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四十一話 乙霧、破顔丸と遭遇す

「小田原はまだでしょうかね。……もう、なんで私が一人でとぼとぼと帰らなきゃいけないのですか。まったく……」


 乙霧は夜道を、独り愚痴をこぼしながら歩いていた。
 自分はつくづく未熟者だと思う。一夜の忍びとしても人としても。日が落ちる前に囮役の八犬士を倒したのはいいが、犠牲が多すぎた。まさか、指揮官の我聞を含め四人もの風魔衆を死なせてしまうとは……。
 心が痛むわけではない。煎十郎と小太郎以外の風魔衆が死のうが生きようが、それはどうでもよいのだ。ただ、被害が多くなれば自分が役に立ったという証明がたたない。それでは小太郎の気が変わっても文句が言えなくなってしまう。乙霧の体質を考えれば、煎十郎を強引に連れ出すことは可能だけれど、それは一夜の信用問題にかかわる。限りなく商人に近い存在形態をしている一夜衆としては、それは避けねばならない事態。
 乙霧のもとに集まった情報から、囮役を務めていた八犬士の『呪言』は、おおよそ見当がついていた。その予想は間違ってはいなかったし、対処も間違えてはいない。
 ただその先。水の活用法の変化。ここにまで思考を届かせることができなかった。射出口さへ変えてしまえば、あれくらいのことはできると想像できていてもおかしくなかったのに……。
 敵のことばかりではない。我聞の虚栄心、臆病さ、それらの見積もりも甘かった。最初の襲撃を呪言で防がれた時、相手がまだ余力を残していたとはいえ、そのまま弓による射撃を続けていれば、いつかは殺せていたのだ。我聞の心が、『呪言』の威力に呑まれてしまったばかりに……。
 まったく、なにが一から十を知り、十から百の策を練る者であろうか。誇張もいいところだ。
 おまけに生き残るためとはいえ、一夜衆の忍びとして半人前とされる理由となった力を使うはめになるとは……。
 反省すればきりがないが、今はとにかく小田原に戻り、小太郎に報告するのが最優先だ。
 近くまで北条軍が追ってきていたので、案内役の風魔衆と会えば、連絡を頼めたかもしれないが、風魔衆と違い、北条軍は自分に近づくなとは言われていない。面倒を起こしたくなかったので、こうして一人で小田原へと帰ることにしたのである。
 これまで一夜の里を出たことのなかった乙霧ではあるが、幸い一夜衆が独自に作りあげた精巧な地図は頭に入っている。星の位置から方角を読み取る術も身につけているので道に不安はない。
 ただ、迂闊に男に近づくことができないとはいえ、こうして初めての道をひとりで歩く寂しさを実感せずにはいられない。
 そんな乙霧の気持ちを思いやってか、天は余計な出会いを乙霧に用意した。


「待て、そこの女」


 乙霧はいつの間にか男たちに前方を塞がれていた。まったく気配を感じなかった、闇から突然湧いて出たかのようだった。
 こんな芸当ができる者は、この辺りでは風魔衆だけであろう。それに、闇の中にかろうじて見えた中心の男の姿には見覚えがあった。
 破顔丸。あの男だ。出立前に静馬から近づくなと忠告されていたあの男。


「うん? お前は……ほう、いい女ではないか」


 乙霧が、なんだか微妙に言っていることがおかしいと思っていると、破顔丸の後ろに控えていた風魔衆の一人が口を挟む。


「破顔丸殿、今朝方、頭領より紹介があったではありませんか。一夜という忍びの里から援軍としてこられた乙霧殿ですよ」

「ほう。そうか」


 乙霧は、いやまさかと首を振った。今朝のことをもう忘れたというのか。自分のような目立つ女を忘れたというのか。五代目小太郎候補と自負している男が、そこまで記憶力が悪いというのか……。


「それで乙霧とやら、お前はこのような所でなにをしているのだ」


 乙霧は気を取り直し、これまでの経緯を破顔丸に説明した。


「ふん。我門の奴め情けない。里見の雑兵相手に相打ちとは」


 その言い方はどうかと思ったが、乙霧は別のことを口にした。


「破顔丸様はどうしてこちらに。かの八犬士の話を聞いてこちらに来られたのかもしれませんが、あの八犬士は囮。行きつく先に彼らの隠れ家ではありますまい」


 乙霧の言葉を聞いて破顔丸は大笑いする。


「儂は奴らの尻を追い回すような馬鹿な真似はせん。なに、あいつらがどこに隠れていようが見つける為に海の方から、しらみつぶしに探していたのよ」


 乙霧は我が耳を疑った。まさか、朝からこの時間までそんな無駄な作業をしていたのか。だいたい、海からここまでどれだけ離れていると思っているのだ。でも、破顔丸以外の風魔衆の顔を見ると、かなりげんなりとしていて、疲労の色が濃い。どうやら冗談ではないらしい。


「だが、今日はもう引き上げるところだ。儂は夜通しでも平気なのだが、こやつらは鍛え方が足りんのでな」


 後ろの風魔衆を見回し、がははと笑う。


「おう、そういえばお主も帰るところであったな。よし、それがしが送っていってしんぜよう」


 そう言って無造作に乙霧に歩み寄ろうとした。
 乙霧はとっさに後ろに跳び退いた。


「近づかないでくださいませ! 小太郎様よりご指示がありましたでしょう」


 乙霧の存在自体を忘れていたくらいだ。そのことも覚えてはいないのだろう。実際、わかっていなさそうな表情である。だが、破顔丸が忘れていても配下の風魔衆はきちんと覚えていた。


「破顔丸殿。確かに頭領はこの方の側にはくれぐれも近づかぬようにとおっしゃった。先導して差し上げるだけで十分でござろう」


 その意見を、破顔丸は鼻で笑い飛ばした。


「ふん。小太郎がそう言っておったと言うか。ならば問題ない。儂が次の小太郎じゃ」


 乙霧ばかりでなく、風魔衆も全員呆気にとられた顔になる。
 破顔丸は周囲のそんな態度を、まったく気にもとめず、乙霧にどんどん歩みを進めた。
 さすがの乙霧も、風魔の中で小太郎の名が通用しないとは考えが及ばない。それも仕方がないことである。乙霧は里長の決定に逆らうなどという教育を受けていない。それを平然とやってのけるなど、想像の斜め上だ。
乙霧は一夜の里を出てから、いや人生で初めての恐怖を感じる。乙霧の顔に恐れがうかんだのを見てとったのであろう。先ほど意見した風魔衆が、勇敢にも破顔丸の肩を掴んだ。


「いい加減にされよ。例え次の頭領に貴殿がなったとしても、いまは違う。頭領の指示に従われよ」


 破顔丸が振り向きもせず、拳を振り上げた。破顔丸のごつごつとした拳骨が風魔衆の顔にめりこむ。勇敢なる風魔衆は鼻を潰され、そのまま後方へと吹き飛ぶ。
 乙霧は信じられぬ思いで、狂気に満ちた笑みで拳についた血を舐めとる破顔丸を見ていた。この男もそうだが、この男を五代目頭領の候補に選んだ小太郎も信じられない。いま信じられるのは、この男に近づくなと言っていた静馬の言葉だけ……。
 静馬の見たては正しかった。
 一昨日の破顔丸と昨日、正確には安兵衛の『呪言』を受けたあとの破顔丸は違う。
 破顔丸は小田原に戻った者達の中で、最も気性の荒い男ではあった。乱波働きができなくなった者を、自分の手で始末をつける程の乱波至上主義でもある。だがその反面、人情味に溢れてもいた。目下の者の面倒をよくみる男で、朝まで一緒に飲み明かしたり、稽古をつけてもらったことがある者も少なくない。乱波働きの腕も含めて、次期頭領の候補に名を連ねるのに、不足のある男ではなかった
 ……いったい誰が予測しえたであろう。安兵衛の命を捨てた最後の『呪言』。それを一番近くで受けてしまったがゆえに、彼の脳の一部が破壊されたなどと……。

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