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エレベーターが4階で止まり、降りると廊下には3つのドアがあった。
その内の1つのドアが開き、中から月島さんが出てきた。
「三宅さんすみません、わざわざ来ていただいて」
「いいえ」
きちんと髪を整え、スーツを着こなす月島さんは今日も変わらずかっこいい。
「もう2人は中で待ってる」
「なんで母さんまでいるんだ?」
「慶一郎さんが奥様も一緒にって言うから仕方がないよ。どうせ会わせるんだから遅いか早いかの違いだけだよ」
不機嫌な聡次郎さんと違って月島さんは始終穏やかだ。
「三宅さん、この契約のことを知っているのは聡次郎と僕だけです。くれぐれもばれないようにお願いします」
「頑張ります……」
「梨香はあまり喋らなくていい。俺がメインで話すから」
聡次郎さんはご家族が待っているという部屋のドアノブに手をかけた。私は手で髪を整え、深呼吸して聡次郎さんに続いた。
部屋に入ると中には2人の人物が待っていた。応接室だろう部屋の真ん中にはガラスのローテーブルに向かい合ったソファーが置かれ、座っていた2人は私たちを見て立ち上がった。
「は、初めまして! 三宅梨香と申します!」
緊張のあまり自分でも思った以上に大きな声が出た。恥ずかしさで下を向くと、私のすぐ前に立っていた聡次郎さんが後ろ手で私の手を握った。軽く力を込めて手を包み込まれ、すっと力が抜けた。手はすぐに私から離れ、何事もなかったかのように聡次郎さんの腰の横に下ろされた。落ち着けと言われたようで、顔の火照りが引くと前を向いた。
「初めまして、聡次郎の兄の慶一郎と申します」
龍峯茶園の社長だという男性は聡次郎さんと年が離れているようだけれど顔はよく似ていた。目や鼻の形はそっくりだが、聡次郎さんよりは笑顔が柔らかい。そして聡次郎さんよりも少しふくよかな体形をしていた。
「聡次郎の母の裕子でございます」
抑揚のない声で名乗ったのは先代社長の奥様である聡次郎さんのお母さんだ。私の母と同じ年くらいに見えるほど若いけれど、慶一郎さんの年齢を考えると60代じゃないかと思われた。メガネの奥の目は私を探るように頭から靴まで全身をチェックしている。
聡次郎さんはお母さんの視線など気にしないとでも言うように、自分から音を立ててソファーに深く座った。その様子は緊張しているというよりも機嫌が悪いのだということは出会ってからの短時間でわかるようになった。
「聡次郎、お前が先に座るなよ。梨香さんも座ってください」
「失礼します」
慶一郎さんに促されて聡次郎さんの横に座った。お母さんと慶一郎さんも向かいに座り、月島さんはドアの前に静かに立っていた。
「明人が聡次郎に付き合ってる人がいるなんて言うから驚いたよ。お前全然そんなこと言わないから」
「本当に驚いたわ。そんな人がいるならもっと早く紹介してほしかったのにねぇ」
微笑む慶一郎さんと無表情のお母さんに見つめられ緊張で吐き気がしてきた。
「いつからお付き合いしていたのかしら」
「………」
「聡次郎は仕事ばかりで滅多に家にも帰らないのに、いつ梨香さんと出会ったの? いい縁談も拒否するくらいなのだから相当仲がよろしいのね」
お母さんは笑顔だけれど目が笑っていない。答えに困る私の横で聡次郎さんは足を組んだ。
「梨香はカフェで働いてるんだ。俺はそこの客だったの」
「カフェ? 喫茶店のこと?」
「そう、母さんの嫌いな喫茶店だよ」
『母さんの嫌いな』と強調されて私はますます居心地が悪くなる。私に向けられる視線が痛い。嫌われ役なのは分かっているけれど、こんなにはっきりとお母さんから敵意を向けられたらこの役を下りたくなる。
「梨香さんは日本茶はお好きなのかしら?」
「えっと……」
「梨香はコーヒーが好きなんだよ」
「聡次郎ではなく梨香さんに聞いているの」
口を挟むことは許さない、とお母さんの厳しい口調と目がそう言っている。聡次郎さんは小さく舌打ちをした。実の母親に舌打ちをするなんて聡次郎さんが子供っぽくもあり、仲が悪い親子なのだと理解させられた。
「お茶は……好きです」
とはいっても、ほぼペットボトルでしか飲まない。まだ紅茶はカフェでも飲んでいるし家にもティーバッグがあるけれど、日本茶をメインに販売している会社でコーヒーや紅茶が好きですとは言えない。
「そう。浅蒸しが好きかしら? 深蒸しかしら? それともかぶせ茶?」
「え?」
「母さん、梨香はコーヒーが好きだって言ってるだろ」
「龍峯に嫁いでこようとしているのにお茶が全くわからないのでは困ります!」
さすがの聡次郎さんも反論できないようだ。慶一郎さんにいたっては母親の勢いに負けて何も言えないでいた。
「うちのお茶は飲んだことはあるかしら?」
「はい……ペットボトルのお茶は飲んだことがあります。あとは聡次郎さんに淹れていただきました」
「へー、聡次郎が」
これには慶一郎さんが驚いたようだ。
「急須で淹れたのか?」
「悪いかよ。梨香に龍清軒を飲ませたんだよ。それくらいは普通だろ」
聡次郎さんは焦っているようだ。この会社なら急須で淹れたお茶を飲ませるくらい普通のことだと思うのに、聡次郎さんがそんなことをするのはよっぽど珍しいのだろうか。
「既に婚約したということですが、2人の結婚は認められません」
突然口を挟んだお母さんにはっきりと告げられた。
「聡次郎には銀栄屋のお嬢さんとのお話しがありますので」
銀栄屋といえば有名百貨店だ。そこのお嬢さんとの縁談があるなんて私には遠い世界の話だ。
「それは断るって言っただろ。俺は梨香と付き合ってるんだから」
付き合っていると聡次郎さんの口から言われて胸がざわついた。本当に付き合ってなどいないけれど、聡次郎さんは今演技でも私との関係を守ろうとしてくれているのだ。
「お付き合いするのは構いません。でも結婚は許しません」
「母さん、それはあんまりです。聡次郎が選んだ女性ですよ」
慶一郎さんもついに話に加わった。けれどお母さんの表情は冷たいままだ。
「梨香さんは大学はどちらを卒業されているのかしら?」
「え?」
「学歴は関係ないだろ」
聡次郎さんの声は苛立ちが含まれている。
「お茶の知識も無い、教養もないでは困るのです!」
「梨香に失礼なことを言うな!」
お母さんも聡次郎さんも顔が真っ赤だ。こんな親子喧嘩に巻き込まれるとは思っていなかった。
「大学は……出ていません……」
言い合いを止めるように、小さい声で、けれどはっきりと言葉に出した。
「高校を卒業したあとにアルバイトをしていた会社に契約社員として就職しました。でも経営が悪化して、そのまま契約が切られてしまってからは複数の仕事を掛け持ちして、今はカフェでバイトをするフリーターです……」
説明の最後には消え入りそうな声だった。
人に言えないような生活ではない。恥ずかしいことなど何もない。けれど聡次郎さんやお母さんが求める知識や教養のある人間ではないことが申し訳なかった。
「残念ですが私は認められません」
お母さんの言葉にギュッと目を瞑った。わかっていても自分を認めてもらえないのはどんな状況であれショックだ。悲しくて怒りだって湧く。
「母さんが決めることじゃない」
聡次郎さんは静かに言った。
「結婚相手は自分で決める。学歴や過去の仕事なんてどうでもいい。俺は梨香と結婚すると決めたんだ」
これが契約でなければ私を庇う聡次郎さんに惚れ直したのかもしれない。何を考えているかわからない人だけれど、自分の意思は曲げない人なのはわかった。
「認めません!」
「跡継ぎがいないからって俺に責任を押し付けるのはやめろ!」
「聡次郎」
言い合いに割って入ったのは後ろに控えた月島さんだった。
「それは言い過ぎだ」