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カフェが休みの土曜日の朝に龍峯さんと待ち合わせをしていた。お互いのことを知らないで婚約者を演じるのは無理があるから、龍峯さんのご家族に挨拶する前に打ち合わせをしようということになった。
待ち合わせ場所は私の自宅の最寄り駅だったけれど、その最寄り駅が私の勤務するカフェがある駅だ。長年勤務している私はお客さんにもすっかり顔を覚えられている。誰か知っている人が通るのではないかと落ち着かない。
着信音が鳴りカバンからスマートフォンを出すと画面には龍峯さんからの着信だと表示されている。
「もしもし」
「ロータリーに着いた」
その言葉にロータリーを見ると数台のバスが止まる向かいに1台の車が止まっている。
「今行きます」
電話を切ると早足で龍峯さんの車に近づいた。助手席の窓が開いて中から「乗って」と龍峯さんが促した。後部座席に乗ろうとドアを開けると「そっちじゃないだろ」と聡次郎さんの不機嫌な声が前から聞こえた。
「でも……」
「婚約者が助手席に乗らないなんておかしいだろう」
それもそうだと後部座席のドアを閉め助手席に乗った。
「失礼します」
「これ読んで」
いきなり渡されたのは1枚の紙だった。
「なんですか?」
「契約書」
それはA4サイズのコピー用紙に細かい字で契約内容が書かれていた。
「明人が作った。着くまでに読んどいて」
「どこに行くんですか?」
「俺んち」
「え?」
「シートベルトして」
そう言うと私がシートベルトに手をかける前にいきなり車を発進させた。
数日振りに会った龍峯さんは初めて会った日の印象と変わらず、私の気持ちや疑問に答える気はない強引な人のようだ。顔は悪くはないのに私はどうしても龍峯さんを好きになれそうにない。
無言で車を運転する龍峯さんの横で私は契約書に目を通した。文字は小さくても契約内容はそう難しい言葉ではなかった。契約主である龍峯さんに従うこと、契約していることを誰にも言ってはいけないことなどの簡単な内容だ。それに報酬として十分すぎるほどの金額が書かれている。
「こんなにいただけるんですか?」
「驚くほどの金額か? 俺はいくらか知らないんだけど、明人が書いた金額でいいよ」
ただの会社員がすぐに出せる金額ではなかった。一体この人は何者なのだろう。
気がつけば車はオフィス街の大通りを走っていた。
「ここ……古明橋ですか? ご自宅はどこなんですか?」
「古明橋」
「え? この辺り? ここから近いんですか?」
「そう」
「すごいですね、こんなオフィス街に自宅があるなんて」
大手企業が集中するこの古明橋に住んでいるなんて、龍峯さんはよっぽど収入がなければ難しいはず。
「あのさ、敬語やめない?」
「え?」
「婚約者なのにいつまでも敬語っておかしいでしょ」
「そうですね……」
「敬語は不自然だ。今から禁止ね」
もうただの知り合いじゃない。私はこの人の婚約者なのだ。
「下の名前なんていうんだっけ」
「梨香です」
「じゃあ梨香って呼ぶよ」
「はい。龍峯さんのことは?」
「聡次郎でいい」
「聡次郎さん……」
名前の呼び方を意識した瞬間2人きりで車に乗っていることが恥ずかしくなってきた。この人と偽物でも婚約者になるなんて現実味がなくて緊張する。
大きなビルの角を曲がりビルの裏から駐車場に入って車は停止した。
「着いたよ」
「え? でもここって……」
オフィス街に溶け込むビル。どう見てもマンションなどではなく会社なのに。
私はビルを見上げながら車を降りた。聡次郎さんは車をロックすると呆然とする私をおいてビルの裏口まで歩いていく。
ビルは7階建てで、駐車場も広ければフロアの広さもかなりあるように見える。屋上には看板が設置され緑のロゴマークと共に『株式会社龍峯茶園』と書かれていた。
「たつみねちゃえん……」
聞き覚えのある社名を呟いた私に「置いてくよ」と聡次郎さんのぶっきらぼうな声が向けられ慌ててついていく。
ビルの中に入るとすぐ右には荷物を搬入すると思われるエレベーターがあった。エレベーターの横には階段があり、廊下の先には扉が2つあった。更に奥にはビルの正面玄関がある。
エレベーターのボタンを押した聡次郎さんは当たり前のように開いたドアからエレベーターに乗り、迷いもなく6階のボタンを押した。
「あの、ここは本当に自宅なんですか?」
「そうだよ。ここが家」
「でもここは会社ですよね? 住めるようには見えないのですが……」
「4階までが会社で5階から上が家族の家」
「え? でも聡次郎さんは飲料メーカーにお勤めなんじゃ?」
「そう。俺はただの飲料メーカーの会社員。でもここは俺の家の会社」
「………」
「この会社は俺の家族がやってる会社なんだよ。俺自身はまったく別の会社に勤めてる。でも家はここ。この本社ビルに住んでるの。意味わかる?」
驚きのあまり言葉が出ない。
「言わなかったっけ?」
「聞いてません……」
ポカンと口を開ける私に聡次郎さんは呆れた顔をした。
「大丈夫か?」
「あの、ここは龍峯茶園の本社?」
「そうだけど」
「ペットボトル飲料とかで有名な?」
「まあ老舗ってだけで、大手と比べてそんな売れてるわけでもないけど」
エレベーターが止まって扉が開くと目の前の廊下には窓から日の光が差し込み、奥にはマンションと変わらない藍色のドアがある。
「あの、お父様が社長ってことですか?」
「いや、父親は何年も前に亡くなって、今は兄貴が社長やってるよ」
日の光に当てられて目が眩み、私はパニックに陥った。龍峯茶園といえば私のような若い世代にもそこそこに知名度のある日本茶の販売会社だ。百貨店にいくつか店舗があり、ペットボトルのお茶はコンビニやスーパーなどに売られているのを見たことがある。
「すごい……」
「別にすごくないよ」
聡次郎さんは鍵穴に鍵を差し込むとドアノブを引いて何の違和感もなく私を中に招いた。
「わあ……」
思わず声を出すほどに聡次郎さんの自宅は広かった。
玄関からでもわかるほど、私の家の2倍はあるのではと思われる広いリビングにカウンターキッチン。ソファーとテーブルが中央に置かれ、テレビは見たことないほど大きい。廊下の横にはバスルームともうひとつ部屋があった。
「ホテルみたい……」
「そこまでじゃないだろ」
「ううん、すごいです!」
ベランダからは古明橋のオフィスや大通りが一望できた。ビルから都会を見下ろした経験なんてないから私は感動してしまった。そんな私を聡次郎さんは笑った。
「ここにはご家族と住んでるんですか?」
「いや、この部屋は俺だけ。兄貴夫婦は下の階で、母親は上の階に住んでる」
では6階のこの広い部屋が全て聡次郎さんだけの自宅なのだ。
「どう? 老舗企業の子息の婚約者になった気分は」
「あ……」
うっかり状況を忘れてしまうところだった。私は一応雇われている身。遊びに来たわけじゃないのだ。
「緊張します……」
今になって後悔し始めた。この人はただの会社員なんかじゃない。私は龍峯茶園という老舗企業の御曹司と契約してしまったのだ。
「緊張する必要ない。俺と付き合っているふりをするだけなんだから簡単だろ」
横に立って一緒に外を見下ろした彼は目を細め唇をきつく結んでいた。まるで感情の一切を殺してしまったかのように。
「リラックスしろよ。さっきからずっと敬語だぞ」
「あ」
敬語は禁止だと言われたばかりなのに。
「それなら今から打ち合わせを始めるよ」
「はい」
「何か飲む?」
「いえ、おかまいなく」
聡次郎さんはソファーに座るようにと私を促し、キッチンで電気ポットに水を入れてお湯を沸かし始めた。
私は遠慮がちにソファーに座ると改めて部屋を見回した。余計なものは一切置かれていないリビングには生活感がまるでない。引き戸で仕切られた隣の部屋は寝室だろうと思われる。
「俺今は別の会社に勤めてるけど、辞めてこの龍峯茶園を手伝うことになってる」
「そうなんですか? あ、いえ、そうなんだ……」
自然と敬語になってしまう。聡次郎さんは言い直した私に「その調子」と微笑んだ。恋人関係を維持するには私がもっとリラックスしなければ。