02
外回りを終えて会社に戻ると、山田くんがデスクで書類作りに勤しんでいた。集中してパソコンのキーボードを打つ姿はなかなか様になっている。
しかし顔を上げて私を見るなり、彼は子どもみたいな笑顔を向けてきた。
「お疲れさまです。斎藤さまからご契約いただきました」
わざわざ立ち上がって報告してくるので、私は虚を衝かれつつも笑顔を向ける。
「そう。車種は?」
「モデルチェンジしたばかりのベゾンダーだよ。たいしたもんだよな」
答えたのは山田くんではなく、彼と共に店頭待機をしていた坂下だ。同じく事務処理をこなしていたようで、このタイミングで背もたれに体を預け、椅子が悲鳴を上げるのも気にせずに、両手を上に上げ伸びをする。
「軽じゃなく乗用車を売ったのは、さすがだけど、まさか斎藤さん相手にベゾンダーを売るとは」
坂下の声は感心半分、嫉妬半分という感じだった。実は、軽自動車は何台売ってもノルマには含まれない。なので私たちは常に軽自動車よりも乗用車を売るよう意識している。
もちろんお客さまのニーズに合わせるのが一番なのは前提だ。けれど扱っている車のメインが乗用車なので、そういう裏事情もあったりする。
お客さまには口が裂けても言えない。
「御手洗さんが展示用に選んだっていうクリアブルーをすごく気に入ってくださって、色はあれに決めてくださいました」
「そこでわざわざ先輩を立てるとは、お前もなかなかできた奴だな」
「立てている、とかじゃなくて事実ですよ」
さらっと紡がれた坂下の嫌味を、笑顔で華麗にかわす。
契約が取れたならよかった。私の手柄ではなくても、私が気に入って店頭展示に推したクリアブルーを選んでもらえたのが少しだけ嬉しかった。
「支払いは残価設定型で組んでくださいました。その書類の確認をお願いできますか?」
「分かった」
私は自分のデスクに荷物を置いて、正面になっている山田くんのデスクに近づく。そして一通り目を通してOKを出そうとしたところで、思い出したように坂下から声がかかった。
「そういえば、知ってるか。
「え」
さすがに声をあげて坂下の顔を見た。永野部長は、私たちの上司であり、営業部の本部長だ。成績にはシビアでいながら、その分フォローは欠かさず、真面目なようで、わりと気さくなところもあるので部下たちからは慕われている。
たしか年齢は四十くらいだったかな。それを思わせないほど若々しく、たまに見せる笑い皺は、普段の厳しい姿とのギャップ効果があると思う。
「坂下さん、よくご存知ですね」
「この前、部長と飲みに行ったときに聞いたんだよ。働きすぎなんだよな。やっぱりここは部長を励ます会を開催するべきか?」
本気とも冗談とも取れぬ坂下の提案に私は眉をひそめた。
「そういうプライベートなことは、そっとしておくべきじゃない?」
「なんだよ、朗報だと思ってわざわざお前に教えてやったのに。これで遠慮することないぞ、まぁ、部長がお前を相手にするとも思えないけど」
「ちょっと、誤解を招くような言い方やめてくれる? 私は純粋に部長を尊敬してるけれど、そういった目で見たことは一度も……」
「へーへ」
面倒くさそうに私の言葉を遮ると、坂下は再び姿勢を戻してパソコン画面に向き合った。なので私も仕事モードに切り替え、山田くんに書類を総務部の方に回すように伝える。
総務部に書類を持っていく山田くんの姿を見送りながら、私は永野部長が離婚した、という事実に少しだけ動揺していた。
坂下に言った内容は少しだけ嘘だ。でも部長に対して、今さらどうこうしようとは思わない。ただ、部長がいなかったら、私は今、ここで働いてはいなかった。
私にとって彼はものすごく大きな存在だった。
帰宅してからはずっと時計を気にして、私は台所に立っていた。今日は彼にご飯をご馳走すると約束した日で、私はいそいそと食事の支度を進めている。
元々料理は嫌いではないけれど、自分ひとりだと、どうしても面倒に感じてしまい凝ったものはなかなか作らない。
気が向いたときに色々と作って、作り置きや冷凍保存したり、閉店間際のスーパーで半額になっているお惣菜を調達したり、というのがお決まりだ。
なので、こうして誰かのために料理をするのは本当に久しぶりだ。山田くんは家事全般得意らしく、料理の腕も申し分ない。
そんなわけで時間的余裕の観点からも、私たちが家で共に食事をするときの料理は専ら彼の担当だ。
ちなみに最初は山田くんが自宅で振る舞っおうとしたのだが、エアコンが壊れているという理由で私が断固拒否した。
おかげで、いつの間にか私の家で彼が料理をして一緒に食べるのが定番化してしまっている。
フライパンをコンロにセットしたところでインターホンが鳴った。相手は誰かなんて考えるまでもない。
玄関に足を進めて、確認することもなくドアを開けると、じめっとした空気と共にそれを払拭させるような笑みを浮かべている彼の姿があった。
「お疲れさまです、市子さん。只今、帰りました」
「っ、お帰り」
お疲れ、といつも通り返すはずだったのに、彼の言葉につられてしまった。おかげでなんだか勝手に気恥ずかしくなる。
彼にとってはきっとどうでもいいことなんだろうな。
ほんの数時間前に会社で見た通り、山田くんはスーツを着たままだった。ブルーのストライプ柄のネクタイは彼によく似合っている。彼はひょいっと一歩だけ足を前に進め、私との距離を縮めた。
「お腹空きました。今日の昼食べそこねて」
「大丈夫?」
空腹からか、疲れた表情を見せる彼を私は純粋に心配した。たしかに今日は外回りメインで忙しそうにしてはいたけれど。
「大丈夫ですよ。ちなみに、メニューはなんでしょうか?」
「豚の生姜焼き」
喜々として尋ねてくる彼に私はメインのおかずを端的に答える。付け合わせには、話していたポテトサラダも用意した。でも、そこまでは言わない。
「いいですね、急いで着替えてきます」
「あ、お肉焼いておくから、勝手に入って来て」
迷うことなくカードキーを彼に差し出す。こういうときオートロックというのは不便だ。ゆっくりと受け取る彼の指先が少しだけ触れた。
無機質なカードの感触と違い、わずかに伝わる体温に思わず手を引きそうになる。その前にカードは彼の手に渡ったので不自然なことはなにもなかった……はず。
なにをこんなにも意識しているんだろう。私たちの関係が名づけようもない曖昧なものだから? ただの職場の先輩と後輩にしては近すぎるのは自覚している。
けれど、だからといって恋人同士というわけでもないし、友達と呼ぶのもなんだかしっくりこない。こんなふうに家に上げて、カードキーさえ渡してしまえるのに。
ドアが閉まったのを確認してから台所に戻ると、コンロにセットしてあったフライパンを温め始める。
思えば、先に帰ってご飯の支度をしてもらうために、初めて家のカードキーを彼に預けたときは、随分と受け取るのを渋られた。
見られて困るようなものもないし、そんな貴重なものも置いていない。とはいえ、自分でも大胆というか、無防備というか。
彼氏でもないし、むしろ付き合っていた彼にでさえこんな真似をした覚えもない。
けれど、山田くんは同じ職場でもあり、後輩だ。だからか下手に構えることなく信頼できた。もちろん彼の人柄の影響も大きい。
そして、そのときの彼の対応もすごかった。
なぜか彼は自分の家のカードキーを私に渡してきたのだ。対価のつもりか、自分の誠意を示そうとしたのか。なにもそこまでしなくても、と慌てたが、両親も外国にいるし、なにかあったときのために、とのことだった。
『もしも俺になにかあったら、そのときはよろしくお願いしますね』
縁起でもないし洒落にならない。しかし、そんなふうに言われたら不安になってしまい、私はつい彼からカードキーを預かってしまった。
どうか使う機会がないことを願うしかない。鍵を託す相手が私でいいのかとも思ったけれど、それを深くは追及しなかった。
遠くの親戚より近くの他人とも言うし。
ちょうど皿に盛りつけていると彼が、こんばんは、と言いながらドアを開けて部屋に入ってきた。換気扇をつけてはいるけれど、生姜焼きのいい香りが部屋に立ち込めていて、自分でも空腹を刺激される。
彼は嬉しそうに顔を綻ばせながら近寄って来て、素早く手伝いを申し出た。
ボーダー柄のフード付きのシャツは、先ほどまでのスーツとの印象をがらりと変えている。なにを着ても様になるのは彼だからなんだろうな。
生姜焼きにポテトサラダ、ひじきの煮物にご飯と蕪のお味噌汁というのが今晩のメニュー。もう少し、ご褒美っぽくした方がよかったかな?
少し不安になって彼を窺うと、山田くんは目をキラキラさせながら、並んだ皿を見つめている。
その顔はまるで子どもみたい。一応、ビールは用意していたので尋ねてから、グラスに注ぐ。いつもは家で晩酌はしないけれど、お祝いっぽく乾杯しよう。
「市子さんに注いでいただけるなんて」
大袈裟な物言いの山田くんのグラスにビールを注ぐ。傾むけられていたのもあり、なんとか上手く泡立った。少し泡の割合が多い気がするけれど、そこはご愛嬌ということで。
「山田くん、無事に契約とれておめでとう」
「ありがとうございます。いただきます」
グラスを合わせて一口飲み、とりあえず先に食べ始める。
食べたいと言っていただけあって彼の箸は一番にポテトサラダに伸びた。私はつい自分の箸を止めてその成り行きを見守ってしまう。
それを悟られないように、わざとらしく今日の契約を取るまでの流れを尋ねた。こういうとき、同じ職場なのは有り難い。
少なくとも会話の内容に困りはしないから。山田くんは律儀に今日の斎藤さんとのやりとりを話してくれた。