第2話 霧の向こうの仇敵
教授の持つ宝珠が生みだした霧の中、すぐに眼前の景色が書き替えられ、複数の影が浮かび始める。
手前側に人間大の影が六つ。
そしてその向こう側、少し離れたところに……はるかに大きなもう一つの影。
やがて、霧が晴れ視界が開けると、手前の人影からその姿が明らかになる。
一人の女と五人の男たちが、敵を迎え撃つかのように展開していた。
一人は、獣の皮で作られた軽装の鎧を身に付けた女戦士。炎のように波打つ紅い刃を持った大剣を右手一本で軽々と持ち上げ、挑発するように剣先を敵へと差し向ける。
一人は、ローブに似た深紫の装束に長身を包んだ槍使いの戦士。構えをとるでもなく、白銀の槍はだらりと地面に向けて垂らされたまま。瞑目し、自然体で開戦の刻を待つ。
一人は、白い金属鎧の剣士。青い輝きを放つ二振りの剣の柄を左右の手に握りしめ、右足を踏み出して半身に構えていた。
一人は、黒衣の拳闘士。不敵な笑みを浮かべつつ、気合を入れるように布を巻きつけた両の拳を胸の前で打ち合わせる。
一人は、龍のものとおぼしき赤い皮鎧を装備した狩人。奇妙な黒い素材で作られた弓に矢を番え、霧の彼方の敵に狙いを定めていた。
そして最後の一人は、一見して特徴のない、マントを羽織った旅人風の男。不機嫌そうに顔をしかめ、腕を組んで立っている。
視界はさらに広がり続け、ついに彼らと対峙する「敵」の姿が明らかになる。
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このソール大陸で最も危険とされる獣の一体が、そこにいた。
その体格や体型は、先ほどまで見ていた骨と変わりがない。だが、肉が付き、全身を鱗《うろこ》に被われた姿は、かなり大きく見えた。
さらには、骨だけの時からは想像し得なかったものもある。
鱗の色は、影の中から這い出してきたかのような、暗い灰褐色。それも単純な色ではなく、濃淡が全身に複雑な縞模様を描いていた。
さらに目立つものは、頭頂部から冠のように生えた羽毛だろう。そこだけが陽光に照らされたかのごとく、白く輝いている。
大きく裂けた口のまわりだけが、不気味に赤く染まっていた。「赤」が一滴、牙を伝いしたたり落ちる。
その上体が大きく沈み、駈け出したと思った次の瞬間――
レマルゴサウルスが、跳んだ。
体高約4メートル、尾を含む全長約15メートル、推定体重4~5トンの巨体が、強靭な両足と尾の力で、大砲の弾のように打ち出される。
「ひっ……!?」
数十メートルの彼我の距離を瞬く間に詰め、迫りくる巨竜の姿に、レオの口から、情けない声が漏れた。咄嗟に身をかわそうとしても、足がうまく動かない。バランスを崩し、倒れそうになったところを背後にいた少女に支えられてようやく踏みとどまる。
「落ち着いて。これは過去の幻。君を傷付けることはない」
少女の声が、レオの耳に届く。
その瞬間、視界が白く霞み、一瞬で視点は着地したレマルゴサウルスの後方へと移っていた。
「でも、心を強く持って。恐怖だけでも、君の体は蝕まれる」
その言葉にレオは、拠り所を求め床に落ちていた大刀に手を伸ばす。斬竜刀と呼ばれる、中・大型の獣を相手取るための武器だ。だが、こんなものが本当に、目の前の巨竜に通用するのだろうか。
そうしている間にも、闘いは続いていた。
竜の正面にいた女戦士は、大剣の重さを感じさせない動きで竜の砲弾の軌道から飛びのき、すれ違いざまに首を薙ぐ。波打つ大剣が
そしてもう一人、女戦士の後方にいた旅人はその時、竜のはるか上空へと舞い上がっていた。
無論、人の跳躍力のなせる業ではない。光の線で編み上げられた図形を二つ、旅人、いや魔道士は両足で踏みしめて空中に立つ。
さらに、魔道士の両手から、いくつもの光の粒が放たれた。それは魔道士の足下で輝く軌跡を引いて舞い踊り、多数の円と魔法文字からなる複雑な図形を描き出す。瞬く間に魔法円は巨竜すら逃れようもないほど広がり、地上のレマルゴサウルス目掛け撃ち下ろされた。
光の網は、地上にいる味方の戦士たちを避けるように形を変えながら、竜の全身を絡め捕る。
全身を魔力の投網に捕らえられながら、レマルゴサウルスは天を仰ぎ、渾身の雄叫びを放った。
幻を見ているものたちを保護するためか、その声はレオの耳には届かなかった。正確には、元より映し出された世界には音はなかったのだ。
しかし、映像の中の戦士たちはそうはいかない。
無論、戦士たちも備えはしていた。よく見れば、彼らの耳に小さな魔力の光が灯ったことに気付くであろう。
さすがに、完全に無音という訳にはいかない。戦士にとって周囲の音は重要な情報であり、味方とのやり取りも必要だ。音量が危険な領域に達した時のみ、防御魔法が音を和らげるようになっている。とはいえ、うるさく感じる程度の音は残る。
だから、戦士たちがいったん武器から手を離し、耳を押さえたのも無理のないことだ。しかし、二刀流の戦士と、上空の魔道士だけは平然としていた。
そして、女戦士は――
耳を塞いていた両手を離すと、竜に対抗するかのように天を仰いで吠えた。
「はあ……」
不意に、音のなかった幻の世界に声が流れた。レオが目を向けると、教授がうつむき、右の掌で顔を覆っていた。隣で少女も、気まずそうに視線を逸らしている。
魔力の網による拘束から逃れんと、レマルゴサウルスは暴れまわる。さすがにその力を封じ切れなかったのが、体のあちこちで光が瞬き、千切れ飛んだ。
全長の半分近くを占める長い尾がしなる。その勢いを利用して、レマルゴサウルスは器用に両足を動かし、その場で反転した。魔力の束縛から解き放たれた尾の先端は弧を描いて加速、ついには音の壁すらも切り裂いて不可視の衝撃を周囲に撒き散らす。
それに対し、弾けるようにレマルゴサウルスから距離を取る戦士たち。
だが一人、槍使いだけはそれに怯むことなく、竜に向け大地を蹴った。深紫の影が地を疾り、白銀の槍が何もないはずの宙を貫く。穂先を包む大気が陽炎のごとく揺らぎ、槍使いは竜の放った衝撃を打ち抜いて敵の巨体へと肉薄した。
そのまま、伸び上がった全身を宙へと舞い上がらせ、尾の根元近くを薙ぐように斬り上げる。
人の振るう槍の傷など、竜の巨体から見ればかすり傷に等しい。それなのに、槍使いが退いた後も、裂傷は弾ける血潮とともに広がり続ける。
この竜には、ある種のトカゲにみられる自ら尾を切り離すような能力はない。その身を引き裂いたのは、敵を退けるために振るわれたはずの尾の重量と遠心力だ。
切り離されこそしなかったものの、尾はその裂け目で折れ曲がり、地面へと垂れ下がる。それは囚人の身に繋がれた鎖のごとく、竜を封じる
そして、一たび千切れ飛んだはずの魔法円も、竜の足や首にまとわり付き、その動きを縛る拘束具と化す。
足が止まった竜の眼前に、二刀流の剣士が躍り出た。その頭上で二本の剣が交差し、刃は稲妻に似た光を纏う。
そこにレマルゴサウルスは、顎を大きく開き、体を伸ばしてのしかかってゆく。
尾と並ぶもう一つの武器が、その顎だ。敵の急所を深々と貫く、犬歯のように長く伸びた牙と、ナイフのように獲物の肉を切り裂く、鋭利な短い牙が並ぶ。
それに加え、体格に比べて大きな頭と太い首は、顎の筋肉をひたすらに発達させた証。大陸最強クラスといわれる咬合力は、人はおろか家屋すらもたやすく噛み砕く。
だが、大きく開かれた顎は、同時に死角ともなる。牙が眼前に迫るより前に、地を蹴った剣士は風に乗ったかのような速度で横に跳ぶ。
顎が閉じられた瞬間、レマルゴサウルスは攻撃をかわした剣士が左目の前にいることに気づく暇も与えられず――剣を包む光は右の剣へと集まり、稲光と化して弾けた。
視界を真っ白に
戦闘開始からじっと動くことなく機を窺っていた狩人が、わずかに狙いを修正して矢を放った。それは寸分違わず、体の割に小さな右目に吸い込まれる。閉ざされていた
ほとんど同時に、剣士の左手の剣が炎に包まれ、竜の左目を斬り裂く。
視覚を封じられたレマルゴサウルスには、もはや劣勢を立て直す余裕も与えられなかった。
いつのまにか駆け寄っていた拳闘士の突き上げた拳が、竜の左脇を捉える。突き当てられた拳を中心に、水面に広がる波紋のように鱗に被われた皮膚が波打った。直後、同心円状に鱗が弾け飛ぶ。
胸に打ち込まれた衝撃に、レマルゴサウルスはその顎から鮮血を
しかしそれも、並の人間ならばともかく、鍛え上げられた強者には通じない。拳闘士は回し蹴りでその爪を弾き、攻撃を逸らした。
だらしなく開かれた口から血が流れ落ち続け、巨体を支えていた足がたたらを踏む。
下敷きになることを恐れたか、戦士たちはよろめく竜の巨体から距離をとる。
それでも、ただ逃げているわけではない。
後退しつつも、槍使いは頭上で槍を旋回させ、拳闘士は両掌を重ねて力をため、剣士は双剣に雷を宿らせる。
槍使いの、激しい舞いのごとき足さばきを加え、槍の穂先は銀の螺旋を描き上げる。それは先ほどのレマルゴサウルスの動きとも似ていたが、人の編み出した武術はより洗練されていた。
音速を超えた斬撃は衝撃波を生み、土を巻き上げながら竜の足へと迫る。
拳闘士の掌から生まれた光は、瞬く間に頭ほどの大きさへと膨れ上がった。両手を竜に向けて突き出せば、気弾は白い軌跡を引いて竜の頭へと吸い込まれてゆく。
さらに、剣士の雷が、狩人の矢が、魔道士の光の槍が、続けざまに竜へと降り注ぎ――そしてついに、巨竜は大地に倒れ伏した。
地表で足掻く竜に向かい、女戦士は炎を模した大剣を高々と振り上げる。体重を乗せた剣擊が首筋へと迫り――
それを見ていたレオも、大刀を支えにゆっくりと立ち上がった。まだ震えの残る両足に力を込める。大刀の刃先を竜に向け中段に構えると、それを振り上げて駆け出そうとしたその時――。
「そこまでじゃ!」
教授の叫びが、レオを押し留めた。
「もはや決着はついた。いかに仇の同類とはいえ、とどめを刺されるところなど見て気持ちの良いものでもあるまい」
そんな声とともに視界が再び霧に閉ざされ、もといた広間の光景が戻ってくる。
骨の獣たちは、変わらず彼らを見つめていた。
「さて……ようこそ、我らがリーフ国立博物館へ。まだ予定地じゃがな」
レマルゴサウルスの骨の前に立ち、彼らの真の主のように、教授は芝居がかった仕草で両手を広げる。
「さて次は、お主の話も聞かせてもらおうかのう」