ミルクティ
『やってしまった』
私は一人、会社と駅の間にあるベンチで、ハンドタオルをおしぼりみたいに目に置いて天を仰いでいた。
『社会人がぶっ殺すぞ!はないわ~』
しかも、怒って泣いて帰っちゃうだなんて、学生時代ですらしたことなかったのに。嗚呼。つくづくやってしまった。溜まってたんだなぁ、自分。
こんなことになるなら、早めに労組にでもパワハラ相談しておけばよかった。けど、絶対私からの通報だってバレるし。三人しかいない課なんだから。
というか、そういう課が多いということは、そういう設計なんじゃないかとすら思えてくる。
はぁ。ため息しか出ない。
会社、辞めちゃおうかなぁ。もう無理でしょ。どんな顔して行けば良いのかわからないよ。
でも、正直なところ、少しは胸のつかえが取れた気もした。
ハンドタオルの隙間から夕焼けが目にしみた。早退といってもあと数十分後には定時だった。さっさと帰ろう。早くしないと、会社の人達に会ってしまうかもしれない。
カズナリ君には申し訳ないけど、今日はキャンセルさせてもらおう。どっちにしろ、こんなひどい顔じゃ会えない。
そう思ってスマホを取り出そうと目からタオルを取ると、いつの間にか隣に男の人が座っていた。
少し驚いたが、別にベンチは私のものじゃない。公共のものなので、誰がいつ座ろうとも勝手だ。
しかし、思わず目を奪われたのは、その男性がとてもきれいな顔をしていたからだ。
横顔しか見えないが、鼻は程よく高く、目は大きくて、まつ毛が長い。白い肌はきめ細かく、夕日でオレンジ色に染まっている。
どこか幻想的な感じさえ覚えて、軽くイケメンと表すよりもハンサムという感じだ。
その男性は缶のミルクティを片手に夕日を眺めていた。その大きな手には、どこか見覚えがあった。
あまりにまじまじと見ていたからだろうか、目が合う。その茶色い瞳がやさしげに細まって、少し垂れた。
「だいじょうぶ?」
「えっ、あっ、だいじょうぶ、です・・・?」
私は慌てて返事をしながらも、その声にも聞き覚えがあった。
「よかった、はい」
大きな体を動かして、ミルクティを渡してくる。封はまだ開いていない。私は受け取りながらも、その姿から目を離せなかった。
「も、もしかして」驚きのあまり血の気が引いていくのを感じながら「カズナリ君・・・?」と聞いた。
「え?うん」
あっさり肯定される。けれど、隣のきれいな顔をした男が、あのヒゲモジャメガネのカズナリ君とはどうしても重ならない。
ついでに言えば、スウェットじゃなくて、黒いパンツに白いワイシャツを着ていた。シャツは長袖をまくりあげていて、思いの外たくましい。メガネはしていなくて、薄茶色の瞳がまっすぐにこちらを見ている。
「えっ?」
脳の中で認証エラーが起こり、私は思わず怪訝な声を出してしまった。自分でもわかるくらい、眉間にシワが寄っている。目がおかしくなった可能性を無意識に疑った。
しかし、目の前の男は、紛れもなくカズナリ君だった。
やわらかく微笑んで「なにがあったの?よかったら話して」と言った。
私はまだ目尻に残っていた涙を拭いた。
「だ、大丈夫。ちょっと仕事でトラブっただけだから」
「そっか。気が向いたら、話して」
カズナリ君は深追いせずに、また微笑む。ミルクティの手から伝わる温度は、熱くもなく冷たくもなかった。夏で泣いていたからか、ちょうど良い温かさに感じる。
いつから隣にいたんだろう?話しかけてくれれば良かったのに。
待っている時間は、ヒマじゃなかった?ただ隣にいて、私が落ち着くのを待っててくれたの?
その丁度良いやさしさに、私はちがう涙が出そうになって、下を向いて缶を開けようとした。けど、ぼやけた視界でなかなか開かなかった。
「貸して」
カズナリ君が横から手を出して、中指をクイッと動かすと、あっけないほどに缶は開いた。
私の膝上で、私の手を包み込むようにしたけれど、私の手には触れないようにした繊細な動きだった。カズナリ君には他意のない、一瞬のことだった。ただ空気だけがふんわり残った。
缶のミルクティは久しぶりに飲む味で、とてもとても甘かった。