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「じゃあ契約書を確認して、大丈夫なら先方に連絡しといて」
「かしこまりました!」
山本さんから書類の束を渡され私は機嫌よく満面の笑顔で承諾する。
「戸田さあ」
「はい」
「何かいいことあった?」
「え? どうしてですか?」
山本さんの不審な顔にも笑顔を崩さず聞き返す。
「最近の戸田は機嫌がいいから」
「ああ……」
機嫌がいいと言われ思い浮かぶのは先日正広と勢いに任せて久しぶりに身体を重ねたことだ。その嬉しさから仕事にまで充実感を得られるようになった。
「その……まあ色々と」
「男?」
「まあいいじゃないですか」
「ふーん。髪を染めたのもそのせい?」
昨日の仕事帰りに髪を明るく染めた。でもそれは正広の影響ではない。
「これはただの気分です。変ですか?」
「いや、明るめの茶色で戸田に似合ってるよ」
「ありがとうございます。根本が黒くなってましたし、どうせなら明るくしようと思って」
「あっそ。まあ理由はなんであれやる気が出るのはいいことだけど」
「そうですね……はは」
彼氏とのセックスで浮かれています、なんて正直に言えるわけがない。男のせいでやる気を左右されるなんて単純だと思うけれど、プライベートが順調なら仕事にだって身が入る。
関係が悪化することを恐れていたのに恋人らしい行為ができたことが私にとっては大きかった。
「山本さんコーヒー飲みます? 今淹れるんですけど」
「いや、俺はいいや。今から現場に行ってくるから。戻りは遅くなるから定時になったら戸田は上がっていいよ」
「了解です」
マグカップを持ちながらエレベーターに乗る山本さんを見送ると給湯室に入った。
お湯が沸いたことを知らせる電気ポットのカチッと音がしたのと同時に給湯室のドアが開き私は目を見開いた。今1番会うことを恐れている武藤さんが入ってきたのだ。
「あ、お疲れ様です」
「……お疲れ様です」
武藤さんの挨拶に私は小さい声を出すのが精一杯だった。無理矢理キスされて以来武藤さんとはほとんど会話をしてこなかった。こうして給湯室で2人きりになることは恐怖でしかない。今すぐに出ていきたいけれどドアは武藤さんの体で塞がれている。
「………」
「………」
目を逸らし下を向いて無言になる私を頭1つ分背の高い武藤さんも無言で見下ろしている。
「そうだ、そろそろ田中さんも交えて本格的に引き継ぎをしましょう」
「………」
「戸田さんはいつなら都合がいいですか?」
「………」
「山本くんも今忙しいから戸田さんも忙しいですか?」
「………」
何を聞かれても声が出ない。自分の手が小刻みに震えてきたのがわかった。目の前の武藤さんの存在が怖くて不快だった。
武藤さんは不審な態度に首を傾げながら手に持ったマグカップを私の前に差し出した。
「コーヒーでしたら僕の分もついでに淹れていただけますか?」
「ああ……はい」
武藤さんのカップを恐る恐る受け取るとスプーンでインスタントコーヒーの粉を入れた。手の震えが治まらず粉がカップからこぼれた。
「お、お砂糖とミルクは……入れますか?」
「ブラックで大丈夫です」
カップにお湯を注ぐ私の横で武藤さんはじっと立っていた。以前から特に話す話題もなかった武藤さんと狭い給湯室にいることが気まずくて息苦しい。
「……戸田さん、髪染めました?」
突然武藤さんが話しかけてきた。
「ああ、はい……昨日」
「その色、よく似合っています」
褒めてもらえるとは思わなくて顔を少しだけ上げた。武藤さんの顔を見ないように胸で視線を止めた。
「あ、ありがとうございます……」
スプーンでコーヒーを混ぜながら内心動揺している。
今までの武藤さんは私に話しかけてくることすらあり得なかった。本当に、この間からの武藤さんはどうかしている。褒められて悪い気はしないけれど今の私は素直に受けとることができない。
「どうぞ……」
武藤さんにカップを手渡した。
「ありがとうございます……」
武藤さんの指と私の指がほんの少し触れた。それだけで私はビクッと手を震わせた。揺れたカップからコーヒーがこぼれて武藤さんの手にかかった。
「すみません!」
慌ててタオル掛けから布巾を取った。
「いいです、大丈夫ですから」
武藤さんは穏やかに言うけれど私は焦る。武藤さんの手を拭こうとするけれど手が止まる。また手を近づけるのが嫌だと思ってしまった。そんな私に戸惑いつつも武藤さんは「自分で拭きます」と反対の手を開いて私の前に差し出す。恐る恐るその手の上に布巾を載せた。武藤さんの顔をちらりと見ると困ったように引きつった笑顔を浮かべている。
「……すみません」
声を絞り出して給湯室を出ようと武藤さんの横に一歩踏み出した。
「あの、僕戸田さんを不愉快にさせることをしましたか?」
突然の言葉に体を強張らせた。
「僕のこと避けてますよね?」
「………」
図星だ。けれど正直に「そうです」とは言えない。武藤さんの顔は焦っている。その顔を見て緊張が解れて怒りが込み上げるのを感じた。
「覚えていないんですか?」
自分でも驚くほど低い声で武藤さんを責めた。
「あの……すみません……覚えがなくて……でもすみません!」
武藤さんは訳がわからないなりに私に謝罪の言葉をぶつける。けれど私は簡単には許せない。普段の精神状態なら優秀な武藤さんが困っている顔を見るのは優越感を得るところかもしれない。それにキスをされたら舞い上がるのだろう。けれど私は怒っている。
「………」
「すみません……戸田さんが黙りこんでしまうほど失礼なことをしたのですね……」
武藤さんの表情は今何を考えているのか面白いほど分かりやすい。私が何に怒っているのかわからない焦り、無言を貫く私への不安、その思考が眉や唇の動きでわかった。
「………」
「………」
狭い給湯室に無言でいるのはお互いに辛かった。
目の前の本人に無理矢理キスされたなんて言えるわけがない。信じてもらえないだろうし、そんなことはしていないと言われたら私だって証明できない。
「戸田さんは僕のことが許せませんか?」
「………」
尚も黙る私に武藤さんの顔色はどんどん悪くなる。再び何かを言おうと武藤さんが口を開いた瞬間私は武藤さんを押し退けて給湯室を飛び出した。
「戸田さん!?」
武藤さんが驚いて名を呼んだけれど無視して通路の奥の扉から非常階段に出た。
これで完全に武藤さんとの関係が拗れた。階段に座り込んで溜め息をついた。
セクハラされたと思っている私と、避けられる理由がわからない武藤さん。これでは一緒にいるだけで辛い。
武藤さんは自分が何をしたかを一切覚えていないようだ。そこまで酔うなんて憎たらしい。私だけが傷付いて悩んでいるのに向こうは何も覚えていないなんて許せない。あんなに傷つけておいて腹立たしいし、本当は謝罪をしてほしい。でも私に近づいてほしくない。それならもう私が勝手に無かったことにして、このまま不機嫌な態度で彼に接していくのが一番いいではないか。
まだすぐ近くにいる武藤さんの存在が怖くて、どうしたらいいのかわからなくて、私はしばらく非常階段の踊り場から動けないでいた。