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五十四話 お礼対蟒蛇

 二人の返事を待たず、乙霧は階段を駆け下りる。
 あの八犬士に残された時間は決して長くない筈。思惑通り自分を追って来てくれれば思うつぼ。うまく時間さえ稼いでやれば、あとは勝手に自滅するはず……。
 乙霧が本丸を出たところで、増援の北条兵が本丸へと到着する。乙霧は頭を下げつつ脇にどける。女中の格好ではなかったが、風魔が城内に入ることは、彼らにも連絡がいきわたっていたのであろう、彼らは眉を(ひそ)めつつも、特に乙霧を咎めだてすることなく、乙霧の前を通過しようとした。
 その時である。彼らの前に、本丸内で暴れていたはずのお礼が天から降ってきたのは。
 姿を消す『呪言』はすでに意味がなく、身体を血と染料で赤く染め、地面に着地した衝撃など微塵も感じさせず、自身の敵である彼らを睨みつけるその姿は、一匹の赤毛の獣の如し。
 驚きに支配されていた北条兵だったが、すぐに立ち直り、お礼に向かって槍を構える。


「貴様、見るからに怪しい奴! さては氏康様のお命を狙う、八犬士とか言う不届き者だな!」


 二人の北条兵がお礼の返事を待たず、真っ直ぐに槍を突きだす。その二本の槍を無造作に掴み、赤き獣と化したお礼ははゆらりと前に出る。
 お礼の手が塞がったのを見るや、乙霧は二の丸へと続く門へと、篝火が照らす道を走った。後方から北条兵の悲鳴が聞こえるが、立ち止まってなどいられない。だが、昨夜の恐怖にかられ無我夢中で逃げた時とは違う。これは目的を果たすための戦略的撤退。
 門を潜り抜け、二の丸へと続く橋を渡っている最中、乙霧は膝の裏に重い衝撃を受け、膝を折るようにして前のめりに倒れこんだ。倒れたまま首だけを動かし状況を確認する乙霧の眼に、自分のふくらはぎの上に身動き一つしていない北条兵が一人乗っているのが映る。そして自分の脚のすぐ先に、お礼が文字の浮かぶ目を爛々と輝かせて立っていた。
 お礼が、北条兵の死体を蹴りどかし、乙霧の首を片手で掴み宙づりにしてのける。
 乙霧は苦しさに顔を歪めながら、なんとか逃れようとお礼の手を掴むが、指一本すらはがせない。すぐさま、前腕を両手で叩く方針に切り替えたが、乙霧の首を締め付ける手の力はいっこうに緩まない。
 意識が遠のきそうになり、乙霧は必死で足をばたつかせる。その足が、お礼が首から下げていたお守り袋の紐に引っかかった。紐は、耳と鼻が欠落し、髪の毛一本ないお礼の頭を抵抗なくするりと抜け、お守りはお礼の後方に飛んでいく。
 瞬間、乙霧の体が橋の上に落ちる。
 喉を押さえ、涙を滲ませながら顔をあげると、お礼が飛んでいったお守りを拾いあげようとしているところだった。あと少しでお礼の手がお守り袋に届くというところで、どこからか飛来した革袋がお礼の手に当たり、中に入っていた液体がお守り袋にかかる。お守り袋が白い煙をあげて溶け出した。


「ああっ!」


 お礼が慌てて飛び付き、溶けていく袋を破り捨て中身を取り出す。その手に先ほどと同じ革袋が当たり、中の液体はお礼の手ごとお守り袋の中身にかかる。液体は容赦なく、お礼の手の中のそれを溶かしていく。


「ああっ! ああっ!」


 お礼は必死にお守り袋の中身が溶けるのを手で止めようとするが、彼女の手はすでに液体にまみれ、溶解を押しとどめるどころか、一緒になって溶けていく。


「うむうむ。他の八犬士の毒はちゃんと効くんだな。安心したぞ」


 場違いな明るい声が昨日と同じように闇夜に響く。
 その声を聞きながら、お礼はすでに以前の形がわからなくなってしまったお守り袋の中身を、(ただ)れた手で口に放り込む。口の中が多少溶けたが、気にもとめず飲み込んだ。いたしかたなくの行動ではあったが、これで本当に生野と一つになった。
 だが、その顔に喜びの表情はない。生野との誓いの証しが、あと一歩で煙となるところだったのである。
 怒りの表情を隠さないお礼の眼は、倒れている乙霧を映してはいなかった。
 彼女の赤き世界に映っていたのは、その向こうの黒い影。蟒蛇(うわばみ)唯一人。


「……殺す」


 お礼がが短く声を発し、一足飛びで乙霧を跳び越える。

 
「ふむ。いま飲みこんだのも『呪言』とやらか」


 蟒蛇は眼の前に迫るお礼に動揺することなく、興味深げにお礼を見やる。
 お礼がぐずぐずに崩れた拳を強く握りしめ、蟒蛇に叩きつけようとした直前、蟒蛇の黒衣を突き破り、無数の棒手裏剣が飛び出し、お礼の身体に突き刺さる。


「いかんなぁ。どんなに早く動いても、そんな直線的な動きでは、対処のしようがいくらでもある。……鍛錬不足だな」


 驚きに見開かれたお礼の眼が、蟒蛇の破れた衣服の下に、男のモノとは明らかに違う乳房を見つける。


「……おま……え、女……か」

「いや、風魔さ」


 蟒蛇が不敵に笑う。
 だが、お礼も笑った。
 お礼が崩れた手で蟒蛇の頭を押さえる。


「おい。致死性だぞ。即効性の……」


 蟒蛇の声に初めて焦りのようなモノが滲む。
 お礼は躊躇うことなくその首を真後ろに回転させた。
 お礼が手を離すと蟒蛇が真後ろを見たままその場に崩れ落ちる。
 とりあえずの標的を片付けたお礼は振り返り、一歩また一歩と乙霧にゆっくりと歩み寄る。
 乙霧まであと数歩という所で、お礼がふらつく。そのまま橋の欄干にもたれかかった。
 乙霧が弾かれたように立ちあがり、お礼に駆け寄ると、堀に向かって彼女の身体を力一杯突き押す。すでに抵抗する力はなく、お礼は紅き眼を月夜に向けながら堀へと落ちていく。
 乙霧はなんとなくお礼の最後の視線が気になり、月を見上げた。
 そこに……犬坂生野種智がいた。


「……馬鹿な。いったいどんな仕組みで……」


 乙霧の空いた口が塞がらない。それもそうだろう。乙霧の頭の中に詰め込まれた古今東西の知識の中にでさえ、宙を階段を上るが如く歩む術など記されてはいなかったのだから……。
 すでに生野の首からは、黒い布が取り除かれ、うなじに光が集まり、喉元から光を照射されている。
 全てを覆い隠す夜の帳の中で、彼だけが光を受け、彼だけが光を放つ。
 まさに天に選ばれたとしか言いようがない美しい男が、小田原城天守閣に向かって、慎重に足元を確かめる様なゆるりとした足取りではあったものの、着実に歩みを進めていた。
 神通力。乙霧の脳裏には忍術でも呪いでもなく、その言葉がうかんだ。まさに神に通ずる力であった。

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