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「慶太にもう美麗を好きになれないって言われたの。わざわざ美麗の家に来て親の前でもそう言った」
「え?」
知らなかった。浅野さんはいつの間に城藤の家に行ったのだろう。
「もう慶太に関わっちゃだめだって。親にも優磨にも言われたの。でも美麗には慶太だけなの」
「できません……浅野さんを美麗さんには会わせられません……」
私の声は震えていた。目の前の華奢な女が怖かった。この人は何を仕出かすのか分からない。
「美麗を幸せにできるのは慶太しかいないの」
「それは違う……」
「慶太なら美麗を守ってくれるの。消えたりしないの。裏切ったりしない……」
「それは美麗さんが言う言葉じゃない……」
消えたのはどっちだ。裏切ったのは誰だ。
この人はいつも誰かに求めるだけで、自分からは何も与えない。幸せにしてほしいと願うばかりで周りを不幸にしていく。
「美紗ちゃんが美麗をこんなにしたくせに!」
突然叫んだ美麗さんに驚いて通行人が私たちを見て不審な顔をして通りすぎていく。
「美紗ちゃんが邪魔しなければ慶太と赤ちゃんを育てていけたのに! 今だって幸せでいられたのに! 慶太に愛されなかったから赤ちゃん死んじゃったの! 美麗ばっかり傷ついて!」
言っていることが支離滅裂だ。背中から寒気を覚える。
「全部美紗ちゃんのせいなんだから!」
叫びながら美麗さんが一歩後ろに下がった。
「美麗は美紗ちゃんが羨ましかった。自由で、好きな人と一緒になれて……」
それは違う、と美麗さんの言葉を遮った。
「羨ましかったのは私の方です」
優れた容姿、欲しいものは何でも手に入る家庭環境、努力しなくても開けた未来が。
「美麗さんが眩しくて、私は劣等感を抱えていました」
「皮肉だね。今は美紗ちゃんの方が全てに恵まれてる気がするよ」
「………」
美麗さんはまたも後ろに下がった。
「ねえ美紗ちゃん、慶太を返して」
「できません……」
「美紗ちゃんは一人でも大丈夫。でも美麗には慶太が必要なの」
美麗さんは真面目な顔をしているけれど目が怖い。
そうしてまた一歩後ろに下がった。ガードレールの切れ間へと徐々に体を移動させている。
「美麗さん?」
嫌な予感がして名を呼んだ。このまま後ろに下がったら道路に出てしまう。
「美紗ちゃん、慶太を返して」
また同じ言葉を繰り返す。
「……で……きません」
「そう……なら美麗は死ぬから」
血の気が引いた。
「美麗さん……何を言ってるの?」
美麗さんはガードレールを越えて道路に出た。
「美麗さん!」
美麗さんのすぐ後ろを車が通過した。後続の車も接触するギリギリになるとクラクションを鳴らして走り過ぎた。
このまま下がり続けたら車とぶつかる。焦った私もゆっくりとガードレールに近づいた。
「美麗が死んだら慶太は美麗のものだよ」
「どういう意味ですか?」
「死んだら慶太は一生忘れない。慶太の心は永遠に美麗のものだよ」
「やめて!」
私の叫びはクラクションにかき消された。そんなことをしたら浅野さんは一生立ち直れない。
美麗さんはじりじりと道路に足を出していく。複数の車が連続してクラクションを鳴らしては走り去っていく。その様子に私の後ろには何人かが立ち止まって集まってきた。
「美麗さん!」
「もうこれしかないの……」
美麗さんがもう一歩足を後ろに出した瞬間に私も駆けた。花束を左腕で抱え、右手で美麗さんの腕をつかんで引っ張るけれど、足を踏ん張った美麗さんはその場から動かない。
「放して!」
「だめです! 放しません!」
「嫌だ!」
私の腕を振り払って道路の真ん中に飛び出した。
「美麗さん!」
私も焦って飛び出した。花束を放り投げ、両腕を美麗さんの腰に回して引っ張った。左足を軸に体を捻って美麗さんをガードレールまで投げるように振り回し腕を放すと、美麗さんは歩道のそばに転がり手をついて倒れた。私も歩道に戻ろうとした瞬間に顔にライトが当たるのを感じ、クラクションが至近距離で聞こえた。避けようとしたときにはもう遅く、車は目の前に迫ってきた。
走っても間に合わない。私は地面を蹴った。足に衝撃を感じたのと同時に美麗さんの前に転がった。激痛を感じて意識が薄れていく。目を閉じる前に地面に落ちた花束の鮮やかな黄色やオレンジが目に焼き付いて、そのまま意識を失った。
体に重みを感じて目が覚めると真っ白な天井が見えた。
「足立さん!?」
すぐ耳元で聞こえた声に頭を動かした。
「足立さん! よかった……」
「美紗さん!?」
「あの……ここは?」
自分の口から出た声が掠れて弱っていることに驚く。
「っ!」
体を動かそうとするとあちこちが痛み、左足は特に痛んだ。顔に違和感があり手で触るとガーゼのようなものが貼られていた。
「わたし……どうして?」
私の胸の上からぎゅうぎゅうと抱き締めてくるのは浅野さんだ。
「慶太さん、そんなに締めたら美紗さんがまた気を失っちゃうから」
優磨くんが横に立って私に抱きつく浅野さんを見下ろして呆れている。
「ゆうまくん……」
「ここは病院ですよ」
「病院……?」
視界がはっきりしてきて見回すと確かに病室のようで、私はベッドに寝かされている。
「浅野さん……起きたいです……」
「まだ無理しない方がいい」
顔を上げた浅野さんが心配そうな声を出したけれど「大丈夫です」と手で支えて体を起こした。浅野さんは私から体を離しても手を添えてくれた。
「私、何があったんですか?」
「君は美麗を庇って車と接触したんだ」
「え! それはびっくりです……」
必死だったから状況を理解できない。自分がここにいることも他人事のように感じた。
「それはこっちのセリフだよ。連絡がきたときは驚いた」
まだはっきりしない頭で記憶をたどり、美麗さんのことを思い出した。
「美麗さんは? 無事ですか?」
「………」
「大丈夫です。今は家にいます。親と使用人がしっかり監視してるので」
浅野さんは黙ったまま、私の質問には優磨くんが答えてくれた。
「そう……よかった」
「よくない! どうして無茶をするんだ君は!」
突然の大声に体を震わせた。
「骨にヒビが入っただけで済んだからよかったものの、車とまともにぶつかっていたら死んでたかもしれないんだよ!」
浅野さんの顔は真っ赤で、目も潤んでいるような気がする。
「すみません……」
骨にヒビ……だから激しい痛みを感じたわけだ。今左足は固定されて簡単には動かせそうにない。痛みで気を失うなんて恥ずかしさが込み上げる。
「まぁまぁ慶太さん、美紗さんは姉を助けてくれたわけですし」
「それでも足立さんが怪我したら意味がないんだ……」
浅野さんは眉間にシワを寄せて苦しそうに呟いた。
「ごめんなさい……ご心配をおかけしました」
「美紗さんが謝ることはありません。悪いのは姉ですから。美紗さん、慶太さん、本当にすいません」
優磨くんは私と浅野さんに向かって頭を下げた。こうして何度優磨くんは浅野さんに謝ってきたのだろう。
「優磨くんが謝ることじゃないよ」
「でも身内の問題に二人を巻き込んでしまいました……」
「いいの。私だって美麗さんを傷つけてきたんだから」
これで両成敗だ。もうお互いに傷つけ合うことがないのなら、それに越したことはない。
「いずれ両親が謝罪したいと言っていました。落ち着いたら文句の一つでも言ってやってください」
「そんな……文句なんて……」
「姉を部屋に閉じ込めたことに安心して、目を離した隙に逃げられたことにもしばらく気づかなかったんです。うちの親にも過失がありますから」
閉じ込めるだなんて美麗さんには無理な話だ。そんな美麗さんのご両親はどんな人なのだろう。
「あ! そういえばお母さんに連絡しないと。私こんなんじゃしばらく入院ですか?」
「大丈夫です。美紗さんのお母さんは今着替えを取りに行ってます。でも入院は数日だそうですよ。ヒビだって少し入ったくらいで、それ以外はどこにも異常はないそうです」
「よかった……」
「本当に驚きました。サイレンの音がすごいんで店長に言われて見に行ったら早峰フーズの前で美紗さんが救急車に乗せられてるところで、そばには姉もいたし……」
「美麗さんは大丈夫?」
「はい、泣いてはいましたけど。救急車に乗せられる美紗さんに何度も謝ってました」
気絶して記憶がないけれど、美麗さんに怪我がなくて私も命があったことは奇跡だ。
「優磨、足立さんと二人で話したいんだ」
ずっと黙っていた浅野さんが口を開いた。
「あ、はい、すいません。詳しいことはまた連絡しますから」
浅野さんが無表情なことに慌てて優磨くんは病室から出ていった。二人きりになっても病室は静かなままだ。
「浅野さん?」
「どうして美麗の心配までするんだ!」
「え、あの……」
突然怒りだした浅野さんに戸惑った。
「優磨から連絡が来たときどれほど心配したか!」
浅野さんの目は完全に潤んでいる。今にも涙が溢れそうなほどに。
「ごめっ、ごめんなさい……だって……」
私も涙が急に溢れ出て嗚咽を堪える。
「もし美麗さんが死んじゃったら浅野さんは一生苦しむから」
「………」
「浅野さんには幸せになってほしいんです」
自分のせいで人が死んだとしたら、浅野さんが悪いわけじゃないのに苦しみ続ける。そんな重荷を背負う必要なんてないから。
浅野さんの腕が私を包んだ。
「足立さんが死ぬかと思ったよ」
ベッドに腰かけ私の肩を抱いて首に顔を埋めた。
「僕のそばから離れないって言っただろ」
「はい……」
私も腕を浅野さんの腰に回した。
「君がもう目を覚まさないかもなんて思ったら……」
骨にヒビくらいで大袈裟だ。それでも浅野さんにとっては大変なことなんだ。
「ごめんなさい……」
私は何度も何度も浅野さんを不安にさせる。
「浅野さんの前からいなくなったりしません」
「ちゃんと信じさせてよ」
「はい……」
浅野さんが顔を上げたから私も顔を横に向けて目を閉じた。そうして優しく重なった唇は熱くて、触れた頬は浅野さんの涙で濡れていた。