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五十五話 お信磨、天守閣へ

 時は、お礼がお信磨を上階に向かわせる為に暴れだしたところまで遡る。

 お信磨は、涙が零れそうになるのを懸命に抑え、階段を駆け上った。とてつもなく太っているとはいえ、『呪言』の力で体重を楽々と支えられるほどの筋力も得ているその足は、その体型に反して速い。
 ただ階段を踏み鳴らす音は体重に比例して大きく、お礼の呪いの力で姿を消してはいても、それを無駄にするほどの大音響が城内に響く。
 居場所がばれるのは覚悟のうえだ。お礼が急いで上に上がることを求めたのだから。むろん口で言われた訳ではない。
 お信磨は、お礼に言われた通り、本丸内の階段のそばの物陰で、息を潜めてお礼が騒ぎを起こす時を、階段の見張りが離れる瞬間を待っていた。
 計画通り騒ぎは起こった。ただし階段のすぐ前でだ。階段を守り固めていた二人の北条兵のうちの一人は、飛んできた風魔衆に巻き込まれ壁へと叩きつけられ、もう一人は宙に浮かぶ血塗られた拳に殴られ、血を噴きだしながら倒れる。
 予想外の騒ぎに、驚いてそちらを見たお信磨の目と、宙に浮かぶ『礼』と『畜』の光る二つの文字が向いあった。
 お信磨には、お礼が彼女の切り札の『呪言』を解放したことがわかった。小火を起こして騒ぎ立てるのが難しい事態が発生したのだとも理解する。
 二つの文字と二つの拳が、残った二人の風魔と一人の美しい女に向かう。
 同時にお信磨も階段に向かって走る。
 遠くで騒ぎを起こすことが無理になったお礼は、血路を開きに来てくれたのだ。お信磨を無事に本丸の屋根にたどり着かせるために。最後には死に至る呪いを発動してくれたのだ。
 上階にあがったお信磨を追って、お礼も駆けあがってくる。その体は赤く染まり、すでに姿を消す『呪言』は意味を失くしていた。
 その異様な姿に、警備の者たちがお礼に群がる。上の階からも人が下りてきた。お信磨は廊下の端によってそれらの人をやり過ごし、奥へと進む。
 すれ違う者の何人かは、大きな音に何ごとかとお信磨の方を見るが、眼に映る異変を前にしては、眼に見えぬ異変など、意識の片隅に追いやられ、首を捻りながらもお礼の方へと向かっていく。
 お信磨は警備のいなくなった最上階へと続く階段の前でいったん立ち止まり、暴れるお礼を見た。
 もう駄目だった。姉と慕ってきたお礼が、己の命を削ってまで呪いの力を振るう姿に、涙を抑えきれなかった。お信磨の体に塗布されたお礼の『呪言』が、お信磨の『呪言』である油の涙ではじかれ、顔の一部が露わになる。
 お信磨は、なんとかお礼から視線を外し、顔の前に太い両腕をかざして、下を見るようにして階段を上った。先程立ち止まってしまったためか、汗までが噴き出てきた。こうなると、もうお礼の呪いは意味をなさなくなってくる。だが幸いなことに最上階――天守閣はすぐそこだ。警備の者もお礼に誘い出され、ここには誰もいない。
 もうこそこそする必要などない。お信磨は服を脱ぎ捨て、油の汗を周囲に飛び散らせながら最後の階段を上りきる。
 階段を上りきった先の広間の奥に、老年の武士が鎮座していた。ただ座っているだけだというのに、お信磨は老人から強い圧迫感を感じずにはいられなかった。おそらくあれが、北条氏康……。
 お信磨の姿を認めても、氏康は動かない。代わりに小姓とおぼしき少年が、刀を抜いてお信磨の前に立ちはだかる。
 お信磨はそれにはかまわず、周囲を見回す。屋根の上に出たいのだが、ここの天井には手が届かない。
 手ごろなものが見つかった。外に出るのにちょうどよさげな格子窓がある。あそこからなら、お信磨ならば屋根瓦にも手が届きそうだ。
 格子窓に近づいたところで小姓が斬りかかってきたが、刀はお信磨の背中を滑り、小姓は勢い余って床を転がる。小姓には見向きもせず格子に手をかけ揺さぶる。頑丈に作られたそれは、お信磨が体重をかけてもびくともしない。


「おのれ、化け物!」


 体勢を立て直した小姓が再びお信磨に斬りかかろうとする。


「馬鹿者。後ろじゃ」


 落ち着きを感じさせる声に、小姓とお信磨が同時に振り返る。
 氏康であった。氏康が面倒臭そうに顎をしゃくる。
 その先にはお礼がいた。全身を赤く染めたお礼がいた。


「くそっ!」


 小姓が体の向きをかえ、お礼に斬りかかるが、お礼は簡単に小姓の手から刀をはたき落し、小姓の顔に平手打ちを喰らわせる。小姓は少しばかりたたらを踏んでから、他愛もなく崩れ落ちた。


「……ねえさん」


 お信磨の目からまた涙が零れる。


「ちょっと手荒にするけど、我慢しておくれ」


 お礼はそう言って、手のひらを上にして手を組み、お信磨の足の前に差し出した。
 お信磨はお礼の意図を悟り、両手の手のひらを天井にかざし、お礼の差し出した手に片足を乗せた。


「……最後まで面倒かけてごめんね、ねえさん」

「……あたしはさ。あんたらの世話を焼けるのが嬉しいんだよ」


 お礼が笑顔で言う。
 最後にお礼の顔が見られて良かった。笑顔が見られて良かった。
 思い残すことがなくなり、お信磨はお礼に向かってしっかりと頷く。
 お礼は頷き返すと、力一杯お信磨を天井に向かって放り投げる。
 お信磨の手が天井を突き破り、お信磨は屋根裏へと躍り出た。


「見事!」


 氏康の笑い声を遠くに聞きながら、お信磨は今度は自力で跳ね飛び、今度は屋根瓦を突き破り、遂に屋根の上へとたどり着いた。

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