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私の体は恐怖で震え、頭は怒りでいっぱいだ。武藤さんの唇に吸われた首と、重なった自分の唇が不快で浴衣の袖でゴシゴシと擦るとそれぞれ痺れて痛みを伴う。
なぜ武藤さんにこんな仕打ちをされなければいけない。酔って具合が悪そうなのを介抱しただけだ。何も悪いことをしていないのに。
「まさひろ……」
そう呟いてバッグからスマートフォンを出して正広に電話をかけた。数十秒のコールに正広が応答することはなく、留守番電話に切り替わってしまった。
「うっ……」
頬を止めどなく涙が伝う。辛いとき、苦しいときに恋人の声が聞けないことがより一層私を惨めにする。
キスをしたのはいつ以来だろう。それが恋人の正広ではないことが悔しくて悲しい。
武藤さんに話しかけなければよかった。近づかなければよかった。もう武藤さんには関わりたくない。一緒に働くことなんてできない。今のはセクハラだ。本当に許せない。訴える、部長に訴えて辞めさせる!
理不尽な出来事をいかに会社に訴えて武藤さんに復讐するか、私は必死でその事だけを考え意識を失った。
翌朝、鏡で首の吸われたところを確認するとほんのり赤い気はするけれど目立たない。強く吸われなくてよかった。
集合場所である旅館の駐車場で武藤さんを見つけても目を合わさないようにし、その1日は武藤さんの視界に入らないよう隠れるので精一杯だった。
バスの車内では離れた席に座り、最終目的地の水族館に着いても具合が悪いからと嘘をついて私だけバスに残っていた。
私のことを気にしているのかいないのか、武藤さんは視線を向けてくるけれど吐き気を覚えるのだ。
襲われた証拠である私の首筋はもう何の痕跡もない。もっと必死で抵抗して武藤さんに傷でも残しておけばよかったか。噛みついて傷を残せば周りにも明らかに何かあったと分かってもらえたのに。今なら色々と抵抗する方法はあったと思えるけれど、あの時は怖くて何も考えられなかった。
気持ち悪い。悔しい。
その内本当に具合が悪くなってきた。
もう嫌だ。絶対に武藤さんに関わらない。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
土日の社員旅行を終え月曜にはやる気がないと思われる社員が多かった。私もその1人で、出社した直後からあくびが出てしまうほどだ。
フロアのドアの横に置かれたタイムレコーダーにカードを挿入すると武藤さんが出社してきた。
「おはようございます」
私に向かって笑顔で挨拶をする武藤さんに体が強張る。
「………」
自分の表情が武藤さんを見た瞬間劇的に曇ったであろうことは自覚しているけれど、何も言わずに武藤さんの横を抜けて自分のデスクに逃げた。そんな私に武藤さんはどう思ったかはわからない。
あのときのことを話さなければ。武藤さん本人と、上層部にも訴えるのだ。
顔を見るだけで、少しでも近づくだけで鳥肌が立つ。武藤さんにされた強引な態度の全てを鮮明に覚えていた。それなのに武藤さんは何事もなかったように社員旅行を終え、いつもと変わらない態度で仕事をこなしている。それに腹が立って仕方がなく、武藤さんを見ると睨みつけて逃げることしかできない。そんな自分が悔しくて情けない。
営業会議で4月からの人事異動で武藤さんが営業部の次長になると発表された。
山本さんは武藤さんが上司になるなんてと悔しがったけれど、同時に武藤さんに「よかったな」と言葉を向けた。
日頃の武藤さんの態度から次長に昇進するのは当然で喜ばしいことだという空気になったけれど、私はこの会議の場で武藤さんにされたことを訴えようとした。けれど、他の社員の顔を見ると何をどう言えばいいのか言葉に詰まった。セクハラだと声をあげることはできてもあの夜の目撃者はいないし、武藤さんは酔っていたけれど私も全く素面なわけではなかった。証拠の首の痕はもう証明できない。部長や他の社員に言ったところで信じてもらえるとは限らない。
どうしよう、どうしたらいいのだと数日迷っているうちにどんどん精神的に疲弊していった。
あれだけ声が聞きたいと望んだのに今は正広の顔も見れそうにない。他の男にキスされたなんて正広に言ったらどうなるのか想像したくもない。今の微妙な関係だって悪い方向に進んでしまうかもしれない。だって私の電話に折り返してくれたのは次の日の夜だったのだから。
壊れてしまう予感はしていた。今の自分も、正広との関係も。どうしたら回復できるのかどんなに考えても答えは出なかった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
3月になると春イベントたくさん控えている。
山本さんは一足早く提案書の作成や打ち合わせで忙しそうにしているけれど、異動を控えた私はもう書類の作成と引き継ぎ書の作成しか任されないので定時で帰れるようになった。
『今日は早く終わったんだ。ご飯行く?』
と思い切って正広にLINEをした。
『ごめん、今日は会社の送別会だ』
すぐに既読になって返ってきた返信に予想はしていたけれどがっかりする。お互い予定が合わないのは諦めるしかない。何年もこんな生活なのだから今更悲しんだって関係が変わるわけじゃない。
でも2人で外食しようと言っていたのが正広の中では無くなってしまっていることは悲しかった。
「何か仕事はありますか?」
大嫌いな武藤さんに一々お伺いを立ててから帰ることが増えた。
「あ……いえ、無いです」
「ではお先に失礼します」
武藤さんと一切目を合わせないで最小限の会話で業務を終える。
「戸田さん」
武藤さんが声をかけてきたのは聞こえているけれど、私は無視してフロアを出た。
田中さんの送別会も来週に予定されているのに、私は適当な理由をつけて欠席の返事をした。田中さんをきちんと見送りたい。でも武藤さんが出席する飲み会に参加できない。どうして私ばかりこんなに悩まなければいけないのだろう。
家で1人きりの夕食を終えてお風呂に入り、パジャマに着替えて寝ようかと思っていた時玄関のチャイムが鳴った。
え? こんな時間に誰?
夜の訪問者に警戒しながら気配を消してゆっくりと玄関まで移動する。ドアスコープから外を覗くと、そこには髪を乱した正広が立っていた。
「えっ、ちょっと……」
私は鍵とチェーンを外すとドアを開けた。
「どうしたの?」
「………」
正広は無言のまま玄関に入ってくると靴を脱いで私の横を通りリビングの床に倒れこんだ。
「正広? 大丈夫? 酔ってる?」
「うーん……」
「かなり飲んだの?」
「うーん……」
私が何を聞いても正広は目を閉じ唸り声を出すだけだ。
「気分悪い? 吐く?」
「あー……大丈夫……」
「上着だけでも脱ぎなよ」
正広の横にしゃがんで上半身を起こすと着ているコートを脱がせた。
「お水持ってくる?」
「いらない……」
「どうしたの? 急にうちに来るなんて」
普段の正広なら前もって電話なりLINEなりで連絡してから私の家に来る。それさえも何ヶ月ぶりかというくらいなのに、今夜のように連絡もなく来るなんて珍しかった。
突然正広の両腕が私を抱き締めた。
「え、正広?」
「………」
「まさ……」
再び名前を呼びかけた途端に勢いよく唇を塞がれた。噛みちぎるのではないかと思うほど唇を強く噛まれ舌が口の中に侵入してくる。
「いっ!……んっ……」
強引なキスに社員旅行で武藤さんに迫られたことを嫌でも思い出してしまう。今度は酔った正広に舌を絡められたことに驚いて抵抗もできない。
正広は私のパジャマのボタンに手をかけて1つずつ外し始めた。指の動きだけは酔っているのが疑わしいほど器用に上から外していく。恋人だというのに今まで身体を繋げることをあんなに拒まれ続けてきたのに、今になって突然求められることに戸惑う一方で自分の身体が火照り始めるのを止められない。この先の展開に期待するなという方が無理だ。
「まさ……ひろ……」
ボタンが全て外され胸が開かれたと同時に床に押し倒された。薄いカーペットに組み敷かれて背中に軽い痛みを感じる。
「っ……ん……まさひろ……」
再び囁いた恋人の名前に精一杯の愛情を込めた。正広の感触で嫌な記憶を消してほしい。この身体は正広のものだと証明してほしい。愛されてるって実感できるように強く強く。
露になった肌に感じる寒さは重なった正広の体温と愛撫で徐々に暖かさと快感を得た。