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「ありがとうございました」
マンションの前まで送ってもらい、直矢さんの車から降りようとしたとき「美優」と呼び止められた。
「会社では僕たちのことは秘密にしておきましょう」
「ああ、そうですね」
バレてもいいけれど恋人同士という印象が仕事に影響するのは嫌だった。
「今だけですよ。いずれきちんと上司にも報告しましょう。僕は真剣ですから」
「はい」
直矢さんの気持ちは十分伝わっている。私がどれ程大事にされているか。仕事に真摯な直矢さんだからこそ今は内緒にするのだ。
「それから、何かやることがありませんか?」
「やること……ですか?」
「そうですよ、大事なことです。今なら誰も見ていない」
そう言われて思い当たることはある。けれどいきなりその状況になったら戸惑ってしまう。
「美優、次は美優から求めてほしいと僕は言いましたよね」
直矢さんは意地悪く私の顎に指をかけた。
「あ……でも……」
「それとも、美優はまだそんな気にはなれませんか?」
直矢さんの表情が暗くなるものだから私は焦った。
「そんなことないです! したいです!」
そう言ってはっとした。直矢さんがまたいたずらが成功したというような顔で笑ったから。
以前「次は戸田さんの方からキスを求めてほしい」と直矢さんは言った。それに対して「絶対に求めません!」と言ったのに、今私は直矢さんとのキスを望んでいる。
「美優、言って」
「直矢さん……キス……してください…」
「よく言えました」
直矢さんは運転席から助手席に身を乗り出し、唇が私の唇に優しく触れた。角度を変えて何度も触れ合う唇の感触に思わず吐息がもれた。そうして直矢さんの唇が名残惜しそうに離れていく。
「今日はこのくらいにしておきましょう」
放心状態の私の頬に直矢さんは手を当てた。
「次はキス以上のことを求めてほしいですね」
私は顔が赤くなる。
「私からは絶対求めません!」
「その強がりはいつまで続くでしょうね」
直矢さんは不敵な笑みを浮かべた。
「直矢さんはこんなキャラでしたっけ?」
もっと控えめで温厚な人だったはずなのに、いつも以上に大胆な直矢さんに戸惑ってしまう。
「好きな人にはこうなんですよ。もっと強引なときもあるし、たくさん甘やかしますよ」
そう言った笑顔が今までの直矢さん以上に色っぽさを纏っていた。この人に甘やかされたら自分が子供のようにワガママになってしまうんじゃないかと怖くなるほどに。
「そ、それじゃあ失礼します」
私は直矢さんの車から逃げるように降りた。
「それではまた明日」
直矢さんは私に手を振ると車を走らせ道路を曲がっていった。車はもう行ってしまったのに私は道の先を見つめていた。
胸が締め付けられたように苦しくて、直矢さんの気持ちが嬉しくて愛しかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「では僕は打ち合わせがあるので戸田さんはこの店舗沿いの写真を撮ってください。あとで企画書に貼りつけますから」
「わかりました」
私はデジカメを構えて直矢さんから離れて街の写真を撮り始めた。
毎年オフィス街の中にある企業や有名店舗の集まる銀翔街通りで行われる七夕祭りのプロデュースが今年は直矢さんの担当になった。営業部にとって大きなプロジェクトを任されるということは、直矢さんが今後も出世を約束されているようなものだ。部長が担当した去年の案を元に今年はより豪華な飾りつけにしようと直矢さんは考えているようだ。
直矢さんと恋人同士になってから職場では今までと変わらず『戸田さん』『武藤さん』と呼び合っている。仕事が早く終われば食事にいくことはあるけれど、未だにキス以上の恋人らしいことはしていない。
街路樹の位置と歩道の幅が分かりやすいように写真を撮り、飾りをつけても落ちないであろうしっかりした街頭を撮った。
直矢さんは銀翔街通りで1番大きな店舗の担当者と打ち合わせをしている。
「武藤さん、通りの端からの写真は一通り撮りました」
「では今から連合会の広報の方がいらっしゃるそうなので戸田さんも一緒に同席してください」
「はい」
「ああ、いらっしゃいました」
店舗担当者の声で振り返ると1人の女性が私たちの元に歩いてくる。すらりとしたパンツスーツの女性の顔がはっきり見える位置まで来たとき、横に立つ直矢さんが息を呑んだのがわかった。
「初めまして、銀翔街通り連合会広報の堀井愛美と申します」
挨拶した女性が直矢さんの顔を見た瞬間目を見開いた。
「なおや…?」
直矢さんの名を呟いたことに今度は私が驚いた。
「直矢が担当なの?」
「愛美?」
直矢さんも女性を見て目を真ん丸に見開いている。
「あの……お知り合いですか?」
私は微妙な空気になった2人の間に割って入った。
「ええ……まあ……」
「僕の大学の同期生ですよ」
直矢さんは私の顔を見ないでそう言った。その態度に私は嫌な予感がした。
「お久しぶりです」
「はい……お久しぶりです」
直矢さんの挨拶に愛美と呼ばれた女性も笑顔を作った。
「早速ですが打ち合わせをしましょう。事務所にご案内いたします」
「よろしくお願いします」
前を歩き出した愛美さんの後ろから直矢さんが歩き出した。私はそんな2人に違和感を覚えながらもそれ以上追求をしなかった。
打ち合わせは滞りなく進み、事務所の前で愛美さんに見送られた。
「そうそう、パレードを例年より長くやるということでしたらここの駐車場を待機場所として提供します」
愛美さんの申し出に直矢さんは「ありがとうございます」と無表情で言った。
「戸田さん、ここの駐車場も念のため写真をお願いします」
「わかりました」
私は駐車場の写真を撮るため2人から少し離れてカメラを向けた。
「元気そうでよかった」
背後で愛美さんが直矢さんにそう言うのが聞こえた。
「どうしてるかなって思ってたの」
「今まで僕のことを気にかけたことなんてなかったのに?」
直矢さんの珍しく怒りのこもった声に思わず振り向いた。
「離れたから気づいたことだってあったのよ」
愛美さんは直矢さんを悲しげな表情で見つめている。けれど直矢さんは愛美さんの顔を見ないで足元を見ていた。
「ねえ直矢、こんなときに言うことじゃないんだけど、今日会ったのも意味があると思うの」
「堀井さんとなら良い仕事ができそうな気はします」
「愛美って呼んでくれないの?」
「今仕事中だよ」
私はじわじわと不安が湧き上がる。愛美さんが直矢さんに対してどういう思いを抱いているのかはこの短時間でもわかってしまうのに、直矢さんは気づかないふりをしている。まるで愛美さんを嫌悪しているようだ。2人が過去にどんな関係だったのかが理解できてしまい、私はその場から動けなくなった。じっと見つめることしかできないまま。
「私、後悔してる……」
「何を今さら」
直矢さんは鼻で笑った。こんな冷たい態度の直矢さんを見るのは久しぶりだ。まるで私を避けていたときのようだ。いや、それ以上に愛美さんに敵意を見せているように思える。
「武藤さん!」
これ以上直矢さんを見ていられなくて私は思わず大きな声で直矢さんを呼んだ。
「どうしました?」
直矢さんは私を見た。その顔はいつも私を見る穏やかな表情だった。
「あの、写真撮り終わりました……」
「そうですか。じゃあ会社に戻りましょう」
直矢さんは再び愛美さんに向き合った。
「それでは来週から飾りつけの立ち会いをよろしくお願い致します」
「よろしくお願い致します……」
「行きましょう戸田さん」
直矢さんは愛美さんに背を向けて歩き出した。私は愛美さんに「失礼します」と言って直矢さんを追った。愛美さんは何かを言いたげに最後まで直矢さんを見ていた。