ライバル登場
どれぐらい泣いたんだろう。
目を腫らして出社すると、私の異変に気付いた京子が驚いたように声をかけてきた。
「ちょっと、玲菜!!アンタ、ひどい顔してるけど大丈夫!?なんかあったの!?」
「実は昨日ね――」
就業前ということもあり手短に話すと京子が頭を抱えた。
「それはちょっとまずいね。流川とのこと誤解したかも?」
「誤解したと思う。私が逆でもあれは状況が悪いし……」
「これからどうするつもり?」
「もちろん誤解だって話すつもりだよ。でも猫塚くん相当怒ってるんだと思う」
「そうなの?」
「うん。昨日からラインの既読が付かないから」
「そっか……。まあでもちゃんと話せば分かってくれるんじゃない?あんまり落ち込まないようにね」
「うん。ありがとう」
私は京子にできるだけの笑みを浮かべて答えた。
「よしっ、今日も頑張れ!!」
そんな私を励ますように京子は私の背中を押してくれた。
なんだか今日は弱り目に祟り目だ。
任されていた仕事に度々不備が見つかった。今までこんなこと一度もなかったというのに一体どうしてしまったんだろう。
「佐山!!お前、一体どうしたんだ。入力ミスが多すぎる。具合でも悪いのか?」
「いえ……。すみません。すぐに修正します」
苛立つ上司に頭を下げて仕事に戻る。
一つ一つ間違えないように細心の注意を払いながら仕事を続けていると、ポンポンッと肩を叩かれた。
「佐山さーん?」
そこには近くのサンドウィッチ店の袋を持った進藤さんが立っていた。
いつの間にか昼休みになっていたというのに、仕事に集中していたせいで全く気が付かなかった。
「進藤さん……」
「なんかミスが続いちゃってるみたいだけど、大丈夫~?」
「えぇ。大丈夫」
そう言って開いていたノートパソコンをパタンっと閉じると、進藤さんがニヤリと笑った。
「そういえば、佐山さんにお客さんがきてるの」
「お客さん?」
バッグの中からお財布を掴んで立ち上がる。
「そう。大学生くらいの可愛らしい女の子。これ買いに行った時会社の周りをウロウロしてたから声をかけたの。そしたら、あなたに話があるって言ってたけど?」
紙袋を持ち上げながら微笑む進藤さん。
「私に大学生ぐらいの知り合いはいないけど……」
「予想だけど、あなたの彼氏の女友達じゃない?」
「あ……」
そのとき、昨日猫塚くんと一緒にいたあの小柄な可愛い女の子の姿が目に浮かんだ。
「その子、どこにいる?」
「入口の近くで待つように伝えたわ」
「そう。ありがとう」
そう言って歩き出そうとしたとき、進藤さんがくすっと笑ったのを私は見逃さなかった。
「どうして笑うの?」
「だって、面白いじゃない。大学生の彼氏と何があったのか知らないけどそんなに瞼腫らしちゃって。確かに彼はイケメンだったけど、そこまでの男じゃないでしょ」
「彼のことを悪く言うのはやめて」
「佐山さんって本当に男見る目ないよね?大学生じゃお金だって持ってないでしょ?あたし達ももう27よ?経済力のある男と付き合いたいって思わないわけ?」
「私が誰と付き合おうがあなたには関係ないでしょ?」
「まあね。でもまあ、佐山さんはあの程度のレベルの男しか付き合えないってことだもんね。可哀想。ホント同情しちゃうわ~!」
進藤さんはクスクスっと笑うと紙袋を胸に抱えて「あっ、小松さぁーん!一緒にお昼食べましょう~?」と猫なで声で男性社員の元へ駆けて行った。
その後ろ姿にため息をつくと、私は早足でエレベーターに向かった。
「何飲む?」
「あたし、キャラメルマキアートで」
「じゃあ、私も同じものをお願いします」
店員さんに注文してから彼女に目を向ける。
「それで、話っていうのは何かしら?」
進藤さんの言葉通り確かに入り口に小柄な女の子が立っていた。
それは紛れもなく昨日猫塚くんの体を支えながら介抱してあげていた女の子だった。
「話がある」という彼女を連れて、私は近くのカフェに足を踏み入れた。
キャラメルマキアートが2つ届いたところで、私は本題に入る。
「あたし、こうちゃんと同じ大学に通う一橋っていいます。今、お昼休憩ですよね?忙しそうなので端的に言います」
「うん」
「こうちゃんと別れて下さい」
彼女は敵意むき出しの目を私に向けた。
修羅場になりそうな展開に胃がキリキリと痛む。
ああ、やっぱりそういう話ね。
私は平静を保つために手元のキャラメルマキアートを一口飲んでから答えた。
「それはできない。それに、これは私と彼の問題だから」
「……っていうと思いました。でも、別れてください。あたし、高1の時からずっとこうちゃんが好きだった。必死に勉強して同じ大学に入って……いつかこうちゃんの特別になれるって信じてたのに。それなのに、あなたが現れて……」
一橋さんがグッと奥歯を噛みしめる。
「佐山さんって27歳ですよね?正直、どうしてあなたみたいなおばさんにあたしが負けるのか分からないんです。あなたが出会うより前からずっとあたしはこうちゃんと一緒にいた。こうちゃんのことだってあなたよりずっと知ってるのに!」
彼女の言葉が胸に突き刺さる。そうか。やっぱり21歳からすると27歳の私はおばさんか。
たかが6歳。されど6歳、か。
「そうね……。確かに私はまだ猫塚くんと付き合ったばっかりだし彼のことを全然知らないかもしれない。でもね、彼のことを少しづつでも知っていきたいって思ってる」
「佐山さんは本当にこうちゃんのこと好きなんですか!?本当はこうちゃんとは遊びなんじゃないですか!?」
「ま、まさか。それはないよ!」
「じゃあ、昨日の男の人、誰ですか!?どうして暗い路地裏でキスしようとしてたんですか?あなたが誘ったんじゃないんですか!?」
「あれは……」
昨日のことを思い出すと同時に、猫塚くんの苦し気な表情が脳裏に浮かんだ。
「確かに昨日のあれは良くなかった。だけど、私はあの時にいた男性とどうこうなろうなんて思ってないの。でも、すぐに突き放すことができなかったのは私の心の弱さね」
「こうちゃん、あれからずっと元気がないんです。あんなに弱ってるこうちゃんみるの初めてなんです」
「猫塚くんが……」
申し訳なさでいっぱいになっていると、一橋さんがこう付け加えた。
「それで、昨日……こうちゃんとしちゃったんです」
「え?」
しちゃった?一体、何を?
「こうちゃん、すごい酔っぱらってて。だから、私がこうちゃんを家まで送って行ったんです。そしたら、押し倒されて……」
言葉を濁しているけれど彼女が何を言いたいのか分かった。
「関係を結んだって……こと?」
「はい。ずっと片思いだったけど、体が結ばれた以上もう黙っていられなくて。だから、こうちゃんとは別れて欲しいんです。あなたにはたくさんの男性がいるんだし、こうちゃん一人手放すぐらいどうってことないですよね?」
心がざわつく。猫塚くんと一橋さんが関係を持った……?
口の中がカラカラに乾いていくのを感じて慌ててマキアートを口に含む。
ああ、どうして彼女に対抗するようにこんなに甘ったるい飲み物を頼んでしまったんだろう。
昨日の昼から何も食べていないのに、急にこんなドロドロの甘い飲み物を飲んでしまったせいでなんだか胃がムカムカしてくる。
目の前で挑発的な視線を私にぶつけてくる一橋さんの目をまっすぐ見つめる。
彼女も私に対抗するかのように目を反らそうとはしない。
本当に猫塚くんは酔った勢いで彼女を押し倒したんだろうか。
そんなことをしたんだろうか。
きっと勘のいい彼のことだ。彼女が自分に好意を寄せていることに気が付いていただろう。
そんな彼が彼女と関係を結ぶなんてありえるの……?でも、酔っぱらっていたとしたら……。
あれこれと頭の中で考えているとふいに目頭が熱くなった。
……ダメだ。なんか、すべてがうまくいかない。
ただ、分かっていることが一つある。
例え猫塚くんが彼女と関係を持ったとしても、私が彼を好きだという事実に変わりはない。
「一橋さんの言いたいことは分かりました。だけど、いくらお願いされても私は猫塚くんと別れることはできません」
「どうしてですか!?あなたには昨日の男性がいるじゃないですか!?あたしにこうちゃんのことください!!」
「それはできない。一橋さんも分かるでしょ?あなたに猫塚くんのかわりはいないように、私にも猫塚くんのかわりはいないの」
「っ……!!」
「ごめんなさい。そろそろ仕事に戻るわ」
時計を確認して伝票を掴んだ時、一橋さんが何かをバッグから取り出した。
「それ……猫塚くんのスマホ?」
「はい。あたしとこうちゃんって同じスマホ使ってて昨日間違って持って帰ってきちゃったみたいで」
「そうなの?」
猫塚くんに送ったラインがいつまで経っても既読にならない理由が分かって内心ほっとする。
「これ、こうちゃんに渡しておいてもらえます?」
「うん。分かった。私が返し――」
手を差し出すと、彼女はくすっと笑ってスマホを再び自分のバッグに押し込んだ。
「なんてね。あたし、これから家まで行ってこうちゃんに渡してくるから」
「え……?」
これから?猫塚くんの家に行くの……?
動揺が顔に出ていたのかもしれない。
「じゃあ、お先に」
彼女はふふっと笑うとそのまま私をその場に残して去っていく。
私は彼女の後姿を見つめながら「……ハァ」と盛大な溜息をついた。
午後の業務に戻ってからも悶々とした気持ちが抑えられず仕事に集中できない。
今頃一橋さんは猫塚くんのマンションにいるんだろうか。
二人っきりで一体何をしているの……?
頭の中が猫塚くんで一杯になってしまう。
私は雑念を取り払うためにブンブンっと頭を振った。
15時になり、休憩をとる。
ずっとパソコンと睨めっこしていたせいか体中がひどく凝っていた。
大きく伸びをして首をグルりと回した時、近くにいた進藤さんと目が合った。
彼女はにこりと笑うとツカツカと私の前に歩み寄った。
「佐山さん、やっぱり彼女と修羅場なったのぉ~?」
普段の声量の倍以上の声でそう言い放つ彼女からにじみ出る悪意を感じる。
案の定、フロア内にいる人たちの視線を嫌でも集めてしまう。
「ちょっと、やめてよ」
「それにしても、まさか佐山さんが大学生と付き合うなんてねぇ~!ホント意外だなぁ~!」
「お願い、やめて」
普段だったら何気ない彼女の意地悪なんて軽く聞き流すことができる。
だけど、正直今は軽く流すことができないぐらいの精神状態だった。
猫塚くんと一橋さんが関係を持ったかもしれないと考えると、吐き気すら催しそうになる。
今すぐ会社を飛び出して猫塚くんの家に行きたくなる。
年甲斐もなく弱音を吐いて、大声をあげて泣いてしまいたい。でも、社内でそんな風に泣くわけにはいかない。
私は大人だ。簡単に泣くことなんて許されない。
グッと奥歯を噛みしめる。
「将来性もない男と付き合うなんてあたしには絶対に無理だけどなぁ~!彼、絶対佐山さんのヒモになるよぉ~?」
もうやめてよ。どうして私のことばっかりそうやって苦しめようとするのよ。
ズキンズキンっと頭痛までしてきた。
痛むこめかみを指で押さえていると、突然手首を掴まれた。
「佐山さん、具合が悪そうですね。一緒に医務室に行きましょう!」
「え……?」
そう言うと、篠原さんが私の手首を引っ張った。
そのおかげで私は居心地の悪いフロアから抜け出すことができた。
「大丈夫ですか?」
「ごめんね。みっともないところを見せて」
篠原さんは私の手を引き医務室ではなく休憩所へ連れてきた。
そして、温かい紅茶を私に差し出した。
「ありがとう。ホント助かったよ」
「いえ。あたし、いつも佐山さんに助けてもらってるので少しでもお役に立てたら嬉しいです」
篠原さんはにっこりと笑うと、私の隣に腰かけた。
「やっぱり私に大学生の彼氏がいるとか、変かな?」
「え……?」
「私ね、進藤さんの言う通り大学生の彼がいるの。年の差は6歳」
「そうなんですね!」
「でもなかなかうまくいかなくて……。全部、私のせいなんだけどね。私の方が彼より年上なのになんでうまく付き合っていけないんだろう……」
ハァと盛大な溜息をついたからハッとする。
こんな話後輩の篠原さんにしてどうするの!?そんな話をされたって返答に困るに違いない。
「ごめん!今のなし!!聞かなかったことにして?」
そう頼むと、篠原さんはやわらかい笑みを浮かべた。
「佐山さん、そういうところですよ」
「え?」
「いいんですよ。たまには弱音ぐらい吐いてください」
「篠原さん……」
彼女の意外な言葉が私の心にストンっと落ちてくる。
「佐山さんは私の憧れなんです。男性に負けないぐらいバリバリに仕事ができて、それでいてそれをひけらかすわけじゃない。誰よりも一生懸命で、努力家。しかも、強くて優しい頼れる上司。完璧です」
篠原さんは椅子に座り直すと、私を見つめた。
「でも、完璧すぎて時々心配になるんです。無理してるんだろうなって。だから、あたし今佐山さんが彼氏の話をしてくれて嬉しかったんです」
「嬉しい……?」
「はい。佐山さんが本音をさらけ出してくれたことが嬉しかったんです。あたしのことを頼ってくれてるんだなぁって」
「そ、そんな!私、篠原さんのこと頼りにしてるよ?仕事だってしっかりこなしてくれるし。それに――」
「え。そうなんですか?あたし、いつも佐山さんの足引っ張ってばっかりだったから」
「まさか!!篠原さんの仕事は誰よりも丁寧だし、私はいつだって頼りにしてたよ?」
必死になって説明すると、篠原さんがクスクスと笑った。
「よかった……。でも、言葉にしないと伝わらない想いもあるんです。彼もあたしと同じ気持ちかもしれませんよ?」
「篠原さんと同じ気持ち……?」
「たまには彼氏に佐山さんの本心を思いっきりぶつけてもいいんじゃないですか?彼もそれを望んでいると思います」
言われてみれば猫塚くんと付き合ってから私は彼に嫌われないようにと本心をぐっと堪えていた。
言いたいことを飲み込んで、踏み込んだことをして嫌われないように彼との間に一線を引いていたんだ。
猫塚くんも……それに気付いていた……?
唇が震える。目頭が熱くなってグッと奥歯を噛みしめた時、篠原さんが私の背中を摩った。
「泣きたいときは泣いたっていいんですよ、佐山さん」
私よりもずっと年下の彼女に励まされているなんて信じられない。
だけど、私と彼女の間に年の差なんてなかった。
彼女はただ私のことを思い、私も彼女を頼った。
猫塚くんとの関係だってそうだ。
それでよかったんだ。どうしてそれに気が付かなかったんだろう。
「……っ………!!」
一度流れた涙は次から次に溢れる。まるで決壊したダムのようだ。
「ありがとう、篠原さん……」
喉の奥がキュッと詰まる。必死になって彼女にお礼を言うと、
「困ったときはお互い様、ですよね?」
篠原さんはそう言って明るい笑顔を私に向けた。