第八十八話
「自販機で水を買ってくる」
自販機へ向かおうとした瞬間、腰に腕が回された。
「行かないで」
「牧野、ただ水を買うだけ——」
「辞めるんでしょ?」
喉から声が出なかった。
どうしてそれを知っているんだ。
「……どうしてって思ってる? はっ、女を舐めないでよねぇー。あの時のあんたの顔見たら分かるわよぉ」
牧野は酔っている。
酔っ払いの言葉なんて真に受けるもんじゃない。
だがそれは内容による。
「……そうだ。そのつもりだった」
「だった?」
「正直今は分からない」
牧野の腕を解き、俺も隣に座った。
(もしかして、社長も無意識のうちに俺が辞めることを肌で感じ取ったんじゃないか?)
わざわざ打ち上げで言うような話でもない。
俺を引き留めるために役員の椅子を用意したと考えると、今日話をしてくれたことにも納得できる。
(でも俺の役目は終わったんだ)
役者だって自分の役が終われば舞台から降りる。
俺だってそうしたい。
——でも見せる夢は一つじゃないでしょう? 夢にも色々な姿や形がある。ルークはその中から、今自分が見せてあげられる夢を、皆に与えてるんだと思うの。
あの時、和歌はそう言っていた。
(「今自分が見せてあげられる夢」か……。俺はどんな夢を見せたいんだ)
自分が分からない。
だがそろそろ決断すべきだ。
オーリーズか、英語教室か。
黙り込んでいると、牧野がぽつりぽつりと話し始めた。
「あんたが来くるまで、あたしも辞めようかと思ってたんだよねぇ。給料は安いし、残業代は貰えないしさぁ。
……でも、あんたが来てから仕事に来るのが楽しくなっちゃって」
「俺が煩わしいんじゃないのか? 年上にも遠慮なく物申しているし」
「はぁ? なんでそう思うのよぉ。あんたみたいなイイ男、探したって見つかるもんじゃないわよ。自分のこと分かってるー?」
「分かってないかもな」
牧野はアハハ、と笑った。
「辞めないでよ。あんたに会うのがあたしの楽しみなんだからさぁ」
気がつけば、俺の足に彼女の足が絡みついていた。
ワンピースが捲り上がり、白い肌が外灯でぼんやり光っている。
牧野は妖しく囁いた。
「あたしが本番中、何を考えているか知ってる?」