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タイムレコーダーにカードを挿入して打刻すると会社を出た。正広の顔が見たくなったので家に行ってみようと思っていた。急に連絡をして正広も困るかもしれないけれど、明日は休日だしそのまま家に泊まるのもいいかもしれないと思っていた。
「戸田さん!」
駅までの道を歩いていると後ろから呼びかけられた。振り返ると武藤さんがこっちに向かって走ってくる。その姿に私は身構えた。逃げようと思ったときには追いついてしまった。
「お……お疲れ様、です……」
武藤さんは息を乱しながらもう見慣れた困ったような笑顔で私の前に立った。
今すぐここから逃げ出したい衝動にかられたけれど、必死で追いかけてきた武藤さんから逃げるのはさすがに悪い気がしてしまう。
「お疲れ様です……はぁ……」
武藤さんは髪を乱して顔が赤くなっている。息を整えるために深呼吸して、言葉を発することなく私の前に立ち続ける。乱れた髪と上気した表情は絵になった。嫌いなはずなのに見惚れてしまう。イケメンというのは存在自体がずるい。
「大丈夫ですか……?」
武藤さんの様子に思わず心配になって声をかけた。
「すみません……もう大丈夫です」
「武藤さん、髪乱れてます……」
「ああ、すみません」
慌てて手で髪を整える武藤さんは焦っている。仕事は完璧で自分を格好良く見せることに慣れていそうなのに、今の武藤さんはいつもと違う。
「なにかご用ですか?」
相変わらず私の武藤さんに対する声音は低い。その声に武藤さんも表情が暗くなる。
「あの、これ……」
武藤さんはカバンの中からラッピングされた袋を出した。
「ホワイトデーのプレゼントです」
「え……」
目の前に差し出されたのはピンクの布に赤いリボンがかけられた私の手のひらよりも少し大きい箱だ。
「渡すのが遅くなってすみません。最近タイミングがつかめなくて」
「わざわざありがとうございます……」
意外なプレゼントを恐る恐る受け取った。
「こちらこそ、バレンタインありがとうございました」
武藤さんは寒いからか更に頬を赤くして強張った笑顔を見せた。私はそんな武藤さんに笑顔を返すことができない。こうしてホワイトデーのお返しをもらったことにお礼は言うけれど、武藤さんには何も感謝はしていない。敵意すらある。
「では、お疲れ様で……」
「戸田さん」
「はい?」
帰ろうとする私を武藤さんは引き止めた。
「お願いします。戸田さんの正直な気持ちを聞かせてください」
武藤さんの顔は必死だ。私はその場から動けなくなった。
「僕は戸田さんに何をしてしまったのでしょうか?」
「………」
武藤さんが今も理由を知りたがっていることにうんざりした。私の口から言いたいことではないのに。
「しつこく食事に誘ったことがいけなかったでしょうか?」
私は首を振った。
「戸田さんに振った仕事が不満ですか?」
再度首を振った。完全な引継ぎ前で今は大した仕事は武藤さんから任されていない。
「ではどうしてでしょう? これから組んで仕事をしようというのに戸田さんとこんな関係では辛いです。理由があるなら今のうちに教えてください。このままでは僕は参ってしまいます。バレンタインをいただいたのにホワイトデーのお返しが遅いから怒っているのかとさえ思うようになってしま…」
「じゃあ言いますけど!」
武藤さんの言葉を遮って私は大きな声を出した。
「社員旅行のときのこと、武藤さんは覚えていますか?」
「いえ……すみません……」
武藤さんは私の勢いに驚いている。
「酔った武藤さんを私が部屋まで連れて行ったことは?」
「え? そうなんですか? あの……全然」
「でしょうね」
冷たく吐き捨てる私に武藤さんはどんどん表情が暗くなる。睨みつける私に「すみません」と小さく呟いた。
「あ!」
武藤さんは何かを思い出したような声を出した。
「戸田さんと歩きながら話をしたことはわずかに覚えているんですけど……夢かと思っていました」
「歩きながら話をした、それだけですか?」
「山本くんに起こされるまで部屋の玄関で寝ていたみたいで……」
「それだけですか?」
「すみません……」
武藤さんは困っている。私はいつも完璧な武藤さんが困っていることをいい気味だとさえ思った。
「武藤さんは私に……私に……」
怒りで肩が震えてきたけれどそれ以上は言えなくなってしまった。
「戸田さんが僕を部屋まで……」
そう呟いた武藤さんははっと気づいたように目を見開き、私を凝視した。
「僕はもしかして……すみません!」
武藤さんは慌てて深く頭を下げた。私がその先を言わなくても何があったのかを武藤さんは察したようだ。
「僕は何てことを……本当にすみません!」
いったいどんなことがあったと想像しているのかはわからないけれど、腰を深く曲げて謝罪を繰り返す武藤さんは顔面蒼白で、心から申し訳ないと思っているようだ。
「僕はなんてことを……大変なことを……」
あまりにも武藤さんが青ざめるものだから、被害者と言えなくもない私は思わず口を開いた。
「あの、私に何をしたと思ってます?」
「僕は戸田さんを部屋に連れ込んでしまったのですよね?」
「まあ……そうと言えばそうなりますね」
「はぁ……」
武藤さんは深い溜め息をついた。繰り返し「すみません、すみません」と呟く。このままでは土下座をしそうな勢いで。
「あの、たぶん武藤さんの想像とは違います……」
「え?」
もっと最悪のことを想像していそうな武藤さんに私の方が慌て始める。
「強引でしたけど……怖かったですけど……武藤さんの思う最悪の状況ではなく……き……」
「き?」
「首に……」
「首に?」