06
「かまいませんよ。むしろ笑った市子さんが見られてよかったです。なかなかお目にかかれませんから」
「山田くんって、本当にそういうことはすらすら言えちゃうんだね」
これが帰国子女の普通というか、なんというか。おかげで、私の心はすっかり冷静さを取り戻せた。
「そういうこともなにも本心ですから」
「はいはい、その営業トークで
わざとらしく仕事の話を振ると、彼は眉を曇らせて肩を落とした。
「斎藤さま、なかなか手強いんですよね」
私から見ると、それは彼自身のせいだとも言える。斎藤さまは、彼とほぼ同い年のアパレル会社に勤務する女性で、ちょうど車を買い替えたいとのことでうちに来店されたのが始まりだ。
そのとき新車の試乗の担当をしていたのが彼で、斎藤さまは車よりも彼自身が気になったらしい。
それから何度も店に来ているが、本契約にはまだ至っていない。けれど、次にいつ来店するかを彼に告げて、彼が店にいる時間にわざわざ足を運ぶという徹底ぶりだ。
迷っている、と言いながら彼とあれこれ話をするのが楽しみらしく、なかなか手強い。
でも契約してもらえば、彼の成績にも繋がるし、購入してからもディーラーとは定期的にやりとりするのだから、早く決めていただきたいというのが本音だ、もちろん私の。
彼にはほかにも行って欲しい営業先があるし。
「契約さえ取れれば、とは言わないし、お客さまのことは優先すべきだけれど、相手のペースにはならないようにね」
「はい」
静かに頷く彼に私は苦笑した。
「山田くんなら、大丈夫だよ。モテて困るなんて今更でしょ?」
むしろ多くの女性客を虜にして、営業の成績を伸ばしているのも事実だ。もちろん彼は真面目なので、普通にディーラーとして接しているわけだが、相手に気に入られてしまうのだからしょうがない。
彼は、なんだか微妙な面持ちで、否定はしませんけど、と続けた。
「でも、いいことないですよ。好きな人からじゃないと意味がないですから。たったひとりの好きな人が振り向いてくれたらそれでいいんです。それが叶わないなら、誰から好かれても一緒です」
本当に……。
私は喉まで出かかった言葉を飲み込んだ。本当に彼は真面目だ。普通は、これだけ異性に好意を寄せられたら、調子に乗ってしまうものじゃないの? ましてや彼は若いんだし。
ある程度、腹黒く計算高くなっても仕方なさそうなのに。少なくとも私の周りにはそういう男性が多かった。
これが計算なら、私は間違いなく人間不信に陥ってしまいそうだけれど、きっとそれはない。
仕事を通して、こうしてプライベートで一緒に過ごして、彼の誠実さや真面目さは十分に伝わっている。
「山田くんの、そんな誠実なところがいいんだろうね」
ぽつり、と声になるかならないかの微妙な声量で私は呟いた。
「なにか言いました?」
私は軽く首を振ってカップの中のぬるくなった液体で喉を潤す。彼は疑いまじりの顔を私に向けながら、なにかを思いついたような顔になった。
「なら明日、斎藤さまの本契約が取れたら、市子さんからなにかご褒美をくれますか?」
まさかの提案に私は怪訝な顔になる。不細工な顔になっているのは百も承知だ。
「ご褒美って。これは仕事でしょ?」
「そうですけど、なかなか苦戦している案件ですし、やる気を出すためには、やっぱりご褒美が必要だなって」
「山田くん、なにか欲しいものでもあるの?」
「はい。欲しいものを考えたら、市子さんからのご褒美なんです」
打てば響くように返してくるが、いまいち会話が噛み合っていない気がする。しかし、指摘しようにも彼はどうやら大真面目だ。
くりっとした大きな瞳が私をじっと見つめて映し出す。
私からのご褒美、といわれたところで、彼の欲しいものなんて分からない。なにが好きかなんて知らない。そもそも私がご褒美なんてあげなくてはならない話でもない、けれど……。
私はしばらく考えを巡らせて、結んでいた唇をほどいた。
「……今度、お客さまとの約束がない日に、私がご飯作るよ。話してたポテトサラダも用意してあげる」
これはご褒美と言っていいのかな。こんなことを彼は望んでいるわけではない気がする。
しかし男性の、ましてや年下の彼が望むものなどまったく見当がつかないし、それに、いつも作ってもらっているお礼と思えば。
誰に対するわけでもなく、私は自分の中で言い訳した。すると、いきなり強い衝撃を感じる。隣にいた彼に思いっきり抱きしめられていた。
「ちょ」
「嬉しいです。俺、頑張って明日契約とってみせますね。だから約束ですよ」
彼の腕の中で抗議しようにも抱きしめられた力は思ったよりも強い。細いと思っていた腕も、幼いと思っていた顔もこうして抱きしめられてみると男性そのものだった。
思わず意識してしまい、私は反射的に身を捩る。ところが彼は腕の力を緩めることなく私に身を寄せてきた。
さっきは嬉しさのあまり抱きついてきた、という感じだったが、今は違う。改めてしっかりと抱きしめ直された。彼はなにも言わない。私もなにも言えない。
お笑い番組はとっくに終わっていて、テレビは天気予報をしていた。週末は崩れるらしい、という情報がどこか遠くのことのように耳に届く。
なにか言った方がいいのかな。でもなにを? 密着したところから伝わる彼の体温が、鼓動音が、適切な判断力を奪っていく。
「……市子さん」
沈黙を破ったのは彼の方で、なにげなく呼ばれた名前に私は必要以上に反応してしまった。複雑な気持ちで次の言葉を待っていると、ゆっくりと回されていた腕がほどかれた。
彼を見遣ると、なんとも言えない表情でこちらを見下ろしている。そっと頬を撫でるようにして乱れた髪を耳にかけられた。そして彼は笑った。なんだか、悲しそうに。
「そろそろ帰りますね。いつも長居してしまってすみません」
「うん」
今度こそ彼と私の間に距離ができて、彼は立ち上がった。あんな関係から始まったものの、彼とはキスもなければセックスもない。
ただ、こうして彼にとってはスキンシップの一環で終わりそうなやりとりがあるだけ。今のもそうだ。
隣なのにも関わらず、律儀に彼は帰っていく。もちろん泊まって欲しいわけでもないけれど。本当に付き合っているわけでもないんだし。
でも、あまりにもきっちりと線引きをしている彼の本音が、どこにあるのか分からないときがある。彼は私とどうなりたいんだろう。
そもそも私だって――。
「ちゃんと戸締りしてくださいね」
「分かってるよ、子どもじゃないんだから」
普通に最初の言葉だけで終わらせておけばいいのに、つい余計なことを言ってしまった。けれど彼は嫌な顔ひとつせず笑ったままだ。
「だから言ってるんですよ。おやすみなさい」
「お疲れさま。おやすみ」
玄関まで彼を見送って、いつものあいさつを交わす。色々思っていても、結局、彼本人にそれをぶつけないのだから、私だって同じだ。
恋人でもない人間とこんなふうに過ごすなんて。わりとひとりの時間が好きだったり、相手に気を遣うのは仕事だけで十分だと思っているのに。
でも、彼と過ごすのは不快じゃない。
苦手だ、とも思っていた相手なのに。むしろ、今まで付き合った彼氏たちと過ごすよりも、心地いいかもしれない。
でも、それは私たちの関係が特殊だからだ。そのとき、彼の先ほどの発言が頭を過ぎった。
『たったひとりの好きな人が振り向いてくれたらそれでいいんです。それが叶わないなら、誰から好かれても一緒です』
彼が言ったのは一般論だろうか。それとも彼にはそんなふうに思いを寄せる誰かがいるのかな。いや、いるなら私とこんな時間は過ごしていないか。
そう結論づけてどこか安心している自分もいて、そんな自分に軽く動揺する。彼は私と過ごす時間をどう考えているんだろう。
あれこれ考えながらも、思考を振り払って私は部屋に戻る。
玄関に並んだ靴は仕事用の黒のパンプスが数足。可愛らしいミュールのひとつもない。まるで私の部屋を凝縮したかのような構図だ。
早く部屋に戻ろう。玄関にはじんわりとした夏の面影がまだ残っていた。