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一日だけ会社を休んだ浅野さんはまだ本調子じゃないうちから残業を重ね、咳もくしゃみも治まらないままマスクをして動き回っていた。他の社員も心配になるほど痩せたと言われるけれど、見た目とは逆に明るくなって付き合いやすくなったと評判だ。

「それは美紗ちゃんと付き合うようになったから」

と潮見や今江さんまで触れ回るようになったから、冷やかされて仕事がやりにくくてしょうがない。

「浅野さんだって否定してないよ」

潮見が食堂で買ってきた唐揚げ弁当を食べながら笑う。
そうなのだ。一番の変化は私たちが付き合っていることを浅野さんは隠していないこと。

「もう今更いいじゃない。だって浅野さんは退職するんだから」

「そうなんだけど……」

浅野さんは明日で退職する。いつかは実家の経営を手伝うつもりだったのを遂に決めたようだ。

「今日はどっちに帰るの? 自宅? それとも浅野さんの家?」

「あ……さのさんの……家です……」

小さく言って照れる私に潮見は更にニヤニヤと笑う。

まだ完全に風邪が治らない浅野さんが心配でマンションに行ったまま泊まることが多くなった。いつの間にか浅野さんの部屋には私の着替えや私物が増えて、半分同棲しているようなものだ。

「美紗ちゃんも寿退社しちゃうの?」

「それはないよ。結婚なんて全然……」

きっと浅野さんは結婚なんて考えていないと思う。慎重になるだろうし、私だって結婚にこだわらなくてもこのままで十分だから。

「そう。まあ美紗ちゃんが辞めちゃったら寂しいからね」

心からそう言ってくれる潮見の存在がありがたい。私だって潮見と離れるのは寂しい。仕事も恋愛も順調で友達がいて、私はこれ以上望む必要はない。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



段ボールに囲まれた部屋で主不在のソファーに座って待っていると「ただいま」と玄関から声が聞こえた。

「おかえりなさい」

そう声をかけて立ち上がると鍋を火にかけた。
コートを脱いでカバンを置いた浅野さんはキッチンで夕食の準備をする私の後ろに立った。

「別にいいのに、ご飯なんて作らなくても」

「浅野さんは放っておくとコンビニ弁当かカップラーメンしか食べないからだめです」

「優磨のカフェに行くからいいよ」

「優磨くんがあのお店を辞めても通います?」

「………」

「引っ越し先からも通います?」

「………」

私の質問を無視して冷蔵庫から缶ビールを2本出した。テーブルに置いて箸やお皿を出し始める。その様子にこっそりと笑う。彼は言い返すこともしないで、時には私の言うことを聞いてくれるようにもなった。

優磨くんは就職するからカフェを辞めてしまうし、浅野さんは来週引っ越す予定になっている。実家のパン屋の経営を手伝うことにはしたけれど、実家に戻ることはしないで近くに別の部屋を借りて住むようだ。
隣県に行ってしまうし職場も変わってしまうから今までのように頻繁に会うことは叶わない。きっと休日もお互いに違う曜日だろう。

「どうせ引っ越したらまたコンビニ弁当生活だから」

「そこは実家に何とかしてもらってください」

こんな会話をしたって彼の口から『作りに来て』とも『一緒に住もう』とも言われない。その事について話し合ったことはない。遠距離恋愛になってしまうことについて浅野さんから何かを言ってくれるまで私からは言えないし、新しい生活を始める浅野さんの負担になるつもりもない。

「よかったです。これからは浅野さんが倒れても看病してくれるお母様や妹さんが近くにいますもんね」

「もう倒れるまでは働かないよ。今は退職準備で忙しいだけだから」

「そうですね……」

自分でも驚くほど暗い声が出た。
退職日はもうすぐだ。浅野さんにとっては居心地の悪いかもしれないこの部屋も、私にとっては特別な空間だった。
鍋の味噌汁をかき混ぜる私の後ろから浅野さんが抱き締めてきた。

「浅野さん?」

「もう足立さんのご飯を食べることも少なくなるね」

「全くなくなるわけじゃないって思ってもいいですか?」

不安だった気持ちをぶつけた。私との時間も忘れないでほしい、なんてワガママだと思われるかもしれないけど。

「考えてるよ」

浅野さんが私の耳元で囁いた。

「足立さんのこと、ちゃんと考えてるよ」

「……はい」

焦らせたりしちゃいけない。今までとは違うんだ。浅野さんは私のことを大事にしてくれてるってちゃんと伝わるのに。

「食事よりも大きな問題があるよ」

「何ですか?」

「もう足立さんを抱く機会が減る」

「はい?」

浅野さんの唇が私の右耳を優しくかじった。

「あっ、ちょっと浅野さん!」

唇が啄むように耳を犯して徐々に首へと下がってくる。手がシャツのボタンを外し始めた。

「浅野さん! ご飯が……鍋に火がついてますから……」

「じゃあそっちは後」

浅野さんの手がコンロの火を消すとそのまま私の膝の裏に腕を入れて一気に持ち上げた。

「わっ! 浅野さん!」

両腕に抱えられてキッチンから連れ出される。

「浅野さん!」

こうやって運ばれることに慣れないから浅野さんの首に腕を回してしがみついた。

「夕食よりも先にこっち」

寝室のベッドに下ろされるとそのまま夕食のことなんて忘れてしまうくらいに浅野さんに体中を撫で回され、お互いに甘い吐息が混ざり合う。

このまま浅野さんと一緒に居たい。離れたくない。でもそれを言ってこの人の重荷にはなりたくない。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



「ありがとうございました」

店員に見送られてオフィス街の一画にある花屋から花束を抱えて出た。花束は黄色やオレンジ色が中心で丸みがある。浅野さんに渡すために用意したこの花束はイメージとは真逆で可愛らしい。前もって注文した今江さんがきちんとイメージを伝えなかったのかもしれない。
このまま浅野さんの送別会をやるお店に歩いていく。ブックカフェの前を通るとウェルカムボードを書き換える優磨くんがいた。

「あ、美紗さん!」

「お疲れ様」

私の姿を見るなり書きかけのボードを忘れて笑顔を見せてくれる。揺れる尻尾が見えてきそうなほどに。

「これから送別会に行かれるんですか?」

「そうなの。通りの向こうのもつ鍋のお店だよ」

「わあ、そこ美味しいんですよね。楽しんできてくださいね。慶太さんをよろしくお願いします」

「うん。また来るね」

優磨くんに手を振って歩き出した。



信号を渡り、会社の前を通ったとき

「美紗ちゃん」

聞き覚えのある声に足が止まった。会社の前に設置されたガードレールの上に美麗さんが座っていて驚いた。

「美麗さん……どうしてここに?」

確か優磨くんに監禁に近い状態で家にいると聞いたのに。私の質問に答えずガードレールから下りて近づいてくる美麗さんに自然と身構えた。

「美紗ちゃんも慶太と同じ会社なんだってね」

「……はい」

「それも狙ったの? 慶太に近づくために」

「ち、違います。偶然です!」

思わず声を荒らげた。美麗さんに言われること全てが責められているように感じてしまう。

「親に頼んで美紗ちゃんが城藤の会社に入れるようにお願いしようと思ってたんだけど、美紗ちゃんは大手に実力で入れるんだもんね」

「………」

「美麗が何もしなくたって、いつだって美紗ちゃんは要領よく生きられるんだよ」

美麗さんが発する言葉全てが嫌みに聞こえる。

「美麗ね、今日は慶太に会いに来たんだけど」

「………」

「ここに連れてきてくれないかな? 美紗ちゃんは美麗の友達だよね。いつも美麗のことを考えてくれたもの」

目の前に立つ美麗さんは高圧的だ。その態度は過去の美麗さんとはもう違ってしまった。目には生気がなくて顔色が悪い。全てを手に入れられると豪語していた頃の面影はないけれど、今でも欲しいものは必ず手に入れる気なのは同じだろう。

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