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「母親と兄貴が会社を手伝えってうるさくて。しかも俺にお見合いの話し付き。さすがにそれは断りたいから梨香にお願いしたんだ」
聡次郎さんに梨香と呼び捨てにされるのはこそばゆい。
「龍峯茶園はそれなりに名前の通った企業になったから、婚約者のふりをしてって頼んだやつがネットとかで変に情報を流されると企業の名前に傷がつくんだよ」
「それで絶対に秘密なんですね」
「そういうこと」
だから報酬も多すぎるほどの額が書かれている。大企業の関係者ならこれくらいは払えてしまえるのだろう。
聡次郎さんはトレーに湯飲みを2つ載せてテーブルに運んできた。
「契約書にサインして」
そう言って私にボールペンを差し出した。
聡次郎さんの正体を知っていれば婚約者のふりなんて引き受けなかった。けれどもう引き返すことは出来ない。私はボールペンを受け取り契約書にサインした。
「明人が今度通帳のコピーをくれってさ。前金振り込むから」
「はい」
きちんと報酬を払ってくれるところは安心できる。契約自体は問題がない。
「月島さんもこの会社の方なんですか?」
「兄貴の秘書」
秘書なんて月島さんにぴったりな仕事だと思った。真面目そうなイメージ通りだ。
「これうちの会社のメイン商品のお茶」
聡次郎さんは湯飲みをテーブルに置いた。
「自分で急須で淹れたのは久々だからうまいかは分かんないけど」
私も急須で淹れたお茶を飲むのは何年振りだろうか。実家にいた頃に母が淹れてくれたのを飲んだのが最後だ。
「いただきます」
湯飲みに入ったお茶は一目で濃いことがわかるほどに濁った緑色だ。
湯気の立つ湯飲みを持ってお茶を口に含んだ。思ったとおりお茶は熱く、渋みが口いっぱいに広がった。渋み以外の味をほとんど感じないまま焦って飲み込んでしまった。
「おいしいです……」
会社のお茶を出されて感想を言わなければと無難な言葉を伝えたけれど、聡次郎さんは「そうか?」と嬉しくはなさそうな声を出した。
「俺にはお茶の味なんて全くわかんない」
聡次郎さんはズズズと音を立ててお茶を飲むと、湯飲みを揺すってお茶を見つめた。
「ほんと、俺がお茶屋ねぇ……」
その呟きで聡次郎さんは自分の家族の会社なのにお茶に興味がないのだと察した。
「梨香って年いくつ?」
「24です」
「あのカフェには長く勤めてるの?」
「もう4年になります……なるかな」
質問に一々敬語で返してしまう私に聡次郎さんは呆れた顔をするから慌てて言い直す。
「じゃああのカフェで出会ったことにしよう」
「え?」
「俺と梨香の出会いのきっかけ。きちんと設定を決めないとな。母も兄貴も騙すんだからボロが出ないようにしないと」
「わかりました」
「この契約のことを知っているのは俺と梨香と明人だけだ」
「はい」
「家族に紹介して、結婚の準備をしているように見せかけて時間を稼ぐ。話を先延ばしにし続けて数ヵ月後に別れる」
「別れたことにしていいの?」
「何で? それって俺と別れたくないの?」
「違います!」
バカにしたように笑う聡次郎さんに怒鳴りつけるように大声を出した。まるで私が聡次郎さんと本当に婚約することを望んでいると言われたようだ。
「私と別れたことにしても、その後は本当の婚約者と結婚することになるんじゃ?」
「結婚が破談になったワケありの男なんて向こうも嫌だろ。それに、うちの母親が納得できないような婚約者を紹介した方が、いい具合に機嫌を損ねられて助かるんだよ」
「悪かったですね、納得できないような婚約者で」
私を紹介することがお母様の機嫌を損ねるなんて言われては私の機嫌が悪くなる。
「そういう意味じゃないよ。母さんは昔からこの会社と付き合いのある企業の関係者と結婚させたいんだよ。それに、梨香はカフェ店員だしね」
「関係あるんですか?」
「コーヒーを扱う仕事をしている人が日本茶会社の嫁になるなんて母さんは怒るだろうね」
「なるほど……」
確かに正反対だ。私はコーヒーを飲むけれどお茶に詳しくはない。そんな人を嫁として受け入れるのは嫌かもしれない。
「母さんは梨香に色々嫌なことを言ってくるかもしれない。でも梨香にはそれに耐えて気が強い感じ悪い恋人でいてくれたら助かる」
「気が強いって……」
聡次郎さんの話を聞く限りお母様は厳しい人のようだ。気を強く持てるかどうかは自信がない。
「それで母さんが俺に愛想尽かしてくれるといいんだけど」
今度は自虐的に笑う聡次郎さんに首をかしげた。この人は縁談を無視して偽の婚約者を立てようと思うほどお母さんに反抗したいのだろうか。
「めちゃくちゃな人……」
思わず声に出してしまい口を手で押さえた。
「あ、すみません……」
「ふっ、いいよ本当のことだから」
聡次郎さんは面白そうに微笑むと湯飲みに残ったお茶を飲み干した。
「今日は先に兄貴に会ってもらう」
「え? 今からですか?」
早速家族の前で演技をしなければいけないなんて突然すぎて心の準備が出来ていない。
「大丈夫。兄貴は忙しいからそんなに時間はかからないし、簡単な挨拶でいいから。明人から兄貴に先に婚約者を紹介したいって伝えてもらってるから」
そのとき聡次郎さんのスマートフォンが鳴った。
「明人からだ。兄貴が会社に戻ってきたのかも」
電話に応答すると月島さんと通話する横で私の体は緊張で小刻みに震えた。
「は? まじかよ……母さんにはまだ内緒だって言っただろ……ああ……わかったよ、今から行く」
通話を終えた聡次郎さんは溜め息をついた。
「母さんとも会ってもらうことになった」
「え!?」
お兄さんだけだと思っていたのにいきなりお母様にも会うなんて無謀だと思えた。
「今日母さんは出かけてるはずだったのに、兄貴が母さんに言っちゃったらしいんだ。そうしたら今帰ってきたって」
「そうですか……」
「今から本番だ」
聡次郎さんが立ち上がったから私は湯飲みのお茶を飲み干し、聡次郎さんの分の湯飲みも流しに置いた。
男性の1人暮らしといっていいこの部屋はどこも綺麗に片付いている。キッチンも使われたことがないのではと思うほどに。
聡次郎さんに続いて部屋を出てエレベーターに乗った。
「じゃあよろしくね、俺の婚約者さん」
この状況を楽しんでいるのではとも取れる言い方に、目の前の男が恨めしくもあり、ほんの少し頼もしくもあった。