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 車を見にくるお客さまは、キャンペーン中か週末が多い。それでも平日にいらっしゃるお客さまも、もちろんいるわけで、営業は交代で常時フロアに出ている。

 そこで少しでも見込みのあるお客さまに当たったらラッキーだ。今日の午後の店頭待機組には山田くんも入っていて、それに合わせて斎藤さまがいらっしゃる予定だと聞いている。

 私は午後に新しいキャンペーンのフライヤーを得意先に持っていく段取りだ。主に車関係の店で、こういう地道な顔出しがお客さまの新規獲得にも繋がる。

 時計の針が十二時を過ぎた。午前中は注文書などの書類を揃える事務仕事に追われて、すっかり凝り固まった肩と目をほぐす。

 部長の話によれば昔に比べると営業の外回りは減った分、こうした事務作業が増えたらしい。

 車の販売だけではなく、今や保険やローンを組むところまで、店頭でできるようになっているのだからしょうがない。

 現金一括で払ってもらうよりも、自社の設定する金融ローンを利用してもらえる方がいいなんてなんとも複雑だったりするけれど。

 新しい法律、新しいシステム、用意しなくてはならない書類は山ほどある。とりあえず、外に出る前に総務部に書類を回しておこう。これで本田にも小言を言われなくてすむだろうし。

「御手洗」

 総務部に寄った後で、社員用の通用口から外に出ようとしたら名前を呼ばれ、私は振り返った。

「なに?」

 声をかけてきたのは私と同期の坂下(さかした)智則(とものり)だ。お客様の前では、いつも笑顔で丁寧なのに、実際は言葉遣いもわりと乱暴で、短気なところがあるのを知っている。

 細身で目つきはやや悪いが、短めの黒髪をいつも立てて、それなりに整っている顔をしていると思う。しかし、山田くんの前ではそれも霞んでしまうわけだが。

「お前んとこのも午後待機組?」

「そうだけど」

 お前んとこの、というのは私が直接指導に当たっている山田くんを指すのだと、いちいち訊き返さなくても分かった。すると坂下は、あからさまに面白くなさそうな顔をしてから頭をわざとらしく、くしゃりと掻いた。

「この前、俺が営業かけた客、いつの間にかあいつに取られちゃったからな。あれでノルマ達成できそうだったのに」

「ああ、聞いてる。でもあれはタイミングの問題じゃない?」

「分かってるって。けど、あんな直前で持っていかれたら小言のひとつでも言いたくなるだろ」

「私に?」

「本人に直接、言わないだけよしとしろ」

 それは坂下の優しさというより、プライドの問題だろう。しかし、もしも山田くんが坂下の同期なら火花を一方的に散らされているに違いない。

 設けられた売り上げ目標を達成しようと一致団結……とは、なかなかいかないのが難しいところだ。とくに営業は、それぞれ個人のノルマをクリアするために必死だし。

 とはいえ、入社二年目の後輩からお客さまを取ろうと思うほど余裕がないわけでもない。 

「で、気が済んだ?」

 冷たく言い放つと、坂下は眉を寄せてからばつが悪そうな顔になった。次に、どういうわけかさらに一歩踏み込んできて距離を詰めてくる。

 パーソナルスペースを侵されて、不快感が湧いたが、あえてそれを指摘はしなかった。そして、まるで内緒話でもするかのごとく少しだけ背を屈めて、坂下は口を開いた。

「こっからが本題。山田って彼女いるの?」

 思わぬ問いかけに私は目を白黒させ、改めて坂下の顔を見る。世間話のようなノリはなく、真面目な顔に私は頬を引きつらせた。

「……なに、あんたそっちの趣味でもあるわけ?」

「なんでそうなるんだよ。俺じゃないって。 西野(にしの)さんが山田のことを気にしているみたいだから、その」

 嫌悪感を顔いっぱいに広げた後の坂下はなにやら歯切れ悪い。西野さんというのは山田くんの同期で受付を担当している西野 恵麻(えま)のことだ。

 顔立ちや、纏う雰囲気も華のあり上品な感じで、育ちの良さがよく表れている。男性社員からの人気もそこそこ高く、坂下と何度か談笑を交わしているのを見た覚えがある。

 そこで私は、ようやく彼の言わんとしたことが掴めた。

「純粋に彼女のため、ってわけじゃなさそうだね」

 その指摘は効いたらしい。途端に坂下は苦虫を噛み潰したような顔になった。

「せっかく親身になって仕事の悩みを聞いたりして距離を縮めているのに、いきなり相談がある、って持ち掛けられた話が山田が気になってる、っていう内容だぞ。ありえねぇだろ」

「べつに。あんたと山田くんは同じ営業部なんだから、ありえなくもないでしょ」

「で、どうなんだよ? お前、直接指導にあたってんだから、そんな話のひとつやふたつ聞いてねーの?」

 急かして問いかけてくる坂下に、私は大袈裟に肩をすくめてみせた。

「知らないよ。そんな踏み込んだこと聞かないって」

「お前、そんなんで後輩とちゃんとコミュニケーションとれてんのかよ」

「指導に関するコミュニケーションと恋人の有無を尋ねるのは関係ないでしょ」

 唇を尖らせて告げると、坂下は仰々しくため息をついた。

「本当、女らしくないというか、可愛くないというか。西野さんがお前じゃなくて俺に相談してきた気持ちが分かるわ」

「御手洗さん」

 坂下の発言になにか言い返してやろうかと思ったところで声がかかった。私のよく知る声で、視線を移せばそこには今話題の人物がこちらに歩み寄って来ている。

 ちょうど話に出ていた彼が目の前に現れたからか、つかつかとこちらに向かってくる山田くんに心臓が早鐘を打ちだす。

 山田くんは私から視線をはずすと、次に坂下に礼儀正しく頭を下げた。

「坂下さん、探していたんです。午後の店頭待機、どうぞよろしくお願いします。あと西野さんが伝えたいことがあるって言ってましたよ」

「マジ!?」

 急に目の色を変えて坂下が答えた。今すぐとは一言も言っていないのに、私たちを軽く一瞥してから、この場をさっさと去っていく。

 あまりにも現金な態度に、自然と乾いた笑いが起こった。そこで、我に返り山田くんに向き直る。

「用事、ご苦労様。そんな急を要するものだったの?」

 ふたりで取り残されたことに、なんとなく気まずさのようなものを覚えて、しらじらしく尋ねてみた。

「いいえ。単に西野さんとお昼をご一緒した際、坂下さんの話題が出ていたので」

「そう、なんだ」

 居心地の悪さはますます増していく。ちりちりと胸を引っかかれるようなかすかな痛みに私は眉を曇らせた。

 西野さんが山田くんのことを気になっていると聞いて、その西野さんと山田くんはお昼を一緒に食べたらしい。

 その事実になにをこんなに動揺しているんだろう。坂下経由ではなくても、西野さんが山田くんに直接尋ねればいいのに。

 なんたってふたりは同期なんだし、一緒に食事に行くくらい親しいなら、恋人の有無やプライベートな内容を訊いてもおかしくはない。少なくとも、先輩である私が尋ねるよりもずっと――。

「ごめん、私もう行くね」

 十分に時間に余裕は持たせていたけれど、おもむろに腕時計を確認して私は気持ちを振り払った。とにかく今は仕事に集中しないと。

「すみません、お忙しいのに引き留めてしまって」

「いいよ。山田くんも斎藤さん相手に頑張ってね」

「市子さん」

 早口で捲し立てて、彼に背中を向けると、不意打ちで名前を呼ばれ目を見張る。ここは職場なのに。

 そう思って反射的に振り向くと、真剣な顔をしている彼がまっすぐに私を見据えていた。スーツ姿だからか、一瞬ドキリとする。

「俺、絶対に契約取りますから。だから、約束忘れないでくださいね」

 ところが彼の口から紡がれた内容が、昨日自宅で交わした件の確認で、私はぽかんと口を開けた。このタイミングでわざわざ?

「私、そんな忘れっぽい女に見える?」

「あ、いえ。そういうわけではなくてですね」

 慌てだす山田くんを見て私はなんだか笑みがこぼれた。さっきの坂下のときとは全然違う笑みだ。

「ちゃんと覚えてるから。山田くんが契約取るって言い切ったこともね。力みすぎずに頑張りなさい」

 軽く手を振って私は今度こそ彼に背を向けた。いってらっしゃい、と小さく聞こえた声を受けながら前に進む。

 自動ドアの先は相変わらず湿度が高く、むわっとした空気で満たされている。不快感を感じながらも、私の心はどこか晴れやかだった。

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