの?」

「そんな可愛いこと言われると、我慢できなくなりそうになる」

「っ……」

「今日、何の日か知ってた?」

猫塚くんが尋ねた瞬間、バッグの中のスマホがブーっブーっと鳴りだした。

「あっ、ごめん!電話だ。ちょっと待ってね」

スマホには流川の名前が表示されている。

就業後だというのに何だろう。猫塚くんも私のスマホの画面に流川の名前が表示されていることに気付いた様子だった。

「流川からみたい。ちょっと出るね」

断ってからスマホを耳に当てる。

『佐山か?俺だ』

「流川……?どうしたの?」

『お前、今どこ?』

「会社から5分くらいの場所にいる」

『今すぐ戻ってこられるか?広川コーポレーションの書類に不備が見つかった』

「え……!?本当に?だって事前に確認したはずでしょ?」

『明らかにこちらのミスだ。とにかく、これから広川コーポレーションの本社にお詫びに向かう。悪いが、お前にも来てほしい』

「分かった。本社ってどこ?」

『栃木県だ』

「栃木!?」

特急列車を乗り継げば2時間ほどだろうか。

だけど、今日は猫塚くんとの2か月記念日なのに……。

猫塚くんがトントンッと私の肩を叩いた。

そして、私の電話で全てを悟ったのかにこりと笑って首を横に振った。

『行ってきて』

口パクで彼がそう言ったのが分かった。

私は申し訳なく思いながらも小さく頷いた。

「分かった。今から戻るから」

『あぁ。会社で待ってる』

私は電話を切ると、顔の前でパチンっと両手を合わせた。

「猫塚くん本当にごめんね。仕事でトラブルがあって」

「大丈夫。気を付けて行ってきて」

「ありがとう……!!この埋め合わせは必ずするから!!」

書類の不備って一体なんだろう――。

私は猫塚くんに手を振って別れると全速力で駆け出した。

「ごめん、流川。これ確実に私のミスだ」

注文金額の桁が一つ間違っている。こんな初歩的なミスをすることなんて今までなかったのに。

栃木へ向かう特急列車に滑り込むように乗り込み座席に腰かけ書類をチェックした私は頭を抱えた。

「いや、お前だけのミスじゃない。それに、俺も一度確認してる」

「二重チェックして気付かなかったってこと?」

私も流川もどちらも慎重な性格だ。二人が同じ部分を見落としていたなんて信じられない。

今までだって流川と仕事してきたけれどこんなミスをしたことは一度もなかった。

「それか、誰かに細工されたか……だな」

流川は腕を組み、座席にもたれかかった。

「細工って……。そんなことできるの同じ部署の人間以外ありえないよ?」

「だったら同じ部署の奴なんじゃねぇの?」

「まさか!!何のために?そんなことする人――」

そこまで言いかけて私は口をつぐんだ。

私のことを目の敵にしている人間が一人いた。

進藤綾だ。

「思い当たる奴いたんだろ?」

「まあね。でも、証拠がないし。それにいくらなんでもここまでのことをするとは思えない。それに、こんなことしたら私だけじゃなくてこの案件で私と組んでる流川にも迷惑がかかるし」

進藤さんは複数の男性と関係を持っているけど、彼女の一番の狙いは流川だ。

流川の気を引くことをするなら分かるけど、迷惑がかかることをするとは思えない。

「多分、俺のせいだ」

「へ?」

「この間、進藤に告られた」

「そうなの……?」

「でも断った。そのせいで逆恨みされてる可能性もある」

「そっか……。それもあるか……」

考えれば納得がいく。モテモテの彼女は男なら誰でも落とせるという妙な自信を持っている。

そんな彼女が流川にフラれればやけを起こしてもおかしくない。

「それと、そのとき進藤に聞かれたんだ。お前のことが好きなのかって」

「え?」

「だから、『お前に答える必要はない』って言ったんだ。否定も肯定もしなかった。それが良くなかったのかもしれない」

「まさか、そんなことで――」

「いや、ありえる。正直、俺とお前が二重でミスを犯すなんてありえないと思ってる」

「まあそうだけど……」

「ごめんな。お前のこと巻き込んで」

珍しく流川がしおらしい。私はブンブンっと首を横に振った。

「それは流川のせいじゃないし謝んないでよ。とりあえず、ミスは認めて誠意をもって謝罪すれば先方も分かってくれるはず」

「そうだな。でも、お前も進藤には気を付けた方がいい。もし何かあれば俺に言えよ?」

「うん。ありがとう」

お礼を言うと流川はパソコンを開いて残っていた仕事を始めた。

私はそんな彼の隣でスマホを取り出して画面をタップした。

【今日は急に仕事になってごめんね。今度埋め合わせさせてね?】

【猫塚くん:気にしないで。仕事頑張ってね】

【ありがとう!】

普通だったら不機嫌になってもおかしくないはずなのに、猫塚くんはそれを感じさせない。

なんだか無理をさせている気がして申し訳なさでいっぱいになる。

今度の休みには必ず埋め合わせをしよう。猫塚くんを喜ばせたい。

そのためにもちゃんと仕事をしなくちゃ。

「よしっ!!仕事しよう!!」

私は気持ちを切り替えてノートパソコンを取り出した。



「大変申し訳ありませんでした。二度とこのようなことがないように致しますので、今後ともよろしくお願いいたします」

広川コーポレーションに着くと、私と流川は深々と頭を下げて謝った。

本社まで出向き社長に直々に謝罪したことが功を奏して今回の件は水に流してもらえることになった。

「ハァ~!ひとまずよかったね!!」

「あぁ。でも、次はないし気を引き締めないとな」

「うん。そうしよう」

「帰るか」

「だね」

流川の言葉に大きく頷く。それにしても……。

広川コーポレーションの本社は周りを木々に囲まれた山の中にあった。

どうしてこんな場所に本社を建てたのかは謎だけど、都会とは違い空気が新鮮だ。

夜空を見上げると、大きな月と満天の星が広がっている。

「なんかこんな風に夜空を見上げたのすごく久しぶりな気がするなぁ」

都会の喧騒からほんの少しだけ離れただけでなんだか心が落ち着くものだ。

辺りは街灯も少なく月明りだけ。

私の実家もこの場所のように山の中の自然豊かな場所にある。

結婚したら都会を離れてこういう場所に家を建てて暮らしたいという夢がある。

「すごい空気が澄んでる」

猫塚くんと一緒に来たかったなぁ。

この辺りは温泉地もあるらしい。美味しい物をたくさん食べて露天風呂に入ってお酒を飲んで一緒に眠って……。

そこまで思い浮かべて急に不安になった。

私、ちゃんとできるのかな……?

だけど、いつまでもずっと逃げているわけにはいかないだろう。

いつか覚悟を決めなければならない時が来る。


「お前、今日デートしてたんだろ?大丈夫だったのか?」

「うん。実は今日2か月記念日だったんだよね。本当は一緒に過ごしたかったんだけどしょうがない」

「そうだったのか」

流川がほんの一瞬だけ困ったような表情を浮かべたのを私は見逃さなかった。

「あぁ、気にしないで!これも全部私のミスのせいだしさ!」

「今回はお前だけのミスじゃない」

流川はそう言うと、時計に目をやった。

「まだ間に合う」

「え?」

「急げば一緒に過ごせるかもな」

そう言うと、流川はポケットからスマホを取り出してタクシーを手配した。

「2か月記念日、一緒に過ごしたいんだろ?」

「……うん!!」

流川の言葉に私は大きく頷いていた。

……流川はやはり完璧な男だった。

タクシーに乗り込むと時間を先回りして東京までの特急券をネット購入し、私たちは揃って特急列車に乗り込んだ。

「22時過ぎには着く」

「ていうか、なんでアンタってそうスマートなわけ?本当抜かりないよね?」

それに。どうしてこんな私の為にそこまでしてくれるんだろう。

流川がもしまだ私のことを好きでいてくれているとしたら、好きな人と彼氏が会うのを協力しているようなものだ。

どうしてそこまでしてくれるの?

「別に。でもお前、会いたかったんだろ?アイツに」

「それはそうだけど……」

「疲れただろ?今のうちに少し休め」

流川はそう言うと、目を閉じた。

ごめんね、流川。流川の気持ちに応えてあげることができなくて。

胸がズキズキと痛む。流川を傷付けたないと思っても、私にはどうすることもできないんだ――。

【22時過ぎに駅に着くんだけど、少し会えないかな?】

列車の中で猫塚くんにラインしてみたものの、既読がつかない。

結局、会社の最寄りの駅に着いてからも猫塚くんからの連絡はなかった。

「まだ連絡ないのか?」

「うん。もしかしたら、もう寝ちゃったのかな」

「まだ22時すぎだぞ?それはないだろ」

駅の改札口を抜けると、流川が言った。

「彼氏の家、どこか知ってるんだろ?家まで車で送って行ってやるよ」

「そんなのいいよ!!」

ブンブンっと顔の前で手を振ると、流川が私の背後に視線を向けていぶかしげな顔をした。

「あれ、お前の彼氏じゃねぇの?」

流川が指さした先に視線を向ける。

私達のすぐ目の前を大学生と思われる男女が通り過ぎていく。

それは間違いなく猫塚くんだった。

酔っぱらっているのかもしれない。うつむいて歩く猫塚くんの足はおぼつかなくて彼を支えるように小柄な女の子が彼の背中に腕を回して何やら親密そうに声をかけている。

「なんで……?」

手を伸ばせば届く距離なのに、猫塚くんは私に気が付かない。

「猫塚くん……」

胸をえぐられたみたいな痛みが走る。その子、誰?どうして一緒にいるの……?

心臓の音がドクンドクンッと不快な音を立てる。

そのとき、猫塚くんを支えていた女の子が私に気付いた。

ああ、この子。前に大学の近くで猫塚くんを待っていた女の子だ。

彼女は私と目が合うと、スッと視線ををそらした。。

「声かけないのか?」

流川が不思議そうに尋ねる。

「……ううん。いいの」

私は静かに答えた。

ほんの少しの距離だ。駆け寄って猫塚くんに声をかければいいって分かってる。

でも、一歩を踏み出すことができない。

猫塚くんと女の子との間に自分が割り込んでいく姿が想像できなかった。

二人はお似合いだ。私より彼女が彼の隣にいたほうがいいんじゃないか……。

そんな風に思ってしまう。

「やっぱりお前、俺にしろよ」

「へ?」

流川が私の手を掴んで歩き出す。

「ちょっ、流川!?急になに!?」

手を引っ張られて人気のない路地裏までくると、流川は私の背中を壁に押しつけた。

「大学生と付き合うのは大変だな?」

「べ、別に……!アンタには関係ない……!!」

「あるよ。俺もお前が好きだから」

流川の言葉に私はただうつむくことしかできない。

「やめてよ、流川。私は猫塚くんと付き合ってるんだよ……?こんなの困るよ」

「じゃあ、なんでアイツに声かけなかったんだよ」

「だって、友達と一緒にいたから……」

「お前、アイツの彼女なんだろ?だったら、声かけたって――」

「流川には分かんないよ!!」

そう叫ぶと、ポロポロと涙が零れた。

「私、27歳なんだもん。もうアラサーだし、いくら若く見せようとしても大学生には見えないし!!猫塚くんのこと支えてた女の子見た……?小さくて可愛くて……私とは正反対……」

「だから何だよ」

「猫塚くん……気付いちゃうかもしれない。私よりもずっと可愛い子が近くにいるんだもん。そっちの子の方がいいって思っちゃうかも」

自分でもなんで流川にこんな話をしているのかよく分からない。

ただ、感情が溢れ出して止まらない。

「仕事があるからなかなか思うように会えないし、二か月記念日なのに突然仕事になったり……。愛想つかされても仕方がない」

「……俺ならお前にそんな顔させないし、泣かせない。俺にしろよ、佐山」

流川の手のひらがそっと私の頬に触れた。

そして、親指で溢れる私の目の涙を拭ってくれる。

どうして私が辛い時、流川はいつもそばにいてくれるんだろう。

『玲菜、あなたはもう27歳なのよ。将来のこと色々考えていく年齢でしょ?お相手はちゃんとしてる人なの?付き合ってるなら結婚の話とか、そういう話はしっかりしないと』

『濁すってことは……。もしかしてお母さんに言えないような相手と付き合ってるの!?結婚と恋愛は別よ!!しっかり考えなさい!』

母の言葉が思い出されて私を苦しめる。

私は猫塚くんが好きだ。でも、それはダメなことなんだろうか。

私はどうして母に猫塚くんの話ができなかったんだろう。

……分かってる。言えば反対されると分かっていたからだ。

ごめんね。猫塚くん……。

あなたが大学生であるということに一番こだわっていたのは、他の誰でもなく……

この私だ。

「お前が好きだ」

至近距離で目が合う。

「嫌なら逃げろ。選ぶのはお前だ」

流川は私に選択肢を残している。

強引に私のことを奪い取ろうとなどしていない。そういうところが流川らしい。

徐々に流川の顔が近付いてくる。

流川とは将来が思い描ける。

結婚後も共働きを続けて子供を授かれば産休、育休を取得してその後職場復帰をする。

復帰後も流川に子育てを手伝ってもらいながら二人で子供を育てていく。

将来のことをきちんと考えている流川と一緒になれば未来は安泰だろう。

流川からのキスを受け入れれば、私には安泰の未来が待っている。

私は体に力を込めた。27歳。結婚。恋愛。出産。適齢期。様々な思いがグルグルと頭の中を回る。

だけど、私は――。

どうしたって私は猫塚くんが好きなんだ。

猫塚くんのことを手放したりなんてできない。彼以外、ありえない。

両手を流川の胸に当てて押し返そうとしたとき、

「ほらっ、あそこ!!見て!!」

女性の声がした。

流川もその声に気付いたのか、私から顔を離した。

声のする方には女の子がいた。猫塚くんの体を支えていた女の子だ。

そして、その隣にはあ然とした表情を浮かべている猫塚くんがいた。

「……佐山さん、何してんの?」

低く押し殺したその声に私は全てを見られていたことを悟った。

流川の胸に当てた手がだらんと下がる。

違う、と否定したかった。でも、それはできなかった。

「あのさ、佐山を責める権利あんの?お前こそ何してたんだよ」

流川の言葉に猫塚くんは顔を歪めると、そのまま私に背中を向けて駆け出した。

「こうちゃん、待って!!」

女の子が彼を追いかけていく。

私はただ呆然とその場に立ち尽くすことしかできない。

「佐山、悪い。こんなつもりじゃ――」

「違う。流川が悪いんじゃないから」

振り絞った自分の声はかすれている。

今さら後悔したって遅いのは分かっている。でも、ただただ後悔の涙が溢れてきた。

彼を傷付けてしまったという事実に私の胸は酷く痛む。

好きな人にあんな顔をさせてしまうなんて。

猫塚くん、ごめんなさい。

好きなのに。こんなに好きなのにどうしてうまくいかないんだろう……。

重たい体を引きずって玄関のドアを開ける。

散らかった部屋に入りソファにドスッと腰かける。

今の私は鏡で見なくても酷い顔をしているだろう。

鼻の奥がツンっと痛んで、目の奥がドロドロに溶けてしまいそうなほど熱い。

流川は『家まで送って行く』と行ってくれたけど、私はそれを断った。

「私……なにしてるんだろ……」

目をつぶってソファに背中を預けながら天を仰ぐ。

猫塚くんが駆け出した時、すぐに追いかけるべきだったのかもしれない。

いや、その前だ。猫塚くんが歩いているのを見た時に声をかけるべきだった。

そうすればこんなことにはなっていない。

「ハァ……」

部屋を見回す。

散らかった部屋を見て大きなため息をつく。

私は昔からこうだ。一つのことしかできない。二つも三つも同時並行で取り組むことが苦手だ。色々器用ではないのだ。

だからといってそれが猫塚くんを傷付けていい理由になんてならない。

今、私にできることは何……?

必死に考えを巡らせる。私は猫塚くんが好きだ。

猫塚くんがどう思っているかは分からないけど、このまま付き合い続けていきたい。

別れたくない。

だったら――。

【今日はごめんなさい。ちゃんと話がしたいです】

猫塚くんにラインを送る。

でも、翌日になっても猫塚くんのラインは既読にはならなかった。

しおり