意外な展開
「あぁ~!終わったぁ~!」
仕事が終わり大きく伸びをしながら時計を見上げると、針は22時を指そうとしていた。
「おー、今日は意外と早いぞ……」
この時間、猫塚くんいるかなぁ。ちょっと早すぎかなぁ。
バッグに荷物を詰めながら立ち上がった時、「終わったのか?」と誰もいないと思っていたフロアの奥から声がした。
「え!流川。何してんの?」
「何って仕事だ」
仕事に集中しすぎていたせいで流川の存在に全く気付かなかった。
バッグを肩にかけて彼のデスクへと歩み寄る。
「流川が残業とか珍しくない?トラブルでもあったの?まだ終わらないなら私何か手伝おうか?」
そう言ってはみたものの、流川のデスクのパソコンは閉じられていて仕事をしていた形跡が一切ない。
「仕事、終わったのか?」
流川が尋ねた。
「あっ、うん。今から帰るところ」
「そうか。遅いし家まで送ってやるよ」
「え!?なんで急に?なんか企んでる!?」
「は?企んでねぇよ」
流川はムッとしたように私を睨む。
「いやいや、いいよ。流川の家って確かうちと反対方向だし」
「車だしお前を家に送っていってもそんな変わんねぇよ。つーか、腹減っただろ。途中で飯食うか?」
「飯……」
確かにお腹は空いたし何か食べたい気もするけど……。
だけど……――。
「ごめん。私、コンビニで買うから。猫塚くんの顔ちょっとでも見たいし」
「なんだよ、それ」
断られたことが癪に障ったのか露骨に不機嫌な様子になった流川。
「だから、大丈夫。せっかく誘ってくれたのにごめんね。でも、今度流川の時間があるときお昼でも一緒に食べようよ」
「二人でか?」
「ううん、京子も一緒に3人で。同期だしたまにはいいでしょ?2人きりで流川とランチなんて食べたら女子社員に敵視されちゃうもん」
「ふーん」
「じゃあ、私行くね?お疲れ様でした!」
ニコッと笑って流川に背中を向けた瞬間、手首をギュッと掴まれた。
「足、痛いんだろ。送ってくから黙って乗ってけ」
「……本当にいいの?」
「いいから言ってんだろ。たまには誰かに甘えろよ」
「ありがとう……」
流川の言葉に素直に従うと、私たちは揃ってフロアを後にした。
会社の近くの駐車場に止めてあったピカピカに磨き上げられた黒い乗用車の助手席に乗り込んでシートベルトを締める。
芳香剤の匂いだろうか。甘い匂いになんだかドキドキする。
流川はスマートな動きで車を発進させた。
「流川、いい車に乗ってるんだね。お金持ちだわ」
「別に普通だろ。つーか、俺とお前じゃもらってる給料ほとんど変わんねぇだろ?」
「いやいや、流川の方がもらってるって。ていうかさ、風の噂で流川が株とか投資で儲けてマンションまで買ったって聞いたんだけどそれって本当?」
「どっから漏れるんだろうな。そういう話」
フンっと呆れたように笑う流川。
「で、嘘なの?本当なの?」
「それは本当」
「すごっ!!そういうの資産運用っていうんだっけ?将来のことちゃんと考えてるんだねぇ。私もこないだクライアントの美人さんにセミナーに参加しないかって誘われたんだよね。流川も参加したりしてんの?」
「してる」
やっぱり意識高い系男子だったか!!
「すごい!流川の家って一等地だよね?あんなところにマンション買っちゃうとかやっぱり私よりよっぽどお金持ちじゃん。私なんて築10年の3階建てアパートの1LDKがやっとだよ?」
「部屋なんて住めればなんだっていいだろ」
「じゃあ、なんでマンション買ったの?」
不思議になって尋ねると、流川は真剣そうな表情を浮かべた。
「マンションを買えばいい縁が舞い込んでくるって占い師に言われたから」
「……はい?」
流川の言葉に耳を疑う。でも、どうやら本人はいたって真面目な様子だ。
「ちょっと待って。流川って占いとか信じるタイプ?てか、そもそも占ってもらっちゃったわけ?」
「妹にどうしても一緒に来てほしいって頼まれたんだよ。で、そのついでに流れでよくわかんねぇけど俺も占ってもらうことになって。でも過去のこととか全部すげぇ当たっててさ。だから、買っただけ」
「なっ!アンタ、マンションをそんな簡単に買うとかありえないからね!結婚したらとかそういう将来設計を立ててからのほうがよかったんじゃないの?」
「もし結婚して手狭になったらマンション売って引っ越せばいいだけだろ。今のマンションバルコニー狭いし、子供が生まれたら庭つきの一軒家のほうが育てやすそうだし。それに、立地は完璧だし駅前の再開発が進んでて来年には近くに認定こども園もできるし今後価値が下がることはない。売ろうと思えばすぐに売れる」
「で、ですよねぇ。流川が何の考えもなしにマンションなんて買うとは思わなかったけどさすがです……」
抜けがない男、流川。私は心の中で苦笑した。
「流川って意外と将来のこととか考えてるんだね。そういうのに興味のない人かと思ってたよ」
「失礼な奴だな。もう27だし考えるに決まってんだろ。将来は結婚して子供だって欲しいし。佐山は考えてないわけ?」
「私は……考えてないこともないけど、きっと一生独身のままだと思う。子供だってこのままじゃ望めないし……」
信号待ちになりゆっくりと車が減速し、停止線のうしろで止まった。
「なんで?」
流川が前を向いたまま問いかける。
「うーん……なんていうかなぁ。恋愛に対して自信が持てないというかなんというか……」
口が裂けても言えない。性行為の最後の一線が越えられないだなんて。
きっと正直に言ったら流川にバカにされるに決まってる。
「ふぅん」
信号が青に変わる。車はゆっくりと動き出す。
「って多分モテモテの流川には分かんないと思うけどね!!」
なんだか微妙な雰囲気になってしまった車内で私はわざと明るい口調で言った。
流川はほんのわずかな間のあと、こういった。
「恋愛に自信ある奴なんて稀だろ」
「流川は自信あるんでしょ?」
「ない。気持ちのない女は寄ってきても、好きな女は自分のことどうでもいいみたいな感じだし」
「……えっ!?流川、好きな人いんの!?」
「いる」
「えっ!?誰?私が知ってる人だったりする!?」
唐突なカミングアウトに衝撃を受け、思わず身を乗り出す。
「さあ?言わねぇーよ」
「なんでー!言ってくれたら協力してあげんのに!!ていうか、流川が好きになる相手ってどんな人?どういうタイプ?」
「仕事はできるのにバカで鈍感で不器用で変な女」
「え。なにそれ。私、アンタの好きな子のこと聞いてるんだけど?ちゃんと答えてよ!!」
「もう言わない」
流川はくすっと笑った後、本当に黙り込んでしまった。
くっそー!!流川の好きな子のことを聞ける絶好の機会だったのに。
まあアイツの好きな子のことを聞いても私がどうこうなるわけではないけど、同期のよしみでちょっとは協力してあげようと思ったのに。
って、それは建前で本当は完璧な流川の弱点を知りたかっただけなんだけど。
「コンビニってどこ?」
「えっと、次の信号機を右に曲がったところ」
「了解」
おしゃべりをしている間にコンビニは目と鼻の先に迫っていた。
「もうすぐ猫塚くんに会える……」
私はドキドキとした気持ちを抑えられず思わずポツリと呟いた。
「送ってくれてありがとう。それと、今日は流川がいてホント助かったよ!」
お礼を言ってから車を降りるとつられるように流川も降りた。
「コンビニ、寄るの?」
「俺もここで飯買ってから帰る」
「あっ、そう。じゃあ、たくさん買ってこのコンビニに貢献してあげてね。ここが潰れたら困っちゃうし」
それに、猫塚くんのあのキラキラスマイルを見て欲しい。
男の流川だってきっと彼の笑顔に癒されるに違いない。
「は?やだね」
流川はそう言うと、スタスタと私の前を歩いてコンビニへ歩を進めた。
「あぁ!!ちょっと待ってよ!!私が先頭じゃないと笑顔が見えな――」
「いらっしゃいませ」
自動ドアが開くと、猫塚くんの声がした。でも、彼の笑顔が流川の背中によって遮られてしまった。
「ちょっ、流川!!アンタ邪魔しないでよ!!」
流川の背中をバンバンっと叩く。くっそー!!この『いらっしゃい』の為に今日一日頑張ってきたというのに全部台無しだ!!
クッソクッソクッソ!!
「猫塚く――」
ヒールを踏み鳴らして流川の横を通り抜けた時、猫塚くんと目が合った。
彼に笑顔を向けて名前を呼ぼうとした時、違和感を覚えた。
猫塚くんはいつものような笑顔を浮かべてはいなかった。
私と流川を交互に見つめて複雑そうな表情を浮かべている。
「ドアの前で突っ立ってんなよ。他の客の迷惑になるだろーが」
「後ろにお客さんいないもん!!」
流川はカゴを手に取りその場で固まっている私を残して店の奥へと進んでいく。
猫塚くんはどうしてそんなに悲しそうな顔をしているんだろう。
スッと私から目を反らして俯く猫塚くんの元へ一直線に歩み寄る。
「ね、猫塚くん!!今日もお疲れ様!!」
カウンターで声をかけると、猫塚くんは浮かない表情のまま私を見つめた。
「こんばんは、佐山さん。お仕事お疲れ様です」
「うん!今日は偶然会えて嬉しかったよ~!」
「え……」
なぜか猫塚くんの目にパッと灯がともった気がするのは気のせい?
「お店の外だとなんか雰囲気違くてドキッとしちゃったよ」
「――俺も」
彼の喉仏が上下する。
「うん?」
「俺も外で佐山さんと会えてすごい嬉しかったです!」
カウンターを飛び越えてこちらまでやってきそうなほど食い気味に言われて面食らう。
ああ、やっぱり猫塚くんは可愛い~!思ったことをすぐに口にできるその真っすぐさが彼の強みだろう。
「でも、今日は一人じゃないんですね?」
「流川?そうそう。ここまで車で送ってくれたの」
「いつも、送ってもらってるんですか?」
「まさか!今日が初めて。急に送るなんてどういう魂胆なんだろうねー」
って、あれ。そもそもどうして流川が私を車で送っていってくれることになったんだっけ。
社内に残って残業していたら、何故か流川もいて同じタイミングで仕事が終わりついでだから車で送っていってくれた……?
えっ。そんな偶然ある?今さらながら不思議に思っているとグッと手首を掴まれた。
「おい。何くっちゃべってんだよ。会計するからどけ」
「ちょっ、なに?」
振り返ると眉間にしわを寄せた流川が立っていた。
「接客の邪魔すんなって言ってんだよ」
仕方なく猫塚くんの前を譲ると、流川が会計を始めた。
一人暮らしって言っていた割にはずいぶんたくさん買うんだな。
そんな風に思っていたとき、何故か突然目の前がぐらりと揺れた。
「え」
立っているのがしんどくなってきてグッと両足に力を込める。
「……佐山さん?」
猫塚くんが私の名前を呼んだ気がする。
視界が真っ白になり思わず両目をギュッとつぶると、ふわりと誰かに肩を抱かれた。
「佐山!!おい、しっかりしろ!」
「佐山さん――!!」
薄れゆく意識の中で猫塚くんと流川の声がぼわんぼわんと脳の中で反響していた。
「うーん……?」
薄っすらと目を開けると朝日が顔を照らした。もぞもぞとベッドから起き上がって大きく背伸びをする。
「あれ。私お風呂入らないんで寝ちゃったんだ……。あー、メイクもしっぱなしじゃん」
どんなに疲れていてもきちんとパジャマに着替えてから寝るように心がけていたのに。
ふがいない自分に心の中でため息をついて、ベッドから足を下ろした時、
「……――!!!」
私は声にならない叫び声をあげた。ベッドの下にはあぐらをかいて眠るスーツ姿の男がいた。
どうしてうちに男が……!?
見覚えのあるウエーブの黒髪。
「って、ちょっ、流川じゃない!?」
流川がどうしてうちに!?でも、洋服は着てる。セーフ!ヤッてない!!
でもまあ、私は最後までできないし!!
でも、なんで流川が!?
頭の中の記憶を必死になって引っ張り出す。
そうだ。昨日、コンビニにいる間突然眩暈に襲われて目の前が歪んで立っていられなくなってしまったんだ。
猫塚くんと流川に名前を呼ばれていた覚えはあるけど、そのあとの記憶が一切ない。
「ねぇ、流川――」
流川に伸ばしかけた手を止める。
もしかして……流川がうちに私を連れてきてベッドまで運んで布団までかけてくれたの……?
うそ。流川ってそんなにいい奴だったっけ?
首を傾げながら流川を起こさないようにそろりそろりとベッドを抜け出して流川の前に腰を下ろして顔を覗き込む。
相当ぐっすり眠っているようだ。
「ふぅん。寝るときは眼鏡してないんだ」
眼鏡姿しか見たことがなかったせいかなんだかちょっと新鮮だ。
無防備な寝顔はいつもの流川とはまるで別人みたい。
「口を開かなければいい男なのにもったいないなぁ」
流川の目にかかる髪の毛を指先でどかそうとした瞬間、パシッと手首を掴まれた。
「一言余計だ」
「る、流川!?アンタ起きてたの!?」
「今起きた」
驚く私とは対照的に流川は涼しい顔をして大きく背伸びをした。
「あのさ、昨日私……」
「コンビニの中で立ったまま寝る奴とか見たことも聞いたこともねぇよ」
「へ?」
「だから、寝てたんだよ。立ったまま大口開けていびきかいてな」
ま、まさか。嘘でしょ……?そんなマヌケな人間いる?
「た、……確かに最近寝不足だったし疲れもたまってたと思うよ。でもさすがの私でもコンビニで立ったまま寝るとかありえなくない?」
「そのありえないことが起こったから、今俺がお前の部屋にいるんだろーが」
呆れっぱなしの流川に返す言葉が見つからない。
「てことは、やっぱり流川が私のことを?」
「他に誰がいるんだよ。お前の財布見て住所調べて家の鍵開けて入ったら部屋の中メチャクチャだしなんか食わせようと思っても冷蔵庫の中空っぽだしお前一体どうやって暮らしてんだよ。まともな生活してないから昨日みたいにふらふらになって倒れるんだろうが」
「ごもっともです……」
ド正論すぎて頭が上がらない。
「もっとまともな物食べて休めるときはちゃんと休めよ」
「ごめんなさい……」
仕事は好きだ。でも、こうやって誰かに迷惑をかけてまで仕事に打ち込むのはよくない。
「流川に色々迷惑かけちゃったね……。今度何かお礼させて?」
「ずいぶんしおらしいんだな?」
「今回ばかりは全部私が悪いから。流川がうちまで送ってきてくれなかったらどこかでひっくり返ってたかもしれないし本当に助かりました」
「別に」
流川はそっけなく言うと、眼鏡をかけて立ちあがりスーツの上着を羽織った。
「帰るの?」
「あぁ」
「あっ、朝ご飯でも食べて行く?なんか作ろうか?」
って言ってから気付く。うちには何もないんだった。
「いい。とにかく今日は一日寝てろ」
支度を終えた流川を玄関先まで見送る。
「じゃあな」
「うん……。気を付けて帰ってね。ありがとう」
流川は黙って小さく頷くと部屋を後にした。
このアパートに越してきてから部屋に男を入れたのは初めてのことだった。
もちろん、私と流川に何かが起こるわけもなく流川もそんな気はさらさらなさそうだったけど、やっぱりちょっと緊張してしまった。
鍵を閉めてから大きく伸びをしてキッチンへ向かい冷蔵庫を開ける。
毎朝キンキンに冷えたミネラルウォーターを飲むのが日課だった。
それを言うと京子に『キンキンに冷えてんのはヤバいって!腹を冷やすな!!白湯にしろ、白湯に!!』と怒られてしまうんだけど。
「え」
冷蔵庫の扉を開けて固まる。昨日までミネラルウォーターしか入っていなかったはずの冷蔵庫の中にはスポーツ飲料やゼリーや栄養ドリンクや野菜ジュースなど複数の飲み物が綺麗に並んでいる。
「まさか……流川が……?」
テーブルの上のコンビニの白いビニール袋の中にはすぐに食べられるパンやおにぎりが入っている。
昨日、流川が買い物したカゴの中身を見て不思議に思っていた。
一人暮らしだったはずなのにどうしてそんなにたくさんの食べ物を買うのか。
もしかして最初から私に……?
「やだ。アイツ、どんだけデキる男なのよ!」
流川がモテるのにはこういう理由があったのか。将来設計もしっかりしているし、気は利くし口は悪いけど実は優しい。
流川はいい男だ。
「良い奴なんだけど、恋愛対象にはならないんだよなぁ……」
ブツブツと呟きながらキッチンへ向かってインスタントコーヒーを淹れてテーブルに運ぶ。
フローリングの床に座って流川が買ってくれたパンを袋から取り出して頬張ると体中にエネルギーがみなぎってきた。
と同時に無性に寂しくなる。
今日は土曜日。仕事は休みだ。でも、気軽に声をかけて遊びに誘える友人もいない。
もちろん彼氏だっていない。
京子に電話をかけようかと考えて思い直す。休みの日だし、京子は彼氏と一緒にいるだろう。
仕事を頑張りすぎたつけが回ってきたのかもしれない。
何事も器用にできる人間が羨ましい。
私はたくさんのことを一度に処理できる能力を持っていない。
パンとおにぎりを間食し、冷蔵庫の中の栄養ドリンクも飲み干した。
今日は何をしようか。まずはシャワーを浴びよう。それから美容院の予約を入れる。今月は奮発してマツエクをつけよう。
家で一人ジッとしていると悲しくなる。だから、出かけよう。
明日の日曜日は家に引きこもって撮りためている連ドラを見る。
私は立ち上がるとゴチャゴチャと床に転がる洋服やらバッグやらを飛び越えてバスルームに向かった。