五十六話 お信磨対風魔
ようやく目的の場所にたどり着いたというのに、お信磨の顔には疑問が浮かんでいた。
屋根を突き破った感触がおかしかったのだ。瓦以外にもなにかを突き破った感じがあった。しかも、足元の感覚も瓦を直に踏んでいる感触ではない。
「これは……布?」
そう瓦の上に布が敷いてあったのだ。屋根の修繕でもしていたのかと、お信磨は足元に手を伸ばす。
「遅かったではないか」
ぎょっとして、伸ばしかけた手をとめ、お信磨は声のした方を見た。
人が座っていた。呆れたことに盃を傾けながらである。
「風魔衆が一人、富蔵じゃ。敵には滅多に名乗らぬゆえ、地獄で自慢するがよい」
富蔵が盃を持たぬ方の手をあげた。それを合図に、どこに隠れていたのか、風魔衆が六人姿を現した。その中には一階でお礼と戦っていた二人の風魔衆の姿もあった。
相手は戦う気になっているようだったが、お信磨の方には、風魔衆とまともにやりあう気はない。
お信磨の目的は、屋根の上を油まみれにすることだ。考えてみれば布が敷いてあるのも都合がよい。瓦だけよりもよく燃えることだろう。
「我、信へと辿る道、我が命をもって
お信磨は両乳房に埋め込まれた半珠の輝きが増すと、風魔衆がいるのとは逆方向に走り出し、勢いがついたところで屋根の上に身を投げた。腹から着地し油が飛び散る。両手で屋根をかくと、お信磨の体が滑り出した。風魔の里、小太郎屋敷の再現である。
しかし、今度は風魔衆の動きが違った。座ったままの富蔵以外は、屋敷の時と同じようにお信磨を追いかけて来る。だが今回は結果が違った。お信磨が油を撒き散らしたところを踏んでも転ばない。彼らの足元をよく見れば、彼らは少しばかり浮いていた。柄を外した忍び刀を足の指ではさみ、峰に足を乗せ、油の上を刀の刃で滑りながら進んで来ているではないか。
さらに彼らは、先端に袋をつけた太い紐を頭上で振り回し始めた。お信磨との距離を最初に詰めた者が、それをお信磨目がけて投げつけた。先端の袋がお信磨の体に当たり、袋の中身がお信磨の体に降りかかる。
「あつっ!」
お信磨が思わず悲鳴をあげた。どうやらそれはかなり高温の湯のようであった。だが、おかしい。湯といえども水であることに変わりはないはずだ。水ならば油を流し続ける自分の体にはじかれるはずなのだ。それなのにこれははじかれることなく自分の体の表面を覆った油に溶け込んでくる。
答えはでなかったが、お信磨は気にするのをやめた。確かに熱い。だが、我慢できぬほどではない。彼らはお信磨を追いかける方法は手に入れたが、殺す方法までは手に入れることは出来なかったのだ。
やりたければやればいい。お信磨は風魔衆の動きに捕らわれずに、縦横無尽に屋根の上を滑りまくる。
風魔衆全員に高温の液体を浴びせられながらも、本丸の屋根を一通り油で濡らしたお信磨だったが、その頃には自分の体に異変を感じ始めていた。
なんだか、『呪言』の力は継続中であるのに、油の出が悪くなった気がするのだ。滑り具合も微妙に悪くなっている。そんな違和感を感じつつも、自分の役割を果たさねばならぬと、お信磨は屋根の上を滑り続けようとするが……。
「頃合いのようだな」
それまで、酒をあおりながらお信磨と風魔衆の追いかけっこを眺めていた富蔵が立ちあがり、盃を投げ捨てた。
それを見た風魔衆が、八方手裏剣を手にして構える。
「やれい!」
富蔵の掛け声で、手裏剣がお信磨目がけて投げつけられた。
数を増やしても、取り囲むように投げても、手裏剣のような武器では、お信磨の体に当たった瞬間に表面の油に包まれ、明後日の方角へと飛んでいく……はずであった。
だが今回に限ってその現象は起きなかった。すべての八方手裏剣が、お礼の体に突き刺さったのである。
「ああ!」
予想をしていなかった痛みに、お信磨の動きがとまった。
うつ伏せになっていたお信磨の両手の上に、大跳躍を見せた富蔵が着地した。
お信磨の口からまたもや悲鳴があがった。
富蔵も他の風魔衆と同様に、足の指で刀の刃を挟み込んでいたのである。ただし、切っ先を下に向けて。その切っ先がお信磨の手の甲に突き刺さり、手と屋根を縫い付けた。
「不思議か? 武器がささったのが。……儂も不思議だ」
しゃがみこみ、薄笑いを浮かべた富蔵が言う。酒臭い息がお信磨の鼻を襲う。
「先にお前にかけた物があったろう。……あれは油だ」
お信磨が驚きに痛みも忘れて、富蔵の顔を見上げた。
「お前の体から出とるのも油のようじゃのう。ただし、お前にかけた油は、お前のだしとる油とは種類が違うらしい。普段は蝋のように固まっておるものだそうだ。それを高熱で溶かした物が、お前にかけた物の正体だ」
「油に油をかけた? そんな馬鹿な話があるか。そんなことで、わたしの……兄上の『呪言』が破られてたまるか!」
お信磨の叫びに、富蔵は心底困ったような顔をして見せる。
「儂に言うな。儂も不思議だと言うたであろうが。……まあ、理由なんぞどうでもよい。大事なのは結果よ。目的を果たすことこそが肝要。そこにいたるまでの道など、百人おれば百通りあってよい。そうであろう八犬士」
富蔵は刀を抜き逆手に持ちかえ、お信磨の頭上に掲げた。
「お主はよくやった。かの者の知恵なくば、あれが儂の最後の酒になっておったろうな。……さらばだ」
自分に突き下ろされる刃を見てお信磨は思う。この男の言う通りだと。
目的を果たすことこそが肝要だ。当初の目的である、生野が来る前に、小田原城本丸の屋根を油まみれにする作業は終えた。ついでに、本丸の内へと戻り、中にも油を撒いてから、お礼を回収して脱出するのが最高の形ではあったが、最低限の目的は果たせた。
その道程が百人あれば百通りあってよいというのにも同感だ。八犬士の目的の完遂の仕方は、命尽きるまで悪あがきすることにある。愛する家族のために。それがお信磨の選んだ道だ。
お信磨は両手をななめ前へと突き出した。磨きあげられた刃が、両手を中央から手首の端まですっぱりと切り裂き、お信磨の両手は自由を取り戻す。首をのけぞらせ、突き下ろされた刃の被害を顎先のみに留める。お信磨の顎はぱっくりと割れたが、そのまま布のかけられた瓦に突き刺さる。
「ぬっ! 悪あがきをするでないわ」
知ったことではない。これが八犬士のやり方だ。自分の身を傷つけようとも敵に牙を突き立てる。
お信磨は富蔵の両脚に抱きついた。手前に刺さっていた刀が、お信磨の胸を傷つけたが構いもしなかった。富蔵の体を押し倒し、そのまま屋根の斜面を、地面へと向かって転がる。
途中、奥歯に仕込んでいた石を何度も何度も噛み合わせる。お信磨の口から火花が飛び散り、お信磨の体が炎に包まれる。その火は富蔵にも燃え移り、富蔵が悲鳴をあげる。転がる勢いが増し、二人の体が屋根から外れ、宙へと放り出された。
お信磨はその命を燃やし尽くそうとしている最中、確かに見る。
夜の闇が、己の炎よりも明るく照らされるのを。敬愛する兄が、天から自分を見守り、辛そうに顔を歪めるのを。
死にゆく彼女の願望が見せた幻ではない。炎が作りだしたまやかしでもない。距離的にあり得ぬことでも彼女はしかと異父兄の美しい顔をすぐそこに見た。
彼女は最後に残された意識で願う。
(ああ、兄上。どうかそのような顔をなされないでくださいませ。お信磨は兄上の妹として生まれることができて幸せでございました。一足先に、ねえさんや皆と一緒に向こうで待っております。どうか悲願を達成されますよう)
お信磨は富蔵と地面の上に醜く潰れた後も、闇夜を照らす光のひとつとなって、生野を見上げていた。