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四十二話 狂乱の破顔丸

 風魔衆の顔に怒気がみなぎっていた。頭領の指示で破顔丸が組頭と指名されたからには、例え意味のない作業だと感じても黙って指示に従う。だが、破顔丸が小太郎の指示に逆らうとなれば話は別だ。
 風魔衆の殺気に気がついていないのか、破顔丸は身動きの取れぬ乙霧の前に立ち、胸いっぱいに息を吸い込む。


「おお、良い香りだ。抱くぞ、女。壊れるまで抱いてやる。感謝いたせ」


 男を狂わせる女の匂いで胸を満たした破顔丸の狂気が、さらに深くなる。
 破顔丸は両手で乙霧の着物を掴むと、力任せに引き裂いた。乙霧がその場にへたり込む。
 そのまま、襲いかかってくると思った破顔丸が、急に背中の金棒に手を伸ばした。闇夜に響く金属音。破顔丸は振り返りながら、金棒を回転させ、目前に迫っていた手裏剣の第二波をいとも簡単にはたき落す。


「貴様ら、儂からこの女を奪う気だな。……いいだろう。まずはきさまら全員血祭りにあげてからゆるりと楽しむとしよう」


 破顔丸が自信に満ちた足取りで、ゆったりと遠ざかっていくと、乙霧は気力を振り絞って立ちあがり、ふらつく足取りで道を外れ、森の中へと逃げこむ。


「小太郎に逆らった罪。その命をもって(あがな)うがいい!」


 乙霧は破顔丸の狂気に満ちた声に背中を押され、森の奥へ奥へと分け入っていく。
 裸のまま、恐怖に歪め涙で濡れた顔で、一心不乱に駆けるその姿は、太助を妖艶な術で死に追いやった女とは思えないほど、惨めな姿だった。
 それも仕方のないことかもしれない。彼女はまだ男を知らなかった。
 一夜の忍びは幼少より鍛錬を受けるのはもちろん、一定の年齢に達すると、異性を虜にするための術を叩きこまれる。
 房中術や話術を習得するだけではない。一夜衆では薬草などを用いて体質を変えることにも取り組んでいた。他者、特に異性を惹きつけるほぼ無臭の香りを自分の意志で体内から発生させる忍術。
 本来目立たずに行われる事が理想である諜報活動において、不適応ともいえる美しすぎる容姿も、この他者を惹きつける香りと地域密着という二つの事柄を組み合わせることで、情報が自ら飛び込んでくる環境を作りあげているのだ。これを全国だけにとどまらず海を渡った大陸にまで展開していることが、特に後ろ楯を持たぬ一夜衆が今日まで生き残っている理由の一つ。
 乙霧は容姿と技術においては、一夜の忍びとしてまったく問題はない。それどころか、知恵が人一倍働く者だったので、同年代の中では将来を最も期待されていた一人であった。
 そんな彼女が他の土地に送られることもなく、落ちこぼれとして里に留め置かれることになってしまったのは、ひとえに異性を惹きつける香りを発する才能がありすぎたからに他ならない。
 香りをだす訓練を始めて数日たったある日、教官の一人であった男の一夜衆が狂ったように彼女を求めた。その者を取り押さえに来た者も、次から次へと乙霧を求めて互いに争い合う。一夜衆が異性の香りに対し、耐性があるにも関わらずである。
 乙霧本人はその香りをとめることができず、無臭の香りは放出され続け、さらには、本来広がりづらいはずの香りの効果範囲まで広がり、強靭な精神を持つ頭領の幻之丞さえ、一時、乙霧の虜になりかけた。くノ一が総出でなんとか事態を収拾するまで、里は大混乱に陥り、五日ほど情報の集積と発信場所としての一夜の里の機能が停止した程だ。
 乙霧は、その後隔離される形で修行を続けたが、香りの制御はほとんど成長しなかった。香りを抑える薬が、乙霧一人のために作られ、その薬の服用と香草を焚き染めた衣服を着こむことで、香りが影響を及ぼす範囲を五歩程度のなかに収めることはできるようになった。だが、威力の方は相変わらずで、そばに寄った異性は正気を失い、ただひたすらに乙霧を追い求める。
 これでは他の土地に安心して送り込むことなどできず、乙霧は次の訓練に進むこともできぬまま、里の隅で残りの人生を過ごすことを運命づけられることになる。唯一救いだったのは、子供たちには香りの影響がなかったことだろう。里の隅の小さな小屋で、子供たちの教育係を務めることができたことは、乙霧にとって心の救いであった。
 森に入ってどれくらいの時がたっただろうか。破顔丸からだいぶ離れた筈ではあるが、頭から破顔丸への恐怖を拭い去ることはできない。未熟者でも一夜の女である。純潔を失うことなど、男に抱かれることなど恐れてはいない。
 乙霧が恐れているのは子供ができることだ。望まない相手との間にである。半人前の乙霧ではあったが、一夜の最大の術の継承に関して問題があるわけではない。夫になった相手が狂ったように彼女を求めても、それはなんの問題もない。
 ただ、魅力を伴った美貌が子供に継承される相手は、本人にしかわからない。男は睾丸に、女は子宮に聞けと一夜衆では言われている。相応しい相手が現れればそこが疼く。その相手との間には必ず美貌と魅力を兼ね備え、能力的にも優秀な子供が産まれる。まさに一夜衆最大の忍術。
 だがその逆に、望まぬ相手との子供は、ある程度の外見を保ってはいても、人間的魅力に欠けた者が産まれる。一夜衆の男も女もそれをひどく嫌う。
 仕事として権力者のもとに入りこんだ者は、止むを得ず子宮が疼かぬ権力者の子供を産むこともあるが、その子供はその家にろくな影響を及ぼさない。家が断絶する理由になった者も数多くいると乙霧は聞いている。
 これまで乙霧は、術が成功する相手に対して子宮が疼くなど迷信だろうと思っていた。里の中で自分とひけをとらない容姿の男達を見ても、一度もそんなことがなかったからだ。
 だが迷信ではなかった。とりたてて期待して来たわけではなかった風魔の里に、運命の相手はいた。
 煎十郎を初めて見た時の感覚を、乙霧は生涯忘れないだろう。下腹部の奥が熱を帯び、声なき声で叫ぶ。この人だ。この男の子種が欲しい。この殿方の子を産みたい。
 あと二日もあれば、八犬士との争いは終わると乙霧はふんでいた。この戦いにおいて、無事に乙霧が役に立ったと小太郎に感じさせることができれば、煎十郎は乙霧の夫になる。
 だがこんなところであんな狂人に襲われたら、すべてが台無しになってしまう。
 乙霧には破顔丸に抵抗するような力はない。破顔丸に捕まったら最期、それこそ乙霧が壊れるまで犯しつくされるだろう。あまつさえ、それで子を宿してしまうことにでもなったら、自分は本当に一夜衆にとって不用の存在となる。
 言い知れぬ恐怖が、乙霧の心を埋め尽くしていた。

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