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月島さんの言葉が応接室に静寂をもたらした。
「ごめん兄貴……兄貴たちを責めてるわけじゃないんだ」
「わかってるよ」
慶一郎さんは困ったように微笑んだ。
私にはどうして龍峯の皆さんが私との結婚をここまで反対して気まずくなるのかが理解できない。老舗の大きな会社で親族経営は何かと問題があるのかもしれない。
「母さん、聡次郎の選んだ人なんだから。応援しよう」
慶一郎さんに諭されてお母さんは考え込んだ。
「では喫茶店は辞めて会社を手伝うということでいいのかしら?」
「え?」
「龍峯の人間になるのだから喫茶店で働くことは辞めてお茶の勉強をしてくださるのよね?」
「あの……それは……」
困って聡次郎さんの顔を見た。聡次郎さんもそんなことを言われるとは思ってもいなかったようで困惑していた。
「梨香をこの会社に巻き込むことはしない。母さんが梨香を教養のない人だというのなら、龍峯には必要ないだろう」
「そうはいきません。嫁いできた女性は会社に尽くしてくれなければ」
「俺も梨香も、会社のためにいるんじゃないんだよ」
聡次郎さんは静かでも確実に怒りを含んだ声でお母さんに反抗した。
「では週に1回でも2回でも構いません。梨香さんの人柄と将来性を見るために本店で働いてもらいます」
こんな展開は予想していなかった。カフェの仕事を辞めるつもりはない。ここで働く気などさらさらなかったのに、聡次郎さんの抵抗にお母さんも折れる気配がない。
「社長、いかがしますか?」
月島さんの言葉に全員が慶一郎さんを見た。
「梨香さん、申し訳ないけど家族だけにしてもらえますか?」
「あ、はい……」
「明人」
「はい」
慶一郎さんが月島さんに声をかけると、月島さんは「こちらに」と私に立つように促した。私は立ち上がって月島さんについて応接室を出た。
ドアが閉まると月島さんが「すみません、奥様が失礼なことを申しました」と私に頭を下げた。
「いいえ、この会社に相応しくないのは自覚していますから」
「お待ちいただく間、簡単に社内をご案内します」
エレベーターに乗ると月島さんは1階のボタンを押した。
「気が強い人を探してた意味がわかりました」
私ではなく相沢のように口が悪く喧嘩っ早い方があのお母さんには対抗できただろう。
「でも気が強いとお母様はますます反対されたのではないですか?」
「奥様が呆れるほど嫌われるような女性を連れてこられたら尚良かったのですが、梨香さんが役不足なわけではないので安心してください」
「はい……」
それは嫌われるような女性ではないと喜んでいいのか、役不足ではない程度には身分の低いということなのか複雑だった。
「聡次郎はとにかくこの龍峯茶園と奥様に反抗したいのです。人生も結婚相手も決められたくはないからこんな契約をお願いしたのです」
「そうなんですか……」
自宅でお茶を淹れてもらったとき、聡次郎さんはお茶が好きではないのだと思った。きっと小さい頃からこの会社にいい思い出がないのかもしれない。
「1階は龍峯茶園の本店と店舗用の小さい事務所があります」
エレベーターを降りて、廊下の先の正面玄関から一旦外に出ると本店の正面に回れるようだ。
「梨香さんは龍峯の店舗を見たことがありますか?」
「えっと、百貨店とかに入ってますよね」
「そうです。ここがその本店です」
正面には『龍峯茶園』と書かれた暖簾がかけられ、左には看板が設置され、右には『新茶予約受付中』とのぼりが立てられている。
「関東の百貨店を中心にいくつか店舗があって、ペットボトルのお茶はコンビニにも置いてもらっています。葬儀会社に頼まれたときは、うちからお茶を出したりもしています。古明橋の企業にも昔からお茶をお届けもしていますよ」
「そうなんですね」
古明橋に本社、本店を構える老舗お茶屋、龍峯茶園は取引先もきっと大手ばかりなのだろう。その会社の人たちとこれから関わっていかなければいけないなんて精神的に疲れそうだ。
「では2階をご案内します」
再びビルの中に入り、エレベーターの横の階段を上がった。
「あの……案内をされているということは、私はやっぱりここで働く可能性があるということなんですね?」
「聡次郎ができるだけ抵抗するでしょうが、予想以上に奥様が梨香さんとの結婚を反対されていましたから……それは避けられないかもしれません」
「そうですか……本店で働くのは予想外です」
「申し訳ありません。あとは社長の判断次第です。奥様が口を出されることも多いですが、最終的には慶一郎さんが決定しますから」
「はい……」
お茶のことなんて分からない。興味もない。だからここで働くことに自信がない。
月島さんに一通り社内を案内された。土曜日ということもあり3階のオフィスには社員がほとんどいなかった。部外者である私が社長秘書と社内を歩いていても目立つことはなかった。
エレベーターで4階に着きドアが開くと、目の前には聡次郎さんが立っていた。
「話し合いは終わったよ」
そう言って降りようとする私たちを再びエレベーターの奥に追いやって自分も乗り、6階のボタンを押した。
「奥様と慶一郎さんは?」
「麻衣さんと昼食うって。明人も昼適当に食ってってさ。2時まで休憩だって」
「そうか」
話し合いの結果私はどうなるのだろうと落ち着かないのに、聡次郎さんは呑気に出前は何を取るかという話をして呆れてしまう。
「あの……」
「梨香には悪いけど本店で働いてもらう」
「え!?」
「母さんがそれは譲らなかったんだよ」
自宅のドアを開けてのんびり靴を脱ぐ聡次郎さんに詰め寄った。
「困ります! そんなことは契約に入ってない!」
「じゃあ契約更新ってことで」
聡次郎さんは最後に再び「悪いけど」と少しも悪いと思っていない口調で付け足した。
「梨香にとっては面倒だろうけど、本店で働いてくれたら契約とは別にちゃんと給料も払うし、交通費も支給する。カフェの仕事が中心でいいから勤務時間も梨香に合わせる」
「………」
大変なことになったけれどこの話自体は悪くない。聡次郎さんは『契約とは別に』を強調したのだ。カフェの仕事を中心にできるようなバイトをもう1つ探していた。ここなら自宅も遠くないし通いやすい。大きな企業の本店といっても、お茶を売るだけなのだから深い知識は必要ないだろうと思った。
「……いつまでですか?」
最初の契約は結婚準備をしていると見せかけて数ヵ月後に別れたことにするものだった。結婚を見据え本店で働くとなると話は違ってくる。
「別にいつまででもいいよ。どうせ別れるんだから」
「はい?」
「梨香が母さんに認められても認められなくてもどっちでもいいんだ。縁談が破談になるなら。バカ息子がバカな女を選んだって呆れられていいかもしれないから、適当で。本店勤務自体はすぐ辞めてもいいし」
「………」
「真面目に働く必要はないよ。龍峯に相応しくないと思われた方がいいかもね」
「適当になんて……できません……」
働くからには適当なことはできない。龍峯に相応しくないと思われた方がいいのだろうけど、お給料をもらうのにそれでは申し訳ない。
聡次郎さんの計画性の無さに呆れてしまう。滅茶苦茶な状況に付き合わされていては私の生活が乱される。
「やるの? やらないの?」
聡次郎さんに問われて私はキッと睨みつけた。
「やります!」
お金のためだと自分に言い聞かせた。今は来月の家賃が払えるかも危うい状況なのだ。
私に睨まれても聡次郎さんは面白がるように笑った。
「明人、契約書作り直して」
「わかった」
聡次郎さんは機嫌良く出前のチラシを見て電話をかけ始め、月島さんは手帳に何かを書き加えている。私だけ不自然な状況に馴染めないまま、広い部屋に取り残されたような感覚になった。
聡次郎さんの奢りで天丼をご馳走になり、再び聡次郎さんの車で今度は自宅のアパートの前まで送ってもらった。
「じゃあよろしくね、俺の婚約者さん」
2度目に言われたセリフはまたしても面白がっているような口調だった。
車が走り去り、自分の部屋に入って靴を脱いで座り込んだ。
まだ2時過ぎだというのに疲労がピークだ。
新しい生活を始めるにはエネルギーを大量に消費する。先の見えない契約には後悔しかなかった。