四十三話 純潔の危機
少しばかり開けた場所に出た乙霧は、疲れきった体を近くの大木に預けた。
荒れた呼吸を整えながら、自身の絹のような白い肌を見る。いたる所に小さな傷がついていた。我を忘れ、とにかく破顔丸から離れようと深い藪を突っきってしまった為だろう。
どこかで服を調達したい。ただ下手に人里に行って男に遭遇しようものなら、また騒ぎが起きてしまう。香りの件が無かったとしても、乙霧は男を惹きつけずにはおかない美女なのである。裸で行動するのはまずすぎる。
それでも、破顔丸に見つかるよりはましかと、顔をあげた乙霧が固まる。
目の前に破顔丸がいた。顔を狂気の色に、衣服を血に染め、獰猛な笑みで乙霧を見つめていたのである。
「遅くなって済まなかったな。弱いくせに手こずらせおってな。一人逃したが、ほとんどはこの金棒で叩き潰してやったわ」
ガハハと大声で笑う破顔丸に、乙霧はなんとか時間を稼ごうと、乾いた口を開いた。
「どうして、ここがわかったのですか……」
尋ねながら、乙霧は自分でその理由に思い至る。
「決まっておろう。儂らはすでに一心同体。離れていても心は一つじゃ。お主の居場所はすぐにわかる」
そんなわけがない。匂いだ。乙霧は自分の女の匂いを抑える薬を一日三回服用しているが、最後に呑んだのは昼。効果が弱まっている。香草の香りで焚き染めた衣服も破顔丸に引き裂かれ、乙霧の女の香りはいまや広範囲に広がっていた。
ほぼ無臭のその香りを、風魔での厳しい鍛錬で人並み以上の感覚を身につけたこの狂人は、犬のように嗅ぎつけて追ってきたのだ。
もう問答は無用とばかりに、破顔丸が金棒を捨て乙霧に迫る。まったく時間を稼げなかった乙霧ではあったが、破顔丸の腕をなんとかかいくぐり、そのまま破顔丸の背後へと走る。
乙霧を抱きしめそこなった破顔丸は、乙霧が背にしていた大木を抱きしめた。
「ぬう! きさまも儂を邪魔するか!」
破顔丸の正気を逸脱した言葉に、乙霧はちらりと振り返りぎょっとする。
破顔丸の腕が大木に食い込んでいくのもそうだが、それよりも、破顔丸の背中にいくつかの八方手裏剣と刀が一本突き刺さっていたからである。
破顔丸の衣服の血は、てっきり風魔衆の返り血だとばかり思っていたが、本人の血もかなり染み込んでいるのかもしれない。
あれでどうして動くことができるのか。どうしてこんなにも早く乙霧を追ってこれたのか。あれではまるで、八犬士の一人であったあの老人の『呪言』のようではないか。身体がまともに動くだけ、こちらの方が厄介だ。
あれに捕まってはいけない。本人は犯すつもりでも、結果として殺されかねない。あんな男の子を産みたくもないし、殺されたくもない。
乙霧は悲鳴をあげている両足を叩いて叱咤激励し、懸命に逃げる。少しして、乙霧の耳に大木の倒れる音が届く。それから間もなくして、逃げる乙霧の手が掴まれ、そのまま力任せに投げ飛ばされ木に打ちつけられる。
「あうっ!」
息がつまり、地面に伏しながらも、乙霧は彼女を投げ飛ばした相手を見あげた。
やはり、破顔丸。本当に早すぎる。木の倒れる音がしたのはつい今しがたなのに、もう追いついてきた。疲れた素振りもなく、顔には変わらず笑みをうかべている。軽傷とは呼べぬ傷も負っているというのに……。
破顔丸が起き上がることのできない乙霧に覆いかぶさってきた。乙霧は両腕を突っ張って押し退けようとするが、乙霧の細腕では、大木さえもへし折ってみせるいまの破顔丸の膂力に抵抗できるはずもない。
顎を押さえられ、唇に吸い付かれ、無理矢理に口の中を蹂躙される。
「おお! おお! 甘露じゃ。まさしく甘露じゃ」
破顔丸は乙霧から顔を離し、続けざまに両膝を掴み、乙霧の抵抗をまったく意に介せず力づくで股を開かせる。
露わになった乙霧の女陰を見つめ満足そうに頷いた。
「さすがじゃ。顔も美しければ、ここも美しい」
満を持して乙霧の女陰へと伸ばされた手は、そこに届く前にとまる。
乙霧は、目の前でなにが起きているのか、すぐに理解をすることができなかった。
どうなっているかは見ればわかる。だが、どうしてそうなっているのかがわからない。
破顔丸の首に、大きな白い犬が、鋭い牙を突き立てていたのである。
破顔丸が乙霧の女陰を見つめたまま、何度も瞬きをしている。彼もまた状況を把握できていないのだろう。犬が自分に噛みついていることではなく、自分の体が前に進まぬことが、手が乙霧の女陰に届かぬことが理解できぬ。そのように見えた。
犬が大きく首を振り、破顔丸の喉笛を喰いちぎる。
破顔丸の喉から赤き血がとめどなく大地に流れ落ちた。破顔丸はなにかを言わんと口をパクパクと開けたが、音になることなく血が零れるのみ。
乙霧は膝を押さえる破顔丸の力が弱まったことに気づくと、思い切り破顔丸の胸を足で蹴り押した。
破顔丸は抵抗することなく後方に倒れる。
破顔丸が倒れると、大きな白い犬は、荒く息をつく乙霧の体に鼻をこすりつけるようにして匂いを嗅ぐ。そして急に、飼い主に出会ったかのように、乙霧に体をこすりつけて甘えだした。
息の整った乙霧は、その様子を不思議に思っていたが、やがてハッとして、命と貞操の恩人の首に、しっかりとしがみついた。
「ありがとう!」
涙を流して感謝する乙霧の顔を、犬は労わるように舐める。
犬にされるがままの乙霧の耳が、大地に敷き詰められた葉を踏みしめる音を聞きつけた。犬を抱きしめたまま、乙霧は音のする方に顔を向ける。
男がこちらに向かって歩いて来ていた。闇の中に浮き出るような色白の肌をした美しい男。首に巻かれた黒い布の下から、薄い光が漏れている。顔を確認できたのはそのためであろう。
美しい男など里で見飽きているはずの乙霧が、男から目が離せなくなった。
犬が乙霧の腕からするりと抜け、男の元へと走っていく。男の足にひとしきりじゃれつくと、男の隣に並び、再び乙霧へと歩み寄ってくる。
乙霧の前まで来ると、男は着ていた羽織を脱ぎ、裸の乙霧にかけてやろうとした。
その手が乙霧の直前でとまった。その目は大きく見開かれ、乙霧を凝視している。掴んでいた羽織が手を離れ、乙霧の下半身にふわりとかかる。
手が乙霧に向かって伸びた。あと少しでその白き肌に触れんとした時、犬が鋭く鳴吠える。
男は突然夢から覚めたかのように、左手で顔を、右手で股間を抑えつけ、後ずさった。
乙霧から離れた男は、悪夢を振り払うように強く頭を振る。得体の知れぬものを見つけたような怯えた目で乙霧を一瞥すると、踵を返し、もと来た方向へと戻る。犬は名残惜しそうに、乙霧を何度も振り返りながらも、男の後に続く。
何かに怯えるように、両腕で自身を抱きしめる乙霧だけが、その場に残された。