二十八話
ベルトリアの街を後にしてから数日。
ツェネグィア伯爵領へと一直線に向かう最中、あと少しで目的地に到着するといったところで思わぬ問題に見舞われていた。
「にしても、治安が悪いのは知ってたけどここまでとはね」
「いいや。これは元からだ。ナハトが外に出る機会がなかったから知らなかっただけだろう」
「あー。確かに、言われても見ればツェネグィアから出た事なかった気がするなあ」
「だろう?」
これでも警戒心が人一倍高かったと自覚がある。
それ故に、外に出る事も極力控えていたし、唯一の出掛け先である奴隷商も色んな観点よりあまり人が手出し出来ない場所だ。下手すれば実家よりも安全な場所であったかもしれない程に。
「でもこれ、どうするかな」
黒のパーカーコートを目深に被りながら、俺たちを逃すまいと囲うように立ち尽くす者たちに視線を向ける。
「ガァ……」
『ウォルフ』は口を半開きにして鋭利な犬歯を覗かせており、今にでも飛びかかりそうな様子で唸り上げていた。
「運が悪かったな兄ちゃん。護衛も付けずにこんなところをほっつき歩いたが運の尽き。金目の物は全て、置いて行ってもらおうか。そうすりゃ命までは取らねえ」
盗賊染みた身なりの男が約十五人。
そのうちの一人。無精髭を生やした大柄な男が俺たちに向けてそう宣告していた。
どうしたものか。
場を切り抜ける方法を思案する最中。
パキリ、と。視認出来るか曖昧なほどに透明な薄氷が足下に小さく広がる。
じり、じりと距離を詰めんとにじり寄ってくる数名。
アウレールも俺と同様にどう対応したものか決めあぐねていたのか。悩ましげな声が隣から聞こえてくる。
そんな折だった。
「命までは取らねえだぁ? なぁに甘ぇこと言ってんだか」
割って入るように、後ろからもう一人。
俺たちを囲う盗賊めいた男たちとは身格好が異なり、オールバックにした黒髪が特徴的な男性。なにより、聞こえてきた一言で本能的に理解をした。
コイツは、毛色が違うと。吐き気を催してしまう類いの
「好き好んで顔を隠すようなヤツらは総じて訳ありだ。特に、そこの女からは金の匂いがぷんぷんしやがる。後、そこの魔物も売れば良い値が付きそうだ。金目の物は巻き上げて女と魔物は売り飛ばす。てめえらがしねえってんなら俺サマが一人で貰ってくぜ?」
売り飛ばす。
そのワードを耳にした途端、反射的に目元に力がこもる。一挙一動を見逃すまいと、身体に力が入る。
「……悪いが、オレたちにはオレたちのやり方ってもんがある。生きる為に金目の物は奪わせて貰うが、命まで取る気はねえ」
「はっ、相変わらずてめぇは気色の悪い美徳を語るよなぁ? 物を奪う行為と、奴隷に堕とす行為。ただ金か、生きた人間かの違いじゃねえか。人間らしい美徳を持ってるつもりなんだろうがてめえらは俺サマと本質的には変わんねえ。とっとと捨てちまえば良いのによぉ。全く……。だがそういう事なら遠慮なく俺サマが頂いてくぜぇ?」
話の様子から察するに、後からやってきた男と今俺たちを囲んでいる盗賊めいた男たちは知り合いではあるが、仲間ではないらしい。
もっとも、それが演技である可能性も捨てきれない。
警戒を辺りに張り巡らせたまま、俺は彼に言葉を投げかけた。
「随分な自信だね」
俺を殺して、アウレールを奴隷に堕とす。
しかも彼は『ウォルフ』まで売り飛ばす腹積もりならしい。
「そりゃそうだろうが。俺サマは元Aランク冒険者——『切り裂きジャック』たぁ、俺サマのことよ。ま、今は働きに応じて人を斬らせてくれる話がわかる奴隷商に身を置いて、こうして攫い屋まがいの事をしてるがな」
男がそういうと、俺とアウレールを除いた他の者たちがあからさまに気まずそうに目を逸らし始める。
恐らくその発言は事実なのだろうが、生憎と俺はその名前を聞いたことがないから、反応のしようがなかった。けれど、男はそれを恐れ慄いて呆気にとられてしまったと勘違いしたのか、喜色ばんだニヒルな笑みを浮かべ、盛大に破顔する。
「まぁ折角だ。得物を出す時間くれえは待ってやらあ」
「……そういう事なら、お言葉に甘えて——」
そう言って、俺が視線を下に向けた途端。
にぃっと『切り裂きジャック』と名乗った男の口端が愉悦に歪み、悪意に塗れた笑顔が一層深まる。
———馬鹿が。
まるで、そう言わんばかりに。
「ひゃはっ、俺サマがご丁寧に待つわけ———」
大地を思い切り蹴り、懐から両刃のショートソードを取り出し、肉薄。
血走った視線は標的にと定めた俺の頸椎部分に向いており、不意打ちに対応できないと踏んでいたのか攻撃の軌道は露見している。
ならば、俺がやることは一つ。
「ねぇだろうがよ———ッッ!?!?」
猛り吼える男に一度として焦点を向けること無く、身体を前に倒す。直後、ぶんっ!! と、刃物が大気を切り裂いた証拠である風切り音が耳朶を叩いた。
「……あん?」
けれど、一向にやってはこない骨と肉を断つ感触に眉根を寄せ、不思議がるような声が次いで聞こえた。
「へえ、運が良いなぁ? おい!!!」
俺のすぐ側で男が着地するや否や、その勢いを利用して左の足を軸にして身体をぎりりと捻り、
「だが」
男の右の足が、俺の腹部へと向けられる。
そして、言葉と共にその脚撃に力が込められ、
「偶然も一回って決まっててなぁ? これで終い、だァッッ!!!」
体重の乗った一撃。
加えて、放つ直前に靴の裏から顔を出す白銀の刃。
俗に言う——仕込み靴。
ぎらりと光る凶刃。
狙うは心臓部。次の瞬間に訪れるであろう未来を夢想し、悦に浸って男は笑い叫ぶ。
遅れて、みしりと。俺の腹部から音が鳴り、今度こそ攻撃が入ったという確かな感覚を肌で感じると共に男の相貌に喜色が湧く。
そして、放たれた脚撃による勢いによって後方に吹き飛ばされる俺であったが、
ずざざざ、と。
砂と靴底が擦れる音が辺り一帯に大きく響き渡る。
「……オイオイ」
言葉巧みに不意を打ったにもかかわらず、初撃を躱され、二撃目も完全に防がれたという事で、男の瞳に驚きの色が浮かぶ。
そして何より、
「なんで血が出てねえ?」
仕込み靴の凶刃は間違いなく突き刺さっていた。
その感覚を直に感じていたからこその感想なのだろうが、俺の腹部には右の手が添えられている。
ベルトリアにて購入したパーカーコートの右袖の部分は少し斬り破られており、刃物で突き刺したような痕が残っている。が、血は一滴足りとも流れはしない。
「申し訳ないんだけど、俺の右腕はもう血が流れてなくてね」
俺のその言葉で全てを理解したのか。
忌々しげに顔を歪めてみせる。
「それと、不用意に人を蹴るもんじゃないよ」
そう言って俺は仕込み靴によって突き刺されていた筈の右腕をあげ、ある場所を指し示す。
そこは、男が俺に攻撃を与えた右の足。
パキリ、と足首のあたりまで綺麗に凍り付いていた足部であった。
「あ、しが」
指摘をされ、男はその事実に漸く気が付く。
「俺は『氷』で、『氷』は俺だ。だから一瞬でも触れられたならば、その程度までなら即座に凍り付かせられる」
パキリ、と。
足下に薄氷が侵食するように緩やかに広がって行く。
「それと、蹴りも軽い。随分と驚いてたみたいだけど、その程度の蹴りで本当に俺を斃せると?」
もし、本当にそう思ってたなら笑い草でしかないと俺は失笑する。
先程の蹴りなど、幾度となく食らい続けてきたマクダレーネの蹴りと比較する事すら烏滸がましい脚撃だ。怖さを微塵も感じられない蹴りだった。
「俺はさ、あんたみたいな悪人に、加減をする気はないんだ。だから———」
風が、吹いた。
冷気を孕んだ小風がひゅうと、一陣の風として場に吹き込んだ。
一歩、二歩と、離されてしまった間合いを詰めるべく無言で俺は歩み進める。
気づけば右の手は、とっくに握り拳になっていた。
このクソ野郎を殴り飛ばす。その想いで頭の中は支配されていた。
「だからさ、俺の目の前から」
———消えてくれ。
最後の言葉だけは風にさらわれ、ちゃんと言えたかも不確か。けれど、これから行う行為には一切問題はない。
何故ならば、強く握りしめられた拳は既に引き絞られており。緩慢であった歩調が加速。そして駆け足から、疾走に。
「———『狂撃』」
ベルトリアの屋敷前。
力比べといってベリアスの前で見せていた『狂撃』とはまるで別格。威力も、放たれる速度も、あの時の数倍強。
「ァが、ぁ……っ」
人体からは聞こえてならない音が拳越しに感触と共に耳に届き、断末魔のような気味の悪い声を残してボールのように砂煙を巻き込んで吹き飛んだ。
辺りに生い茂る木々をバキリバキリとへし折りながら、男だったものが殴り飛ばされて行く。
視界は上下左右へ頻りに移り変わり、拳が直撃した腹部では、折れた肋骨が肺に刺さり、息すらも困難な状況。
それで尚、追い討ちをかけるように襲い来る拳撃の余波。その威力は推して知るべし。
「悪いけど、俺たちに害をなす人に温情はないよ。けど、俺はあそこでくたばってるヤツにちょっと話があってさ。だから、今回に限ってあんたたちに関しては見なかった事にする。でも」
あえて急所を外したのには理由がある。
その訳は、少しばかりあの人攫いの男に聞きたいことがあったから。
だから、盗賊めいた男たちが根っからの悪人には思えなかった事もあり、今回は別に用があるからという事で見逃してもいいと思った。
けど。
「不意を打ちにきたり、俺たちに害をなすというなら」
足下に広がる薄氷が、恐るべき速度で侵食。
数メートル離れていた男たちの足下にまでそれは広がってみせ
「立ち塞がる障害として、力尽くで退かせてもらうから」